33.十二月括り「シンデレラデー」
ケーキを食べ終えると、皆は灰かぶりのまま仕事に戻った。年の瀬という事もあり、仕事はまだ山の様にあったからだ。
午後になると朝方の大掃除の疲れが、どっと押し寄せて来た。頑張って看板を磨いたせいか、左手はもう力が入らない。ファイルを掴んでも落としてしまうし、終いにはコップが手から滑り落ち、お茶をデスクの上にぶちまけてしまった。
「うわっ」
皆が黙々と作業する中、私は小さく叫ぶ。皆の邪魔をしない様、静かにティッシュで拭き取る。
拭いてる最中にも、左腕はぷるぷると震え続けて筋肉が痛んだ。そして痛みと震えで上手く拭けない。
体の老いも感じたが、それよりも恥ずかしさと情け無さで、一人で静かに笑ってしまっていた。
その老いを感じたせいか、私は昔の事を少し思い出していた。会社を設立した頃の事。
当時の私は、右も左も分からずに、行き当たりばったりの毎日を送っていた。それこそ、会社を設立しようと思い立った日にも、会社の設立方法さえ分からない程の無知で。ただ何か、世の中に良い事をしたいという気持ちだけで動いていた。
やりたい事業を決めて、会社を設立した。そして、色々な人と会う中で、私はある事を思い知った。
それは、良い意味でも悪い意味でも、世の中が単なる歯車の集合体に過ぎないということ。色々な仕事や利害が組み合わさって動き、社会が形を成している。例えどんなに汚くとも、社会を動かす歯車であれば良しとされる世界。
歯車が動く事で、私達人間は生きている。歯車が止まってしまえば、途端に人は死んでいく。部品が壊れれば動かなくなるおもちゃの人形の様に。もう人間は、完全な生身ではない、機械化された生き物なのだと思えた。
だから私は、人間の心で動く事業をやり遂げたいと思った。人間が、完全な機械人間にならない様に、生きた血が通う歯車になりたいと。
けれども、社会というものは、そう言ったものを酷く嫌っている。代わりに効率的で、生産性が高く、見せかけの道義を晒しているものを、社会はとても好んでいる。それはとても野生的であり、そして酷く血生臭い価値観である。
社会を生き物に例えるならば、力至上主義という歪な骨格を備え、保身の為の嘘という贅肉で十分に肥えた体で、腐敗臭を撒き散らす様な生物だ。そしてあらゆる欲を貪るゾンビの様なものだと、私は思う。脳みそなんて、欲に反応する嗅覚と、嘘を生み出す事位しか作動しない。心なんて、ずっと昔に捨て去ってしまったのだと思う。
私達は、そんな社会の中で生きている。倫理に従い、お金を生み出し、平和という広告に使えそうなキャッチコピーを口にして、或いは笑顔を浮かべる。そうして長くともせいぜい数十年の人生というものを終えていく。
時に素晴らしいドラマティックな一コマが、人生の中に差し込まれる事はある。或いは、夢とか希望とか信条とか、そう言った息抜きに没頭する事だって、私達には可能だったりする。
でも、社会だけは変わらない。
だから私達は、社会を見て見ぬふりをして染まって生きていくか、染まらずに生きていくかしか無いのだ。
人間も社会も、そう言ったものだと客観的に認めて割り切る事はとても大事な事だと、私は思う。
でないと、迷う事がとても多いから。
だから私は、染まらずに生きていく事を、迷わずに決めた。理由は、その方がカッコいいし、面白そうだから。
本当は、事業や仕事という形式なんてどうでも良いのだけれど、社会の中で動く為にはその形式が重要なのだ。
「社長、ずっとニヤニヤしてるんですけど、どうしたんですか?」
加藤さんがパーテーションから顔を出してこちらを覗いていた。
「社長はよく妄想してるから」
佐々木さんがパーテーションの裏でそう言った。
パーテーションの裏で、他の人達が笑った。
