凪尾蘭 第三話 秋風が吹くまでに
欲求というのは、とてつもないエネルギーを持っている。
人類という巨大なスケールで見れば、領土欲が、権威欲が、征服欲が、何万人、何億人という命を犠牲にしてまで途方の無い力を生み出していた。
少し視点を変えて文明という方向を見てみると、芸術性や学術性が多くの望みと直結して多くのものを生み出した。
私にはそれまで、自分を突き動かすようなエネルギーを持つ欲求に出会ったことがなかった。
音楽家になりたいという夢はあったが、その夢を育てるだけの環境を与えられていた為か、死に物狂い、という程ではなかった。
思い出されるのは、余程恵まれているはずの先進国の方が自殺率が高いという話だ。
後進国は生き延びることに精一杯で、そもそも自ら死ぬという考えにすら至らない。しかし人間というのは充足さえしていれば、渇望する程の欲求が無いと容易く死が脳裏を掠める。
ある種、私もその先進国特有の病理に罹っていたようなものだ。
裕福すぎる環境が、何かを渇望するという経験をさせなかった。それは、生きながら、死んでいるようなもので。
事実、明日死ぬと言われても、悲しみこそすれ、後悔はしないだろう。そういう希薄な人生が怖かった。
だが、初めて私は渇望している。
恋、なんて可愛らしい言葉で着飾っていても、結局その根源は性欲の一種なのかもしれない。
そんな悍ましい因子だったとしても、私はそれを肯定したい。
寧ろ、誇りたいくらいだ。
私は、綾部純香という同級生に、恋している。
「あの……多分、それって違う、と思います」
どうやら今年は秋が無いみたいですね、と困ったような、少し残念そうな笑顔を浮かべてそんな言葉を交わした綾部さんとの先週の雑談通り、まだ11月も半ばだというのに冬のような様相を露わにしたその日。
私の想いを告げた綾部さんが、辿々しく言葉を紡ぎながら、やんわりと私の想いを否定した。
「違う……?」
言葉の真意を理解出来ずに、私は鸚鵡返しで聞き返すと、更に困ったような表情で小さな唇を動かした。
「そのお話を聞くと、多分逆、だと思います」
「……私は綾部さんが好きなんです。逆とか、そういうことじゃなくて……」
少なくとも、私は勝ち目のない告白をした訳じゃない。何となく、そう、何となくだけど、私に対して少なからずの好意を持っていることは確信していたし、彼女自身、同性愛に拒否反応を示すような性格じゃないことも知っている。
だからこそ、彼女の否定するかのような言葉が戸惑いを生んでいた。
「私を好きって言ってくれるのは、勿論嬉しいです。凪尾さんみたいな、凄い人に好かれるって、多分私には今後、無いことだと思いますし、出来ることなら、その想いに応えたいって、思います」
「なら……!」
「でも、分かるんです。ここで私が凪尾さんの想いを受け止めても、多分、良い結果にならないってこと」
だから、こめんなさい、と。
告白したのは私の方の筈なのに、私よりも悲しそうに目を伏せて頭を下げる。
そんなことをされれば、本当に可能性の芽が無いようにも思えてしまう。
初めての欲求だった。
初めての恋だった。
初めて心の底から自分以外の人間に渡したく無いと思える、欲望だった。
「ま、待って下さい!その、私の何がダメなんですか?言ってくれるのなら、直しますから!」
「……私を好きになったから淡白な人生から変わったんじゃなくて、何かを渇望するような人生が欲しくて私を好きになったんだと、思います。その、だから……」
だから、因果が逆、だと言いたいのだろうか。
誰かを好きになって私は変わったんじゃ無い。変わりたくて誰かのことを好きになったのだ、と綾部さんは指摘する。
そんなことは無い、と否定するべきだった。
だが、彼女の鋭い言葉は、私は容易く閉口させる。図星だった訳じゃ無い、それは綾部さんの勘違いだ、と心の中では否定できる。
それを言葉にすることが出来なかったのは、きっとそう見られてしまった自身の迂闊さを後悔してしまったからだ。
彼女と親しくなれたキッカケのゴールデンウィークのことを思い出す。
まるで走馬灯のようだ。初めてまともに綾部さんと話した日からの半年間、私は何を間違ったのだろうか。
長い長い走馬灯が過ぎる。
そうだった。
これは、私が振られるまでの、短い恋の物語だ。
◇
カラオケ、ボーリングと遊び倒して、私が綾部さんとまともに会話したのは僅か数回に過ぎなかった。
だが、それでも私は嬉しくてたまらなかったし、家に帰ってからもチャットアプリで共有された今日撮影した写真を眺めてニヤニヤとしていた。
いつの間に撮っていたのだろうと思うが、美涼さんはそういう細かいところに気配りの出来る人らしく、十数枚の写真をグループチャットに共有していた。
スマホをベッドの上に投げ出して、今日綾部さんと話した会話を反芻する。そんな幸せな気分のまま寝てしまおうかと考えたが、なかなか寝るに寝れない。
何というか、このまま今日という日を終わらせてしまうのが勿体なく感じてしまったのだ。
もう一度スマホを手繰り寄せ、今度は写真ではなく、通話ボタンを押す。
「もしもし、東堂さんですか?」
『……なによ、こんな時間に』
「ごめんなさい、寝てました?」
時計を見ると十二時を少し回ったところだ。興奮に身を任せて衝動的に電話してしまったが、流石に迷惑だっただろうか。
以前までの私だったら、先にそういう部分に気がまわった筈だが、今の私は衝動に身を任せるまま行動してしまえる。
その後先の考えない衝動が心地良い。
『鷺谷が煩くて寝てないわよ。アイツ、夜元気だからこの時間までずっとチャットしてたの。で、何の用?』
「あの、今日話してたことあるじゃないですか。あの件で」
『えーっと、何の話だっけ?』
「忘れないで下さいよぉ。ほら、綾部さんが来る日に私も誘ってくれるって話です。次はいつ来られるんですか?」
気怠げな東堂さんをよそに私は自分でも見たことないような興奮した口調で捲し立てると、電話越しに彼女は笑った。
『ああ、その話ね。そうね……明後日、多分来ると思うわ。まだ、確定はしてないけど、あの子の性格なら来るんじゃないかしら?私と鷺谷が手伝った彼女の漫画の掲載した雑誌、明後日発売らしいし』
「なら、あの是非、私も」
『あはは、分かった分かった。じゃあ、綾部さん誘っておくから明後日ウチに来なさい。後でウチの住所送っておくから』
東堂さんはそれだけ言うと、じゃあ寝かせてもらうわよ?、と一方的に通話を切った。
通話が切れたスマホの画面を暫く眺めてから、ベッドの上から飛び起きて、熱くなった体を覚ますように夜風に当たる。
静かな山手の住宅街に、私の喜びの声を叫びたい位だ。流石にそれを弁える程度の理性は残っていたが、それでも私の身体の底から突き動かす、強い感情と欲求が心地よかった。
ああ、これが生きているってことなんだ、と。
私は歓喜していた。
とてもじゃないが、今日はとても眠れそうにないな、と。
私は何処か誇らしげに呟いた。
この時の私は、根拠無く。
綾部さんとの未来が明るいものだと信じてしまっていた。
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