第25話

「ダメっていうのは、どういう意味だ?」

 黙っていることに堪えかねた口元が、勝手に動いて空気を弛緩させようと動き回っていた。空気のイトを探し当てることができず、ただ言葉が宙に浮いていた。

「その子のこと忘れたままじゃ、ダメですか?」

 重力に従うように、顔を伏せる彼女。垂れた前髪が、彼女の感情を隠すように前に立ちふさがる。それでも、隠し切れない感情が声色となって漏れてでる。

 何かがおかしい。

 里奈と瑞希が同一人物である。

この考えは俺の中で、強い確信のような物を持っていた。その結論に一人行き着いていた身としては、彼女の態度が腑に落ちない。

俺は現状に置いてけぼりを食らったように、固まっていた。音を立てて、思考回路までもが凍結されていくようだ。

瑞希のことが好き。ということは、目の前にいる里奈のことも好きということと同じだ。それなのに、目の前の彼女は淡い感情とはかけ離れた表情をしていた。

 彼女の瞳と共に、感情が揺らいでいる。

 違和感を抱いた点は、そんな抽象的な物だけではなくなっていた。

自分の正体を明かすわけでもなく、忘れさせようとしている?

この彼女の言動の意味が分からない。理解をすることができないでいる。

正体を明かして、ハッピーエンド。それですべて解決するはずだろう?

 何か、俺は重要なことを見落としているのか?

「私なら、一緒にいることができます! ずっと、ずっと、ずっと!! 今の私の方が! 絶対に!」

 ずっと溜め込んでいたことを吐露するように、せき止める物を失ったように、留まることを知らない感情が流れ出る。強く握られたシーツの皺が一段と深く刻まれる。

 顔を上げた彼女は、無理やり作り上げたよう顔をしていた。

強く結ばれた口元。小さく啜る鼻。涙を多く含んでいる瞳の潤い。その全てが、いつもと違うのに、いつも通りを演じようとするものだから、ちぐはぐな感情を張り付けたような表情をしていた。

「せんぱいは、里奈と瑞希。どっちの私が好きですか?」

 隠されていたと思っていた答え。それを急に提示された。

不意に差し出された答えに、思考がついていけない。強制停止をかけられた思考は、再び動き出したところで、まともに動かない。

 彼女の言った言葉の意味が、分からない。

 一択しかない選択肢なのに、ぼやけて二択に見えている。

「どっちって、どっちも、お前だろ?」

「それじゃあ、今の私を愛してくれますか?」

「そんなの、」

 決まっている。そう言いかけた言葉が口から出てこない。

 感情が蔦のように絡みついて、その言葉を発することを止めている。目視で確認をすることもなく、絡みついたそれが俺の口を塞いでいた。

なぜ止めるのか。その理由が分からないほど、俺は子供ではなかった。

 俺は今の彼女を愛していなかった。

 容姿は可愛らしく、活発的な性格。難癖をつける方が難しく、重箱の隅を楊枝でほじくるようなものだ。

彼女の言動に何度も心はときめいた。それだというのに、俺が抱いた感情はいつになっても色づくモノではなかった。

 不意に心の端に何かを見つけた。よく見てみると、しばらくぶりに見つけた感情であったことに気づかされる。

 俺が目の前の彼女に言葉に詰まった理由。それは、凄く単純なことだった。俺の心の中には色づいたモノがすでにあったのだ。

今の彼女ではなく、別の人のために色づいた感情。古風で淡い桜色。容量が少ない俺の心には、その感情が二つも存在することができなかったらしい。

 今の今まで、見えずに隅の方に置かれていた感情。探してみないと、よく観察しないと見つけることができないような位置にあった。

 まるで、誰かによって故意的に隠されたように。

 だからこそ、言葉に詰まったのだった。

俺は発した言葉の続きを述べることができなかった。かと言って、ここで黙り込むのは卑怯だと思った。

だから、見繕わない、素直な言葉を口にすることにした。

「今のお前を好きにはなれない。俺は、瑞希が好きみたいだ」

 例え、同一人物であったとしても、俺は里奈を選ぶことができなかった。

里奈を選んで、二人仲良くハッピーエンド。失恋ではなく、恋愛成就をするはずだった。先ほど決めたばかりだった。

 同一の人間。ただ名前と立場が違うだけ。それならば、目の前の彼女を選ぶべきだ。利口な人間ならそう考えるだろう。俺だってそこまで阿呆ではない。そんなことは分かっていたんだ。

