東堂知佳 第三話 溶け出す心 ②

 時折、私の顔で、私の身体で、私の声で、私を苛む声が聞こえる。


 どうやら両親は私の事を愛していなかったらしい。いや、愛せなくなった、と言うべきか。

 幼少期の頃はそれなりに愛を注がれていた記憶はある。妹が、子役としてデビューするまでは、対等に扱われていた筈だ。


 妹の香苗が、とあるドラマの国民的ドラマに抜擢された時には、あの人達は私を見ることが無くなった。

 小学生の頃、一度だけクラスメイトと大喧嘩をして両親が学校に呼ばれたことがあった。原因がどうであれ、私が一方的に悪いのは明確で、父も母も私を叱りつけた。

 その時の私の胸中にあったのは、喜びだったに違いない。妹の香苗だけに向いていた両親の目が、その時初めて私に向けられたことに、私は喜びを感じていた。

 その時、多分、私の心は歪んだ。何か問題を起こせば、二人は私を見てくれる。香苗なんかじゃ無くて、本当に私の事を見てくれる。

 ——結局そこにあったのは、妹の芸能活動以外に時間を割きたくないが為の行為だということも気づかず、無垢な私は、両親の中にまだ私に対する好意があるのだと信じていたのだった。

 その頃からだろうか、私の顔で、私の身体で、私の声で、私に話しかけてくる幻影を見るようになったのは。


『あの子は貴女のせいで友人なんてものは出来なかった。なのに、貴女は一人で友人なんてものを作って、楽しく過ごすつもり?』

 幻影はいつも私を呵責する。

『——ほら、イライラするんだったら、丁度いいサンドバッグが二人もいる。今更善人なんてなれやしないんだから、いい加減、自分を騙すのは辞めたら?』

 幻影はいつも私を唆す。

 きっと、その幻影は、私の本性だ。




 米倉さんと湯井さんの息のあったデュエットを聴きながら、さて何を歌おうかしら、と端末を操作していると私の横を陣取っていた鷺谷が顔を寄せた。

 彼女の匂いが僅かに鼻腔をくすぐった。紅茶の様な香りがする。

 生意気にもランバンの香水でも付けているのだろうか。

 パーカー姿だというのに、香りには拘っているらしい鷺谷のチグハグさが、どうにも彼女らしくて少し笑みが溢れる。

「知佳、何か歌おうよ、一緒にさ」

 端末の画面を覗き込んで、ねだる様に鷺谷は言う。

「別に構わないけど……」

 鷺谷が普段どんな曲を聴いているのか、全く知らない。

 私の始まって一ヶ月程度の高校生活の殆どは、鷺谷と共にしていると言っても過言では無いが、ふと気付くと、私は鷺谷のことを何も知らない。

 心の中で、彼女のマイペースさや天然さにかこつけて、散々宇宙人だの何だのと、理解出来ない言動に半ば文句の様な悪態をついていたはずなのに。

 だというのに、私は鷺谷のことを殆ど知らないままここまで来てしまった。

 いや、知ろうとしなかった。振り回されるばかりで、そんな余裕は無かった。


 ——歩み寄る、というわけでは無い。

 ただ、好奇心のようなものが芽生えただけだ。と、言い訳めいた言葉を心の中で呟く。

 彼女は一体どんな人生を歩んで、どんなモノを好んで、どんなヒトを嫌悪してきたのだろう。

 そういう深い——決して表面をなぞるだけでは明確にならない部分を、知りたいと思うのは、単なる好奇心に過ぎない。


 そんな機微を察知したのか、それとも単純に鷺谷のマイペースさがそうさせたのかは分からない。

 ただ、鷺谷はいつものような何を考えているのか分からない表情で、端末に表示された曲を指さして、

「ね、これ歌おうよ」

 と提案した。

 それは、決して有名ではない曲だった。しかし、私の知っている曲でもあった。

 思わず鷺谷の顔を見る。

 ——それは、昔、私の妹の出ていた深夜ドラマの主題歌だった。



 ——もしかしたら、鷺谷は私の正体に気がついているのかもしれない。

 そんな疑念を抱くには、当人にとっては重大過ぎる偶然で、他人からしたら考え過ぎだろうと一蹴してしまうような状況証拠に過ぎない。

 今更、妹が出ていたドラマの曲だから、とアレルギー的に拒否する程、私は妹との険悪な関係性に初々しい訳ではない。

 仮面を被るのは得意だ。多分眉一つ動かすことなく、場を白けさせることもなく、鷺谷とその曲を歌い切った。

 砂川さんの提案で人前で歌うことを躊躇していた綾部と凪尾さんが私達の世代なら誰でも歌える有名な曲を歌うのを聴きながら、私はその疑念に対して、立ち向かうことを手放し始めていた。

