凪尾蘭 第一話 幸福者の憂鬱 ①


 義務教育期間中に公立の学校に通うのは、親の方針だったが、本音を言うと私立の学校に行きたかった。

 自慢じゃないけど、私はそこそこ良家の一人娘で、一般的な家庭と比べると些か裕福な方だった。

 周囲は私の様に長期休みの度に海外旅行なんて行かないし、お小遣いも友達と比べると、言うのが憚れる位に貰っていた。

 いつしか、私は周囲と比べて、幸福過ぎるんだと理解してしまった。恵まれ過ぎた環境に身を置いているということは、きっとその分だけ誰かの幸福を奪っている様な気がした。きっと私立の学校なら似たような家庭の生徒もいるだろうし、こんな思いはしなくていいんじゃないかとも考えた。

 別にお金持ちだから虐められたとか、そういうことすらなかった私の人生は、一層、何一つ不自由の無い生活を息苦しいものに変えていった。

 だから一度、両親に私立の中学に転校したいと申し出たことがある。だが、大抵の我儘なら叶えてくれる両親も、その教育方針として義務教育期間中は公立に通わせるというルールだけは厳格に守るべきものだと重点を置いていて、にべもなく私の願いを一蹴した。

 友人は多くいたし、それなりに仲も良かった筈なのに、私はクラスメイトの誰とも違う存在のような気がして、息苦しかった。

 だからあの息苦しい教室から逃げ出したかった。

 あの子を初めて知ったのは、あと一年も息苦しさの中で過ごさなければならないのか、と転校を両親に反対され憂鬱な気分で登校した日のことだった。

 私が国際コンクールで金賞を取った、という事実が全校集会で発表された日でもある。私としては、国際コンクールとはいっても、ジュニアの部だし、本当に才能のある人間は大人の部に混じって大会に出ているのだから、むしろ恥だとすら思っていた。

 だが、そんな事情すら知らず、単純に我が校の生徒が国際的なコンクールで入賞したという事実のみが学校側にとっては誇らしいことのように取り扱った。

 壇上で大して親しくもない校長先生が、一生徒にしか過ぎない私を持て囃す度に、私は針の筵に座っているかのような気分だった。

 実際、この学校に通っていたから金賞を取れた訳ではないし、たまたま学区が重なっただけの筈なのに、何故こんなにも我がことのように誇らしげに語れるのか、理解すら出来ずにいた。

 私より頭の良い生徒だっている、部活で頑張ってる子もいる。

 そういう生徒達の頑張りこそ、学校のおかげなんじゃないだろうか。彼らが称賛される機会を、私が奪ったんじゃないだろうか。

 ——なんてことを、考えてしまった。

 そういう気持ちと、クラスメイトの称賛の声に耐えきれなくなって、私は授業中に気分が悪いと保健室へ向かうフリをして、逃げ出した。

 逃げ出した先に、彼女がいた。

 泣いている、少女がいた。


 君はあの時のことを覚えていないかも知れないけど、私がどんなに君に救われたか。

 まだ、伝えてすら、いない。



 阿津実高校への進学を希望した時、両親は珍しく不思議そうな顔をした。あれだけ私立の高校を望んでいたのにも関わらず、折角の義務教育を終えた後に私が望んだのは、公立への進学だったからだ。

 あれだけヴァイオリンに熱心だったのだから、もしかしたら留学したいと言い出すことすら覚悟していたのかもしれない。

 勿論、本場の音楽を肌で触れたいし、そこでしか得られない経験はあると思う。将来のことを見据えて、フランス語だって学んだ。

 だけど、それはいつでも出来る。それこそ、高校を卒業した後だって、私が練習を怠らなければ、問題無く。

 だけど、私は知ってしまった。あの日、私を救ってくれた彼女が、阿津実高校へ進学するということ、聞いてしまった。

 それを知ったからには、自分の気持ちに見て見ぬフリなんて出来なかった。


 綾部純香あやべすみか、というらしい。

 目立たない子で、中学の時はどうやら隣のクラスだったようだ。

 いまだ話したことはないので、彼女がどんな人なのかすら、まだ私には分からないが、それでもあの日見た彼女は綺麗だった。

 泣き腫らした目で、嗚咽を上げていた。クシャクシャに丸めた紙屑を手に、溢れ出る涙を拭いながら、それでも悲哀に暮れるのでは無く、憤怒と強い意志の様な何かを感じた。

 私はそれを、渡り廊下の柱の近くで眺めていた。

 何を泣いているんだろう——。

 それを訊きたくもあったが、そんなことよりも彼女の泣いている姿が美しくて、目を奪われてしまった。

 やがて——彼女はようやく立ち上がり、手に持っていた紙屑を荒々しくゴミ箱に投げ入れると、去って行った。

 彼女が捨てて行ったくちゃくちゃに丸められた紙を開いてみると、そこには落選の文字が踊っている。

 見ると、何かの漫画雑誌の賞に応募していた様で、それが落選したらしい。


 そんなこともあって、私は彼女のことを気にかける様になった。

 世間はどうやら、結果の出ない努力する人間を馬鹿にするらしい。クラスメイトに彼女のことを訊ねてみると、何処か小馬鹿にしたような口調で、漫画を書いているオタクだと説明した。

 それでも、放課後教室に残ってせっせと作業する彼女を見ることも少なく無く、せせら笑いながら必死になっている彼女を遠巻きに見ている生徒を何人も見た。

 ——もし、私が彼女の立場だったなら。

 誰かに馬鹿にされながら、努力なんてできただろうか。

 ——もし、私が彼女の立場だったなら。

 結果を残せない自分に対して、あんなにも熱い涙を流せただろうか。

 本当に称賛されるべきなのは、彼女のような存在だ。


 いつしか私は、彼女に惹かれていた。

 結局卒業まで、声を掛けることは無かったが、気付けば私の感じていた居心地の悪さは、どこかへ消え去っていた。


 凪尾蘭という恵まれた存在は。

 この時初めて、望んでやまないものを、望み始めていた。

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