「そうなんですか」
加藤さんも半笑いで私に尋ねてくる。
私は真顔のまま黙って頷いた。
パーテーションの裏では、妄想というワードから会話が始まっていた。
「で、どうしたの加藤さん」
座ったままの私は体を向けて加藤さんに尋ねる。
「あ、稟議書の件でお一つ相談が」
目を少し大きくして、加藤さんは笑顔を作る。
私は話を聞きながら、加藤さんの目と仕草に注視した。そこに現れる内心を探る。
加藤さんが、その案に余程の熱量を注いでいる事は知っていた。だから私は、賛同しながら案の内容についての精査を促した。
「貧困層が上手くのってくれるかが鍵だね」
私はデスクを見つめながら言った。
「そうですね」
加藤さんはそう言って、ゆっくりと息を大きく吸って背筋を伸ばした。
「私が思う事を最後に一つ、言っていい?」
加藤さんが息を止めて、はい、と答えた。
「この案には、仕組みよりも必要な要素がまだ揃ってない。それは、加藤さんの覚悟だよ」
加藤さんは私の言葉に深く、二度頷いた。
「加藤さんが、実現させるんだ。近い将来、この案が形となって、何らかの成果を社会に齎すよ。加藤さんはその風景だけ見続けて。みんなで協力するから、大丈夫だよ」
私の言葉に、加藤さんはキレのある頷きをした。
夕方。仕事を終えた皆が帰宅していく。
パソコンモニターを睨む私の目の前に、一本のミルクティーが差し出された。加藤さんだった。
私は、ありがとうと言いながら、笑みを向けて加藤さんの目を見た。
彼は、私と目が合うと一度下を向き、また私の方へ向き直った。
「社長、その代わり一本付き合って頂けませんか?」
回転する球が綺麗な弧を描き、レーンの真ん中でピンを吹き飛ばした。カコンという良い響きに、私はニヤつく。
私は加藤さんのボウリングに一本付き合っていた。
「社長、カーブ上手いですよね」
「小さい頃、お父さんに教えてもらったんだ。性格がひねくれてる奴はカーブが上手いんだ、だからお前はカーブが上手いって」
私の投げた球は、レーンの中心から端へ転がり、やがて、狙った通りに急転回しピンの中心へ切り込む様に到達した。横回転の球が、まるで強烈な台風の様にピンを弾き飛ばす。
カコンと言う響きで、レーンにまた笑みを溢す。
隣のレーンで、加藤さんは真っ直ぐな投球をする。球はピンの中心を射抜き、ピンの群れに綺麗な穴を開けた。
「社長は、確かに少し変わってますよね」
「素直だね、加藤さんは」
加藤さんが次の狙いを定めながら、私に聞いてくる。
「社長は、何で会社を作ろうと思ったんですか?」
「唯一の事をしてみたい、そう思ったんだ」
私はさらっと答えた。
「唯一の事を、ですか」
「うん。なんか、生きた証みたいな、私だけの特別な事をしたくなったんだ」
「ああ、何となくわかります。カッコいいっすよね、そういうの」
加藤さんはそう言って、また真っ直ぐな球を繰り出す。
「そう?私は加藤さんの方がカッコいいと思うよ、素直で真っ直ぐな所」
「素直、そうですかね」
真っ直ぐな球は先程と同じ所を通った。プレートによって押し倒され排除されるピンを見つめながら、加藤さんは一つ溜め息を吐く。
「素直だよ、それが一番大事だよ」
私はそう言って球を構える。
「そうですか」
加藤さんもそう言って球を構えた。
「うん。例えばさ、何気ない事って沢山あるじゃん?てか、毎日何気無い事ばっかりで。だから、人間は偶に夢を見ないとダメなんだよ」
「ダメ、ですか?」
「そう。いつも地面の上で起きる事ばっかり見てると、嫌になる。嫌になって、腐ってしまう。だから偶には、綺麗な空を見上げたくなるんだよ、人は」
「なるほど」
