米倉柚 第三話 いつか違える道ならば ②

 幼い頃、私は隣に住む同い年の少女こそ、アニメや漫画に出てくる可憐なヒロインなのだと思い込んでいた。

 少なくとも、テレビの中で都合良く危機を乗り越えていくヒロインに自己投影するような幼さ故の夢想は、彼女の存在によって無縁となった。

 そこにあったのは、羨望でも嫉妬でも無かった。

 幼心に、世界はそういうものなんだ、と突きつけてくる当たり前さを享受するだけの純粋さが備わっていただけだ。

 無償の愛を注いでくれる二人の大人が両親だと理解するのと同じように、私は隣家の子のように或いはテレビの向こうのヒロインのように、無条件に愛されるような存在では無いのだと、知ってしまったのである。


 もし一葉が私に与えたものが、そういう無情な現実のみであったのなら、きっと私はもっと真っ直ぐに歪んでいたのだろう。

 一葉は、同時に私にあらゆるものを与えていた。それが私の性格形成にどのような影響を与えたのかまでは分からないが、彼女がいなければ今の私は存在しない、ということだけは分かる。


「だから、同じように、今の一葉を存在せしめているのは自分だと、自負していた?」

 ゴールデンウィークの出来事を懐古していると、テーブルを挟んだ向かい側で東堂さんがアイスコーヒーを飲みながら、私を蔑むように笑う。

 最早、半年近い前のことが懐かしく思われる。

「あはは……、相変わらず東堂さんは厳しいなぁ」

「アンタが壊れていくのは見てきたからね。優しい言葉じゃ、アンタは理解出来ないことも、知ってる」

 東堂さんは、本当に優しい人だ。

 こうしてあの頃のことを懺悔する役を、嫌な顔せずに真正面から引き受けてくれている。

「大人になんか、ならないでって、祈ったんだ」

「それは単なる我儘よ」

「子供のままで、いてほしいって、願ったんだ」

「それも単なる利己的な考えね」

 涙が落ちてくる。

 いや、涙だと思っていたものは、懺悔の言葉などでは無くて。

 もっと卑屈で、卑怯で、怯懦そのものの——。


「それを祈っても、願ってでも。私は一葉の隣が良かったんだ」


 回顧は続く。

 東堂さんの慈愛に満ちた嘲笑と共に。

 一人、大人への階段を進み始めた一葉を恨みながら。


 ◇


 レーンが分かれてしまった一葉と目が合う。

 手を振る一葉の仕草に思わず微笑すると、綾部さんが実に頼りなりヨロヨロとした軌道の球を投げ終えて戻ってきた。

「あはは、やっぱ運動苦手なんだ」

「えと……昔から身体動かすのはどうにも……」

 投げた拍子にズレた眼鏡を直しながら綾部さんは自嘲するように笑う。

「まーでも、ここ三人は良い勝負だねぇ。ま、運動が得意って自負していた美鈴は屈辱だろうけど」

「仕方ないでしょ、ボーリングには運動神経は関係ないって!」

「でも、砂川さん、フォームは綺麗ですよ?」

「お、純香ちゃんは良い子だなぁー。柚ちゃんと大違い」

 と、冗談混じりに抱きつく美涼に驚いって短い悲鳴を上げる綾部さんだったが、直ぐに笑みを浮かべる。

 どうにも、今朝と比べると綾部さんも随分と馴染んで来たようだ。相変わらず、美涼のそういう人を絆す才能には感心する。

「次は柚ちゃんの番だよ。ほら、早く」

「せっつかないでよ。集中してるんだから」

 6ポンドの重みを両碗に感じながら、スーッと息を吐く。

 球技は苦手だ。身体の全ての力を発揮すれば良い、という訳じゃないから。

 それでも、と、左側のレーンの上部に取り付けられた画面を見る。

 一葉のスコアと比べると、まだ上回ってるが、私がここでガーターでも出そうものならすぐに追い抜かれてしまう。

(一葉には負けられないんだよね。特にこういう分野は)

 多分、それが私に期待されている役目の一つで、最低限果たさなければならないラインの一つだ。

 ギュッと唇を真一文に閉じて、ピンを見据える。

 ボーリング球は真っ直ぐ進む。真っ直ぐ進んだはずなのに、間違いなく中央を捉えたはずなのに。

 何故だかピンは不規則に残ってしまった。

 まるで、周囲からの期待ばかりを気にする私を嘲笑うかのように、倒れる役目を期待されているピンは背筋を伸ばして立っていた。


 結局二投目はガーターとなってまたもや半端なスコアになってしまった。

「うーん、このメンバーだと鷺谷さんと東堂さんが一番上手いなぁ。鷺谷さんがこういうの得意なのは意外だったけど」

 丁度ストライクを取ったらしい鷺谷さんが一葉とハイタッチをして喜んでいる。

 随分と、楽しそうだ。

(……)

 アレに近い光景が、多分きっと遠くない未来に現実になるとするのなら。

 私のいない未来が、一葉に訪れるのなら。


「——ねぇ、美涼」

「うん?」

「さっきのカラオケの話なんだけどさ。今度、紹介してよ」

 綾部さんがお手洗に向かい、少しばかりゲームが中断されたタイミングで私は美涼に言う。

 美涼は私の言葉に少し笑った。

「あー、幼馴染の一葉ちゃんには負けてられん、ってやつか。いいよ、今度チャットID送っておくわ」

「別に負けられないって訳じゃあ……。大体、一葉はまだそういうの興味ないだろうし」

 的外れではあるが、否定の出来ない美涼の言葉に思わず反論する。

「ん?聞いてないの?一葉ちゃんのこと気になってる男子の話。あの後、一葉ちゃんに言われて男子の方のチャットIDを渡してるけど。詳しくは聞いてないけど、あの様子だといい感じなんじゃないかなー」

 何でもない話のように、何か意図があるとするのなら男子と良い感じになってる友人を揶揄うくらいの気軽さで、美涼は告げる。

 彼女にとってその程度の出来事でも。

 私にとっては、衝動的に美涼を問い詰めたくなる程の、弾劾したくなる程の、重大な問題だった。

 思わず立ち上がりそうになったところで、私は何を取り乱しているのか、とそこで初めて自問する。


 私より先に彼氏を作りそうだから?

 そんな重要なことを一葉が私に黙っていたから?


 多分どれも違う。

 家族を除けば、一葉にとっての一番は親友で幼馴染の私だった。

 彼女がどんなに友人を作ろうとも、どんなに好きなアーティストやアイドルが出てきたとしても。

 彼女の世界の中で、私の立ち位置は不変だった。

(そっか。一葉にとっての一番は、もう私じゃ無くなるんだ)

 それが焦燥感の正体で。

 大人になり切れない所以で。


 大人にならないでくれ、と思うのは、私が子供のまま置いてかれそうだから。

 なら、私も大人になるしか無いじゃないか。


 その時の私は、本気で、そう思っていたのだった。

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