東堂知佳 第三話 溶け出す心 ①

 初めて鷺谷が私の家に遊びに来てからというもの、殆ど毎日の様に私の家に来るようになった。

 あれがゴールデンウィーク二週間前だとすると、すっかり二人の空間に慣れてしまったというのは、それだけの時間を短い間に重ねてしまったということだ。


 今日も鷺谷は私の部屋にいる。

 もはや文句を言う気も起きなかった私は、コンビニで買ってきたバイト雑誌を眺めながら、夕方のドラマの再放送を見ていた。

 最近鷺谷が早く帰ろうと急かすのは、私の家でこのドラマを見る為だったりする。

「ね、バイト探してるの?」

 すっかり占有に成功した部屋の片隅で、寝転がりながらドラマを見ていた鷺谷がCMに入ったタイミングで訊いた。

「ま、一人暮らしだとお金が入り用だしね。何かしらなんなきゃなーって」

 一応両親からの仕送りはあるが、果たして遠方の地で一人暮らしをする娘に対する金額かと責めたくなる様な微々たるものだった。

 家賃と水道光熱費を支払えば、全て消えてしまう。

 食べていく為には、幾らか働く必要があるなとは薄々思っていた。

「知佳は大変だね。——あ、それなら良いバイトあるよ?」

 思わず苛立ってしまう程の興味無さげな返事の後に、鷺谷は思い出した様に呟く。

 私に向けた言葉であるのに呟きのような声だったのはCMが明けてドラマが再開されたからだ。

 相変わらずマイペースな彼女に辟易しながらも、すっかり慣れ切った私は、寧ろそういう部分に見える鷺谷らしさに微笑を浮かべた。

 微笑を浮かべながら——心のどこかで困惑していた。


 生来の私は、こういうペースを乱す人間が大嫌いだった筈だ。

 集団行動から自ずと浮いてくる人間を、空気が読めてないだの何だのと理由を付けて、嬉々として弾劾していたくらいだ。

 標的が一人いれば、その分私の思い通りの世界に近づく。今思えば滑稽であるし、同時に取り返しのつかない誤りだと知ってはいるが、その出発点は、そもそもとしてそういう人間の類が嫌いだからだと思っていた。

 だが今はどうだろうか。

 今まさに、私をイラつかせる原因になり得るマイペースな人間が目の前にいるというのに、それに苛立ちながらも何処かで私は彼女の性格を受け入れている。


 ——知佳は自分が大嫌いなんだね。

 いつか鷺谷が放った言葉が思い出される。

 そんなことは無い、と反論したかった。何故なら自己愛の塊でも無ければ、あんなに残酷な行為は出来ないはずだからだ。

 だというのに、返す言葉が喉の奥から出てくることは無かった。

 私は何を求めてあんな凄惨な行為を行えたのか。もしそこにある理由が、自分を否定するものであったのならば、それこそ、私の犯した罪というものは、言葉通りの形骸化となり果て、理由無き責苦がいじめの被害者であった彼女に向かっていたことになる。


