第20話
「昨日会った女の子のために、何かするんですか?」
変な心配をかけないようにと、配慮したつもりだった。きっと信じないと思ったし、困惑させるだけだろうと。
しかし、どうやらそれが裏目に出たらしい。平静を装っているつもりだったが、装った時点でそれは自然体ではない。昨日からぎこちなく見えたのならば、昨日の出来事が原因。そう思うのが当然か。
「倉科は関係ない。俺のことで少しあってな」
「少しって、何ですか?」
煙に巻くことはできたかもしれない。それでも、ここで誤魔化す方が、関係を悪化させる要因になり得る。それならば、多少馬鹿にされても、真実を述べてしまった方がいいだろう。別に、倉科の言葉を完全に信じたわけではない。倉科から告げられた俺の立ち位置。それでも、言葉を待っているのならば、その言葉を告げるくらいはしてもいいのかもしれない。
どうせなら、俺を馬鹿にでもして、笑ってくれる方が気持ちも楽になる。
「俺は『失恋の神様』に願ったのかもしれない。失恋させてくれってな」
「え?」
時が止まったように静かになった。それでもセミの鳴き声だけは止まることを知らない。気まずさを、少しでも紛らわせようとしたのだろう。止まった空気は、俺を中心として徐々に重い藍色のような色に変わっていった。
「な、なんで? 失恋なんて」
裏返ったような声色。予想しなかった事態に直面したような、そんな困惑気味な感情が織り交ぜられていた。彼女の声を皮切りに、藍色一色に染まりそうだった背景が、元の色を取り戻していく。
しかし、そんな彼女の反応を予想しなかったのは、こちらとしても同じだった。
信じたのか? こんなに突拍子のない話を、何の疑いもせずに?
当事者である俺でさえも、疑っている状況だというのに?
急かされるように、シャツの裾を引っ張られる。ペースを乱されながらも、言葉を探す。探したところで、見つかるはずもなかった。俺の脳内は疑問こそ数あれど、未解決なものしかないのだから。
「分からない。ただ、一人の女の子の記憶だけ失われているんだ」
俺でさえ半信半疑の内容を信じてくれた。こうなってくれば、話の流れは変わってくる。俺だけでは解決できないこと。いくら考えたところで疑問符が増えていく一方。それならば、他の人に頼る他ない。
きっと何かを知っているであろう、彼女に頼る他ないのだ。
「瑞希っていう女の子の記憶」
昨日、彼女が見せた動揺。それが脳裏に過ったせいだろう。気がつくとそんな言葉を発していた。
背中にいる彼女の息遣いが熱くなったように感じる。自転車に乗っているせいで、顔が見えない。それだというのに、感情の起伏を感じることができた。
「好きだったんですか? その子のこと」
一言一句をはっきりと言うように、彼女は確かめるようにそんなことを口にした。当然、その疑問に行き着くだろう。かくいう俺も、何度もその言葉を咀嚼した。いくら噛んだところで、その言葉は呑み込めない。しかし、吐き出すような嫌悪感も抱くことはなかった。結局、今もガムのように噛み続けている。甘味なのか、酸味なのか。舌先では五味がランダムで頭を出すように味を主張してきていた。
結局、この味を一色に断定することができずにいたのだ。
彼女に問われ、再びよく噛んでから舌先に集中する。当然、それが何なのかさえも分からない。この感情を恋心と呼んでも良いのだろうか?
彼女に対する返事を探す途中、自転車のブレーキをかけた。突然のブレーキに驚いたように、彼女は腹に回した手を強く握り、シャツに強い皺を残した。
目的地に着いた。
石でできた鳥居、『吉見神社』と名前の入った門柱。石灯篭が四つほど置かれており、その奥には拝殿が構えていた。
お世辞にも綺麗とは言えない、年季の入った佇まい。よく言えば、風情があるとでもいうべきだろうか。遠めでも鳥居にひびが入っていることが分かる。
自転車を近くに止め、背中にいる彼女に声をかける。
俯いて見えない彼女の表情。少なくとも、先程までの活発な印象は失われているように思えた。
先程の返答を律義に待っているのだろうか。
その考えが立錐の地ない脳内に突如湧いて、脳内のバランスを崩した。その反動は当然、平衡を保っていた体を揺らす。
重心を変えた際に、境内の砂利の音が鼓膜を揺らした。その振動は、鼓膜の奥にある脳まで伝わったように揺らしてくる。記憶を刺激するように、ハウリングのように脳に響く。
響きに耐えかね、右手で頭を強く抑える。振動を無理やり抑え込もうと指先に力を加える。当然、それくらいで振動が収まるわけもなく、意識が遠のいていった。
強く閉じた瞳。その瞳を再び開いた時、俺は映画館の中で立っていた。
強い既視感を覚えた。
振り向いてみると、映写機を動かす影を確認。辺りを見渡しても、映画館には俺と映写機を動かす人影のみ。頭から伸びているフィルムに目をくれ、ここが何時ぞやの映画館であったことを気付かせる。
柔らかい椅子。右にはコーラが、左にはポップコーン。配置は変わらずに、少しだけ量が減っていた。以前に少しコーラを飲んだな。記憶に新しい。
すっかり慣れたように、状態を受け入れている自分が恐ろしい。末恐ろしい限りである。
早くもこの場でくつろぎを求め、以前よりも深く座りなおす。正面に目をくれると、毎度おなじみのスクリーンが目に入った。
首よりも下しか映さない映像。相変わらずのくぐもって聞き取れない声だが、前見た映像とは違ったものを映していた。
これは……俺の家か?