「でも、その時に空を恨めしそうに見上げたり、変に見下した様にしてる人はカッコ悪いし、せっかくの綺麗な空も台無しじゃん。だから、真っ直ぐな眼で空を見上げる人はカッコ良いよ、とても良い眼をしているから、空が良く似合う。真っ直ぐな人は、夢が良く似合うんだ。私はそう思うよ」
私はそう言うと思い切り球を投げた。球はレーンの真ん中から端へ向かったが、勢い余ってそのままレーンの溝へ落ちてしまった。
「社長って、存外ロマンチストですよね」
加藤さんはそう言うと、球をカーブの投げ方で繰り出した。球は横回転しながら突き進んだ。しかし、ピンに到達する前に溝へ落ちていった。
「そうだよ。ロマン主義がいないと、世の中同じ顔だらけになって、つまんないと思うよ」
私はスコアを見上げた。8ゲームを終えて202。私は小さく頷いた。
加藤さんが私のスコアを覗いて小さく、おお、と声を出す。
私は球を構え、力を右手に溜める。
加藤さんも同じく、球を構えた。そして、レーンを見ながら言った。
「それは確かに、つまんないですね。社長って、なんかいつも、面白いかどうかが重要な判断基準ですよね」
「面白い以上の、重要な要素なんて無いと、私は思うけどね。だって、やる本人がつまんないまま何かやったとしてもさ、例え結果が良かったとしても、やっぱりつまんない事で終わるじゃん。シンデレラだって、そうなんだから」
「シンデレラって、あの童話のですか?」
加藤さんは堪らずこちらを向いてきた。
「そう」
私は敢えてそれ以上語らなかった。これも教育なのだ、私の中では。
それに、私は考えが無い人に心の内を晒せる程、出来た人間でも無かった。だから時折そうして、話を留める。
私は球を勢いよく転がす。ピンを真ん中から打ち倒したが、右端に一つ残ってしまった。
加藤さんはというと、ストライクを取ってガッツポーズをしていた。
私の二投目は左手でのカーブだったが、ピン前で敢え無くガターだった。大掃除のせいで左手に力が入らなかったからだ。
「やっと追いつけそうですよ」
加藤さんがスコアを見比べて言った。加藤さんのスコアは9ゲーム目でストライクを取り、8ゲーム目では186。私は9ゲーム目を終えて211。加藤さんが次の一投目にストライクを取れば、お互い良い勝負。
特に賭けをしている訳でも、どうしても勝ちたい訳でも無い。私は無思考のまま、加藤さんの結末を見届けようとしていた。
「社長、僕が勝ったら、付き合って下さい」
加藤さんは突然そう言うと、思い切り球を投げた。球はピン全てを勢いよく打ち倒した。ストライクを取った加藤さんは実質206となり、そして残り二投次第で十分勝つ事が出来る。
「付き合うって、私が?」
「そうです」
「いや、何でだよ」
私は冗談のつもりで笑いながら軽い口調で返し、球を持ち上げる。
けれども、加藤さんは違った。私の事をじっと見つめてくる。
「社長、いや、燈さんは、良く考えてから付き合う感じですか?」
加藤さんのその言葉に、私は奥歯を噛み締め、だが球は力を込めずに送り出した。
加藤さんの軽いノリは、認知していたが好きでは無かった。私は今、冷静に対処する必要がある、社長として。
「いや、別に良いけどさ」
そう言って私はまた球を送り出す。
「え、良いんですか」
加藤さんの表情が少し真面目になる。
私は最後の球を送り出すと、つまらない物を見ている様にして言った。
「私と付き合ってもつまんないと思うよ。私が、恋愛を面白いと思った事無いから」
球はピンを全て打ち倒した。私のスコアは241で終了した。
加藤さんが瞬きの数を増やしながら、自分のレーンに戻ってゆく。
「シンデレラはね、酷い仕打ちを受けても内心では人生を楽しんでたんだよ」
私は加藤さんの背中にそう語りかけた。加藤さんはゆっくり振り返り、難しい話を聞くかの様に、眉間に皺を寄せた表情だった。
私は続けた。