「——知佳?」

 吐き気がして、俯いていた私を心配したらしい鷺谷が私に顔を近づけて名前を呼んだ。

 ハッとして、私は視線を逸らす。

「何でも、ないわ。で、その良いバイトって?」

「んー?じゃあ、明日教えるね」

 と、朝とは違い、午後になって何処か元気になっている鷺谷がイタズラっぽい笑顔を浮かべてはぐらかす。

 追及してもいいが、どうせ教えてくれないだろう、と諦めて私はドラマに視線を戻した。

 何かに集中すれば、少しだけ過去のことを忘れられる気がしていたからだ。


 ◇

 翌日が土曜日だと気づいたのは、鷺谷が帰ってからだった。

 バイトについて明日教える、と言ったのは彼女もまた曜日を間違えたのか、それとも本当に土曜日だというのにウチに来る気なのか。

 まぁ、明日起きてからメッセージで訊けばいいか、と能天気な判断をした私が間違いだった。

 何故なら翌朝、まだ八時にもならない時間帯に鷺谷が臆面もなく堂々とインターホンを鳴らしたからだ。

「……アンタねぇ、いくら何でも早すぎでしょ?」

 朝食にパンを焼いていた私がドアを開けて文句を言うと、そこには鷺谷以外にもう一人、見慣れない姿があった。

「えーっと……」

「ご、ごめんなさい朝早くに。鷺谷さんが、あの、東堂さんなら手伝ってくれるって……」

 確かクラスメイトの……眼鏡をかけた娘で……と、見覚えこそあるが名前が出てこない。

「綾部純香だよー。ほら、知佳、昨日バイトしたいって言ってたじゃん?それで連れてきたの」

 あくびを噛み締めながら鷺谷は紹介する。バイトと彼女に何の関係があるのかまでは、考えが及ばないが、仕方ないので二人を部屋に上げる。

「で、どういうこと?」

「純香とは塾が一緒でさ。中学は別だったんだけど仲良かったんだよ」

「……へぇ。あんまり教室で話してるの見たことないけど」

 まぁ、鷺谷は学校で寝てばかりだから仕方ないけど。

「その……、鷺谷さんが、気を遣ってくれてたんです。私、今殆ど寝れてないから……」

「ん?どういうこと?」

「純香は漫画家なんだよ。丁度受験が終わったタイミングで読切の掲載が決まってね。今は猫の手も借りたいんだって」

 鷺谷に友人がいたことも驚きだが、綾部さんが漫画を描いてる人だということも驚きだ。

 漫画家だと紹介された綾部さんはオドオドしながら、私の顔色を窺っている。

 その怯えたような、不安の色は、きっと過去に彼女が漫画を描いているという一点で嫌な目にあったのだろうと容易に想像がつく。

 そして、それを目敏く見抜いてしまう私は、やはり生粋の加害者気質なのだろう。

 内心、深く溜め息をつきながら、出来るだけ綾部さんを怯えさせないように努めて接することにする。

 私が本能的に彼女が、何らかの悪意の被害を受けやすい性質であると見抜いているように、きっと綾部さんもまた本能的に私が害意を加える存在であるということもまた察していたのだろうから。


「……手伝いはいいのだけれど、私、漫画なんて描けないわよ?」

「い、いえ、あの……本当に簡単な手伝いだけで、いいので……」

「純香は引っ込み思案だからねー。知らない人と作業が出来ないってアシスタントも雇えないんだって」

 だから強引にここに連れてきた、という。

 存外に、鷺谷は友人思いらしい。それが意外だと思ったのは偏に彼女の性格に所以する為ではあったが、同時にそういう人並みの感性があったことも私の驚きを引き出す一助となっていた。


 それにしても、漫画制作というのは、私の想像していた手法からかなりかけ離れていたようだ。

 少なくとも、紙とペンくらいは必要なものかと思っていたが、今はそれすらも不要らしい。

 鷺谷が持って来たタブレット端末と睨めっこしながら、私はそんなことを考えていた。鷺谷自身、何度か手伝いはしたことがあるらしく、タブレット端末にインストールされていたソフトの使い方を私に教えながら、割り振られた仕事をスイスイとこなしていく。

 私といえば、素人ながら、本当に素人でも出来る簡単な仕事、というのが分かる程度の作業が課されていた。

 隣で普段自堕落な鷺谷が私なんかよりも素早く正確に作業しているのが何だか悔しい。

 負けず嫌い、という性格が私をこんな環境に貶めた一因だとわかっている。

 分かっていても、鷺谷に何かが負けているというのは、何故か許せなかった私は、バイト代わりということもあり、綾部さんを本格的に手伝うことを決めた。


 私の脆い仮面が早くも崩れ去り、綾部さんのことを綾部と呼び捨てにし始めた頃。

 砂川さんの提案でゴールデンウィークにクラスの皆で遊びに行くことになった。

 綾部の漫画の手伝いも一区切りして、ゴールデンウィーク位は短期バイトしなきゃなー、と考えていたので断ろうかと思ったが、まぁ、一日位いいか、と私は呑気に考えていた。


 結論的に言うのならば——。

 私はそんな呑気さを酷く後悔することになる。

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