 けれど、ひっそりと大事そうに隠されていた感情を目の当たりにして、その考えは姿を消してしまった。

 しとしとと降り止まない雪のように、積み重なっていった感情。忘れていようとも、相当な年月をかけて形成したのだと容易に想像できる。そんな俺の気持ちを、覚えていないからという理由で無視することはできないと思った。

考えることができても、行動に移すことができなかった。

結局、俺は口先だけの馬鹿野郎だったらしい。

「……負けちゃいましたね」

 彼女は何かを諦めたように、肩の荷が下りたような笑みを浮かべた。目元に浮かんでいた涙は、流れずにその場で留まっている。

 目の前にいる女の子ではなく、別の女の子を選んだ。そんな選択をされ、目の前の彼女は失笑していた。

「でも、言質は取りましたから」

「え、なんの?」

「私は忘れませんから。例え、私しか、覚えておくことができなくても」

 彼女はしみじみと、胸の前で包むように手を握っていた。大事そうに、何かを引き寄せるようにして。

 彼女だけが納得をしている。そんな雰囲気を感じた。

一体、何に対して納得しているのか、そのことにさえ気づくこともできない。

「失恋しちゃいました」

「そう、なるよな」

 達成感さえ感じていそうな表情。やりきったから悔いはない、とでも言いたげな爽快な感情さえも見えてくる。

「少しだけ、外しますね」

「あ、ああ」

 いつもの活発な笑顔。無理をしている感じはなく、見慣れたいつも通りの顔をしていた。いつの間にか会話の主導権を握られ、俺は彼女の言葉に頷くことしかできないでいた。俺は呆然とその場に残され、彼女は部屋から出ていった。

 扉の音がいつもよりも部屋に響く。静かに閉められたはずなのに、耳に残った音が消えていかない。

そんなことに気がついたのは、彼女が部屋を出てしばらく経ってからだった。

 結局、『失恋の神様』によって、俺達は失恋することになった。急展開もなければ、ドタバタ劇になることもなく、あっさりと。

 肩透かしを食らったようで、気がつけば台風は通り過ぎていた。俺はその中心にいたはずではなかったのか? 

その中心にいて、過ぎ去るまで気づかないなんてことがあるのだろうか。

 これが小説のような失恋なのだろうか?

 こんな失恋、意味があったのだろうか?