 仮に鷺谷が私の正体に気づいていたとして、何があるというんだ。有名な子役の姉という立場が、或いはそこから一歩さらに踏み込んで地元のニュースにもなったイジメ事件の主犯という立場が。

 私の過去が曝け出されたところで、もう失う物も欲する物もないのだ。

 だから——、

 そう何度考えても、胸がざわつく。その理由だけは、まだ私には理解出来なかった。


 ◇


 親睦会、というだけあって、幹事らしく砂川さんは色々考えていたようだ。

 ボーリングのチーム分けは、余り交流の無い者通し、ということで、私と凪尾さんが同じチームになった。

 他は、鷺谷と湯井さんチーム、綾部と米倉さんと砂川さんチームに分かれることになった。

 凪尾さんはどうやらボーリングが苦手、というよりも初めてらしくぎこちない動きで球を投げてガーターに入れる度に、戯けたような笑顔で席まで戻ってくる。

 とはいえ、その笑顔には何か意図のようなものを感じる。私の出方を伺うような、どこか私の顔色を伺うような。

 そんな卑屈な笑みだ。

 心当たりは、一つ、ある。

 私は他人が何を考えているのか。感情の細部までは分からないものの、ざっくばらんに理解することが出来る。

 私が両親の顔色ばかりを見て生きてきた、というのもあるし、中学生の頃にクラスのカーストの一番上に居座り続けたのもそういう能力のおかげだ。

 凪尾さんは、綾部に対して何か並々ならない感情を抱いている。初めは、何か二人の間に確執があるのかと思っていたが、今日一日見る限り、それはどうも違うらしい。

(羨望、に近い何か、ね)

 少なくとも単なるクラスメイトに向けるような、強さのものでは無い。

 凪尾さんは何をそんなに綾部に対して想っているのか、それを聴こうと思ったが、どうもそれは野暮らしい。

「ドンマイ。初めてやるにしてはいい線行ってるよ」

「テレビで見るよりも難しいんですね、これ」

「あ、私達が一番最初に終わっちゃったみたいね」

 他のチームはまだゲームの途中だ。

 ゲームが終わった途端、どこか落ち着かない雰囲気の中が私達を包む。

 どんな話題を振ろうか、と考えていると、意を決したように、凪尾さんが私の目を見た。

「あのっ……!私も、東堂さんの家に遊びに行ってもいいですか?」

 何故?

 と訊くほど、私は馬鹿じゃない。

 綾部が私の家に最近入り浸っているという話を、朝にした。

 多分、綾部と親しくなりたい為に、私の家に来たいのだろう。

 純粋に、そんな彼女がいじらしくて可愛らしいと思ったし、素直に首を縦に振ろうとも思った。

 だが、私の悪い癖が、というよりも直すべき嗜虐趣味のようなものが出てしまう。

「綾部さんがいるから?」

「……っ!!やっぱり、東堂さんは気付いていたんですね」

「……あーゴメン、別に茶化すって訳じゃないよ、応援もする。いいよ、今度綾部が来る時、誘うよ」

 彼女の真剣な言葉に私は苦笑しながら、そう言ってやると、凪尾さんは露骨に安堵したような表情に変わる。

 無防備過ぎる、とは思いながらも、それを無防備だと思えない環境で育ってきたことを羨ましく思う。

 だが、対人関係において無防備だということは、無遠慮だということと同義である。

 彼女の無垢な言葉が、まさか、飛び出してくるとは思ってなかった私もまた、無防備だったのかも知れない。


「私も、鷺谷さんとのこと、応援しますね」

「えーっと、え?何言ってんの?」

「あら、違いました?あんなに世話焼くなんて、東堂さんって鷺谷さんのこと好きなんだと思ってたんですけど」

「いやいや、違う。たまたま、アイツが隣の席だったから——」

 あら、勘違いでしたか。

 と、凪尾さんののほほんとした言葉は、もう私の耳には入ってなかった。


 たまたま隣の席だったから世話を焼く?

 そんなの自分だって、嘘だって分かっている。いや、最初はそうだったかも知れないが、それでも普段の私ならどこかで愛想を尽かして放っておいたはずだ。

 分かっていた。いや、知りたくなかった。

 鷺谷に私の過去がバレたところで、どうってこと無い筈なのに、何処か胸がざわつくのも、彼女のマイペースに付き合ってきたのも。

 全部、同じだった。私が望んではいけない類のモノを望んでいただけだ。


 つまり、私は。

 鷺谷と過ごす時間を、どこか楽しく感じていたのだ。


『人一人を不幸のドン底に落としておいて、一人だけ幸せになるなんて。それはなんて卑怯な事なのだろう、と、そう思わないかい?』


 例の幻影が嘲笑する。

 だが、幻影の姿は、鷺谷の顔、鷺谷の身体、鷺谷の声を模っていた。

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