「いつか、絶対良い日が訪れる事を信じてたんだ。その夢を見る力があるから、辛い日々を耐えれたし、舞踏会に行けたんだ。人生に絶望していたら舞踏会なんか怖くて行けないし、万が一行ったとしても、そんな暗い顔したシンデレラに誰も振り向かない。だから、大事なのは自分自身の心の在り方だ。そして、その事にどうやって自分で気づくかなんだ。誰かにどうこう言われたって、本当に気づく事は出来ないんだ。その事だけは。それを君に気づいて欲しかったんだよ、私は」
「えっ」
加藤さんがひ弱な小声で答える。
私は笑顔で言った。
「私は今を楽しんだ、君よりもね。だから、君の負けだ」
加藤さんがもしその時に、もっと冷静だったら、私は負けていたのかも知れない。
加藤さんは、眉間に皺を寄せたまま球を放った。ピンの群れは真ん中をくり抜かれ、両サイドに二本ずつ残っていた。
ストライクを取れなかった加藤さんは、負けた。
「あー!」
加藤さんが蹲り叫んで悔しがる。
「挑発に負けたね。こうやってやるんだよ、挑発は。分かった?加藤くん」
私は満面の笑みで、加藤くんの耳元に囁いた。
私を見ながらも、何も言い返せない加藤くんを置いてけぼりにして、私は会計を済ませた。
帰り道。寒空の暗さを良いことに煌々と光る店の看板達に見下ろされながら、加藤くんと肩を並べて歩く。よく冷えた缶コーヒーを持ちながら。
「そいえば社長、さっき言ってた唯一の事って」
加藤くんが、勝負の件を無い物にして話しかけてきた。
「ああ、会社作った理由ね。何だと思う?」
私はそう言って缶コーヒーを啜る。
加藤さんは困った様に、また眉間に皺を寄せる。そして真面目な顔で答えた。
「ヒーローとかですか?」
私は咽せて笑いながら、加藤くんの背中を何度か叩いた。
「面白いね、加藤くんは」
きょとんとしたままの、幼い表情の加藤くん。私は加藤くんの前らへんの空気に語った。
「なんか恋とか愛とか、綺麗とか素敵とか、成功とか失敗とか、喜びとか苦しみとかを吹っ飛ばす様な事を作ってみたいと思ったんだ」
「ん……と。どう言う意味です?」
「世の中には、そんな事に関わりが無い人達と、それらに興味が無い人がいるって事だよ。後は自分で考えなさい」
私はそう言って加藤くんに笑いかけた。
「謎過ぎる」
加藤くんのその言葉に、私はまた笑った。そしてふと時計を見る。
「やば!もうこんな時間じゃん」
私は加藤くんに叫んだ。
もう終電間際の時刻である事に気づいた私達は、駅に通ずる階段まで走った。
そして、階段を急いで駆け降りた。急ぐ事と、間に合うかどうかのハラハラが、とてもおかしくなって私は笑った。そんな私の手を、危ないからと加藤くんが握ってきた。手は、とても暖かかった。
私は敢えて、その手を離さずに階段を降りた。まるで、魔法が解けるシンデレラの様な展開だと思えた。私は少しだけ、強く手を握り返してみた。
階段が終わり、帰路の違う私と加藤さんはそこで別れる筈だった。けれども、加藤さんは手を離してくれなかった。だから私は、その手をするりと解き、笑って言った。
「シンデレラみたいな時間は終わりだ。明日も宜しくな、加藤さん」
「あ……」
目を大きくする加藤さん。しかしすぐに照れ笑いで、はいと答えた。
私と加藤さんは、静かに背中を向け合って歩き出した。
私は思った。
シンデレラに一番楽しかった事を聞いたら、間違いなくこう言うだろう。魔法にかかって煌めいた、舞踏会の夜だと。束の間だからこそ、強烈に感じる高揚感にときめいたその時だと。
そんな時間を部下に齎せたのだから、私にも何か幸運が訪れるだろう。そう思いながら、私は痛む手首をさすった。
一年謳歌 燈と皆 @Akari-to-minna
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