第23話
時刻は夜八時を回っていた。夏の虫の音は、エアコンの呼吸音に消され、風情と共に暑さを消していた。
夕食を食べ終え、一人で自室のベッド横に腰かける。
よく冷やされたシーツは季節感を失ったように心地よい。その肌触りを確かめながら、思考とは切り取り離された手の動きを視線で追っていた。
今日浮かび上がってきた、一つの可能性。
里奈は瑞希である。
『失恋の神様』は文字通り、失恋をさせる神様だ。その神様は、小説のような失恋を体験させてくれるらしい。
どうやら、俺もその恩恵を受けていたらしい。俺の失くした記憶。瑞希という女の子の記憶。ただ、俺が彼女の記憶を失うことが失恋とは直結しない。そんなのはただの記憶喪失である。
それでは小説のような物語が生れない。
瑞希の記憶がなくなり、いないはずの幼馴染がいる。
瑞希としてではなく、幼馴染の里奈として俺と小説のような失恋をさせるために、幼馴染という存在を作った。
つまり、『失恋の神様』によって、俺の中の瑞希という存在は、里奈という幼馴染に変化したのだ。
現状を分析した結果、この答えがもっとも正解に近いだろう。
ただ、この失恋には問題があった。
それは俺が気づいてしまったことだ。
里奈と瑞希の正体に、その真相に近づいてしまった。
瑞希のことが好きだった俺が、同一人物である里奈を嫌う訳がない。むしろ、瑞希であったはずの問題を取っ払った里奈は、理想の相手とでも呼べるだろう。
当然、失恋をするわけがない。むしろ、その逆。
里奈と結ばれてしまうことが、一番のハッピーエンドと言えるだろう。
そうなってしまうと、失恋が成立しない。『失恋の神様』は俺達の願いを叶えてくれなかったことになる。
いや、成立させなくても良いのか。
わざわざ破滅する方向に足を運ぶ必要はない。仕方なく選んだ失恋という選択。現状が変わったのだから、そんな物に縛られる必要はないのだ。
俺がこれから取るべき行動は決まった。それは失恋の神様に抵抗をすること。
この状況を活かし、俺は彼女と結ばれてみせる。
やはり俺は、自分で思っている以上に諦めが悪いようだ。今からでも、俺の失恋を恋の成就へと変えてやる。
そう心に決めた。
「せんぱい、ちょっといいですか?」
そんな計画を密かに立てている最中、扉を挟んで響いてきた声に思考の一時停止を求められた。
二つのノックの後、ゆっくりとした彼女の声が鼓膜を揺らす。神社を出たときには張り詰めていた緊張。それが今では余裕があるほどに弛んでいる。
得体が知れないと思っていた物の概要を、捉えたからかもしれない。
夕食後に考えをまとめておきたくて、一人自室に戻った。
幼馴染が自分の家に来たのに、自分だけ部屋に籠るわけにもいかない。だから、少しだけ頭を整理したらリビングに戻るつもりだったのだ。
先程、少し下で待っていてくれと言っておいたはずだが。
「どうぞ」
頭の中は大体整理が終わっている。これ以上考える必要もないだろう。むしろ、ここで彼女の入室を拒む理由はない。
俺は返事をしながら、自室の扉を開いた。
目の前には朝とは違った服装の里奈が立っていた。
汗をかいたということで、ご飯を食べる前にお風呂に入った彼女は、パジャマ生地の半ズボンに無地のTシャツ姿。動きやすそうなラフな格好で俺の部屋を訪れていた。扉を開けた際に生じた気流に合わせて、仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。
シャンプーの香りなのか、ボディーソープの香りなのか、はたまた柔軟剤なのか。ただの香料のみでは表現できない香り。彼女の汗と混ざり合い、鼓動を速める香りを放っていた。
俺の顔色を覗き込むと、彼女は薄っすらと笑みを浮かべた。
鼻の動きに注視されていないことから、俺の思考を読み取っての笑いではなかったことに微かに安心した。
「すぐ下に戻るって言ったろ?」
「すぐじゃなかったんで、きちゃいました! 失礼しまーす」
そう言うと彼女は俺の脇をすり抜け、とててとベッドの上に腰を下ろした。俺が座っていた所のちょうど隣。その空いたスペースは微かによれてしまったシーツが、俺の足跡を残しているように思えた。
俺が座ることを待っているように、彼女は足をぶらぶらとさせていた。一定のテンポが刻まれている。
本来あるべきところに戻るのであれば、俺は彼女の隣にぴたりと並ばなければならない。
風呂上がりの女子と隣り合わせ。そんな選択肢を選べるほどの甲斐性もなく、俺は勉強机の方の椅子に腰掛けた。
「む」
「それで、どうかしたのか?」
反論の意を唱えてきそうな声を漏らした彼女。物申したげな眉に意見を聞くように、そのまま話を振ってみる。
「客人を置いて部屋に籠るなんて、いけないことだと思います!」
思い出したように、頭に浮かべていた考えとは別の反論を口にした彼女。そのまま、閃きを連ならせるように、ぴくんと体を跳ねさせた。
「あ、それと、神社を出てから、帰えってくるまでの時間が長かったことが気になります」
ジトっと不満にまみれたような視線を向けられた。休憩のために、コーヒーを飲んでいた。ただ表情を変えることなく、そんなことを口にすれば良かったのだろう。正直者特有の、一瞬の躊躇いが生じてしまった。
彼女からかけられていた疑惑が、確信に変わっていく空気を感じた。
「誰かと、一緒にいたんですか?」
「んにゃ」
「なんで、あだち充風な返事なんですか?」
「他意はないさ」
「……女ですか?」
「偶々な、偶然出くわしてさ」
「……またなんだ」
ぽつりと言葉を漏らした彼女。すーと彼女の目から光が奪われていき、焦点が合わなくなっていく。その目を維持したまま、視線だけを俺の方に向けてくる。無言でただ俺を見つめる瞳。
昨日のことがスラッシュバックし、この空気から逃れようと早めに口を開いた。
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