映された映像は、俺の家のリビングだった。二人で食卓を囲んでいる場面が映し出されていた。
机の上には六枚切りのトースト、目玉焼きとウインナー。それとドリップコーヒー。いつも食べている朝飯が並べられていた。
映像の彼女が水色のエプロンを外して、俺の正面に座った。俺と同じ学校の制服姿。見慣れた光景を今さら見せられても、反応に困る。人の朝飯を食べる所をスクリーンで映されても、どうしろというのだ。
それからはまた、水の中にいるような話し声。退屈しのぎに、寂しくなった口にポップコーンを放る。どうやら、ポップコーンは塩味のようだった。
少し効きき過ぎた塩味を流し込もうと、コーラを一口呑み込む。
スクリーンの端の文字が目に入った。以前、左端に書かれていた文字。レトロな自体で書かれていた、何かを意味する文字。俺の記憶が正しければ、以前はそれが『承』という文字だった。
それがどういう訳か、『転』という文字に変わっていた。
「瑞希はーー」
炭酸が喉ではじけるよりも前に、俺の視線はスクリーン中央に戻された。予想だにしない名前に驚きを隠せないでいた。
俺の思い描いていた風景で、出てくるはずの名前。それと違っていたのだ。
聞き間違いかとさえ思い、初めに耳を疑った。
今、瑞希と言ったか?
いつも通りの食卓。水色のシンプルなエプロン。見慣れた朝の光景だ。見慣れた俺と幼馴染のーーいや、幼馴染?
「先輩! 先輩!」
「――っ。どうした?」
暑さのせいか、日差しのせいか、閉じた目をしかめてしまった。閃光弾を浴びせられたように、光の調節機能がエラーを起こした。まるで、先程まで暗い室内にいたような感覚だ。
心配そうに俺を覗き込む彼女の表情。頭に少しの痛みを覚えるが。何が起きていたのか分からない。
「何かあったのか?」
「ありましたよ! 先輩が急にぼうっとして、声にも反応しなくなったんですから!」
「そんなことになってたのか」
熱射病か脱水症状か。普段引きこもっているのに、二日連続で真夏の昼間に外出したことが原因か?
辺りを見渡すと、神社の鳥居が目に入った。そこで、ようやくここに来た目的を思い出す。そうだ、俺は記憶の中の『瑞希』を探していたんだ。
頭の中の晴れない記憶。確か、さっきまでその記憶の一端を見ていた気がする。頭が冴えてきたせいか、先程までの映像が脳内で再生された。
「私じゃダメですか?」
頬を染める彼女は、顔を上げてその熱量を伝えようと続ける。
「失恋したいと思ったなら、もう私でいいじゃないですか。忘れちゃいましょうよ、そんな子のことなんて」
自分の気持ちをさらけ出すように、まっすぐ過ぎる言葉。いつもなら、伝染してきた熱に耐えかねて、顔を背けていた所だろう。
夏の暑さにも負けないくらいの熱量。その言葉は滲んで、俺の皮膚を侵食するように染み込んでいく。深く、広く。
じんわりとしたそれは、あらゆる感情を俺の中に生み出していった。疑惑、不審、懐疑。それらの感情は、俺の記憶の扉を中途半端に開いた。漏れ出した記憶は部分的で、全体像を掴めない。それでも、今思い出したことがある。
一つ目は、俺がここに来たことがあるということ。俺はこの鳥居をくぐって、参拝をしたことがある。その断片的な記憶が蘇ってきた。
そして二つ目は、俺に幼馴染なんていないこと。家が近くて、一つ下の幼馴染なんて存在しないのだ。
この子は、誰だ?
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