 未だに俺の記憶は蘇らない。部分的な瑞希の記憶と、『失恋の神様』の神社に足を運んだ事実しか覚えていない。不完全燃焼な失恋。

 おかしい、確実に何かを見落としている。

 今頃になって冴えてきた思考に駆られ、俺は自室を飛び出した。

まだ里奈は何かを隠している。

 展開されたものが回収されていない。何よりも、俺はまだ失恋をしていない。

 勢いに任せて部屋を出て、すぐ隣の彼女の部屋にノックをした。いつもよりも少し大きめになるノックの音。

「里奈! ちょっといいか?」

 数度のノックを繰り返しても、返事はなかった。俺の部屋を出てから十分も経っていない。寝るには時間も早すぎる。

呼びかけに返答しないのを不審に思い、悪いと思いながらも部屋の扉を開けた。

「里奈―、入るぞ?」

 開けてから思い出す彼女の言葉。

『私の部屋、開けないでくださいね』

 下着などが干してあるから、恥ずかしいと言っていた。

時すでに遅し。彼女の言葉を脳が思い出すよりも先に、彼女の部屋の扉を開いた。

一歩だけ部屋に踏み込み、辺りを見渡す。

彼女の言葉通り、窓際には色鮮やかな下着が干されていた。しかし、俺の視線と思考はそれをスルーして、部屋の全体を見渡していた。

 見覚えがある。

 当然と言えば、当然だ。俺の家なのだから、見覚えがあるのは当たり前。

彼女の言葉が引っかかる。

『泊まりに来た時に使わせてもらってる部屋ですよ。先輩の部屋の隣』

 鼻先をくすぐる、微かな甘い香り。その香りが引き金となり、靄のかかっていた記憶に軽い息が吹きかけられた。

「あ……」

 急に露になった繊細な記憶。考えるよりも先に、体が動いていた。

俺は配慮することなく、彼女が使っている部屋に入り込む。

何かの衝動に駆られるように、記憶の端を掴むようにして入り込む。向かった先は、勉強机だった。その上に設置されている本棚。

 教科書が整頓されている本棚から、一冊のノートを引き抜いた。学校で使われているような、大学ノート。その表表紙を確認する。

 下の方に書かれていたのは、そのノートの持ち主の名前だった。

 記憶の封を解くように、彼女の名前が俺の脳内で弾けた。閃光弾のような刺激はなく、夕日を溜め込んだシャボン玉が弾けるように。

その音と光が収まった時、俺は再び映画館に来ていた。

 辺りを見渡すと、相変わらず俺と映写機を回す影以外には誰もいない。振り返ってみると、俺の頭の中からフィルムが伸びていた。いつもと同じパターンだ。

俺は脳内に伸びているフィルムを乱暴に引き抜き、フィルムを一時的に弛ませた。そのまま目の前にもってくると、フィルムの中をスクリーンよりも早く見ることができた。

小さく描かれたフィルムの中には、『失恋の神様』の神社と俺の姿。

 何で今まで忘れていた、くそ。

 そのファイルは俺の手の上を移動していき、映写機へと引き込まれていった。俺は椅子に座ることなく、スクリーンに映し出された記憶に目を向けていた。

『やっと着いた』

 息切れ交じりに、疲れ切っている俺の声。

本来あるべきポップコーンを咀嚼する音などがないせいか、普段よりも響いた音が俺の耳に届いてくる。

映像に映っているのは、一人称視点の映像。夏の風物詩であるセミと虫の鳴き声を背に、自転車を止めて神社を眺めている。『吉見神社』と名前の入った門柱。それを一瞥して、砂利の道を進んでいく。

賽銭箱の前に立ち、折り畳みの財布からあるだけの小銭を右手に移した。そして、そのまま賽銭箱の中にばらまく。

木箱と硬貨が衝突する音。俺の投げた硬貨以外の音が聞こえないことから、この神社に来る参拝客の少なさを物語っていた。

形だけだと思っていた顧問が知っていた『失恋の神様』。昔はそう呼ばれていたらしいが、今は『吉見神社』で通っているらしい。親世代の地元民には有名な神社で、カップルで参拝すると別れるというデマが流れていたらしい。

 参拝客の少なさから、五百円以上入れたことを後悔するように、俺は賽銭箱を覗き込んでいる。

やがて、何かに諦めたように、そのまま拝むようにして手を合わせた。

『瑞希と失恋できますように』

映画館のスピーカーからは聞こえてこない心の声。その声は、俺の記憶の中にしか存在していていない。

それだというのに、一言一句思い出すことができた。

俺が忘れるはずがなかった。縋るようにして、ここに来たのだから。

やがて、お参りを終え、自転車に乗り込んでいく俺。

その映像の右端には、レトロな文字で『結』と書かれていた。

その文字を見たのが最後、瞬きをした後の景色には瑞希の部屋が映し出された。手元には、彼女のノートが置かれている。

起承転結。これにて、物語は結ばれる。不明点を残して、中途半端な失恋が幕を閉じる。

「……ふざけんな」

 心に残っている気持ち。俺の言葉に対する彼女の答えも聞いていない。こんな中途半端な恋で、この失恋を締めくくるなんてできるはずがない。

 気づいたときに、俺は走り出していた。乱暴に運動靴を履き、これでもかというくらいに地面を強く踏み込む。

 伝えてはいけない言葉。その答えを聞くために。

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