東堂知佳 第二話 君に慄く
人はそれを影だと呼んだ。影はいつだって悪し様に評価される。
例えば、人の腹黒い部分だったり、光の当たらない部分を転じて一点の悪い部分と罵ってみたり。
暗い表情を影を落とすなんて言うし、或いは面影なんて言って過去を指したりもする。
私は思う。もし人生の中に影の様な暗い部分があったとして、それを切り離そうと——無かったことにしようとするのは、自分自身を否定する様なものだ、と。
だからこそ、ピーターパンは自身の影が無くなったことに泣き喚きウェンディに影を縫い付けてもらったのだろう。
彼は子供ながらに知っていたのだ。影とは——罪とは、切り離されてはならないものだと。
私は、ピーターパンの様に泣き喚きはしないだろうけど、罪を背負っていくことの意義くらいは理解しているつもりだ。
もう償うことは出来ないだろうけど、それでも、無くなってしまえなんてことは思えない。
終末を迎えた時まで忘れない事が、最低限、罪を犯した者の義務なのだ。
ぶ厚い影が、校舎の形を薄く歪ませながら模っている。
鷺谷は私の横で歩幅を合わせながら、自然とそれが当たり前だと言わんばかりに飄々としている。
「アンタ、なんでついてきてるの?」
まるで毎日一緒に帰るのが当たり前のような光景だ。鷺谷は夜が近づいて来ると眠気も無くなってくるらしく、今は普段より幾分か瞼は上がっている。
「んー?だって、一人暮らしなんでしょ?」
「私が?……まぁそうだけど」
「じゃあいいよね?」
「アンタ何言ってんの?」
相変わらず何を考えているのか分からないが、どうやら一人暮らしに興味があって、私の部屋を見たいようだ。
ここ三週間くらい付き合ってきて、ようやくその程度の意思の疎通は出来るようになって来た。
それでもやっぱり、宇宙人みたいだ、と思う。ヒトの形をした、人ではない何か。
「……お茶飲んだら直ぐ帰ってよ」
この子は私なんかに何を期待しているのだろう。私の正体が、童話に出て来る悪女に勝るとも劣らない悪人だと知っても尚、同じように接することが出来るのだろうか。
「やった」
子供のように無邪気に喜ぶ鷺谷を見て、まるで私は童話の主人公を騙す魔女のようだと、思ってしまった。
両親とは喧嘩別れ——ああ、いや、喧嘩にすらならなかったが——だったために、実家から持ち出せたものは殆どない。
極度のミニマリストが断捨離を行なった後、とまではいかないが、六畳一間の部屋ですら広々と見える程度には物が無い。
折り畳みのテーブルを出して、冷蔵庫から冷やしておいた麦茶を出すと、物珍しそうに鷺谷はあちこちを見渡している。
そんなに目を引くものなんて、この部屋には無いと思うのだけど。
「ね、知佳」
彼女が私の何を気に入ったのかは知らないが、それでも懐かれてしまった以上、私は邪険に扱いつつも必要以上の悪意を向ける勇気は無かった。
「何?」
とはいえ、彼女に対する私の態度は、酷く冷たく見えてしまうのかもしれない。
それでも鷺谷は私の短い言葉を聴くたびに、ニコニコと笑みを浮かべる。
「私のこと、どう思ってる?」
はて。
人間誰しも、それは常々他人に対して、何処か恐れながらも抱いている疑問である。
恐れているからこそ迂闊には問えず、恐れているからこそ他人に優しくしたり、或いはその逆をしたりする。
だというのに、鷺谷は恐れなんて最初から無いかのように、笑顔を崩さずに、好きな芸能人でも訊くかのような気軽さがそこには介在していた。
「——変な奴、って思ってるわよ」
正直なところ、それが本音だ。
もはや何が変なのか、その理由を一つ一つ詳にする必要すらないほどに、変わった人だと思っている。
鷺谷は、少し首を傾けた。
ワンレンショートの黒い髪が、重力に負けて、左頬から宙にぶら下がっている。
「じゃあ、知佳は優しい人だ」
「へ?」
唐突な評価に、私は思わず変な声を出した。
理屈が分からない。
いや、理屈どころでは無く、その思考の道程が微塵も理解出来なかった。
私には縁遠い評価だ。それこそ、以前のように良い人の上っ面を演じていた時には、時々そうやって評されたことはあるが、あれだって単なるお世辞にしか過ぎず、口にした相手も私も、それを本気にはしていなかった。
だというのに、今は何も演じていない私のことを、鷺谷は優しい、と評した。
そしてそれは、出任せの言葉では無いことも、理由なき言葉で無いことも、分かってしまう。
「……適当ね」
意に反して本気にしてしまいそうになる私を律するかの如く、そう言い放つ。
或いは、願望だ。
鷺谷が本気でそんな印象を私に抱いておらず、適当に言い放った発言であってくれ、という願望だ。
(そうあってくれないと……怖い)
私は私を優しいなどという縁遠いカテゴリに当て嵌めてしまえる人間が存在していることが、怖い。
そういう印象を無意識のうちに抱かせてしまったのなら、そういう振る舞いをした自分の厚顔無恥さが怖い。
「——知佳は、自分のことが大嫌いなんだね」
私より、私のことを理解していそうな彼女が——怖い。
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