第16話
時刻は午後四時を過ぎていた。日差しは傾いただけで、夕日の概念を知らないように照り付ける。信号で自転車を止めると、下から舞い上がってくる熱気にくらっとくる。日中蓄えていたコンクリートの熱が、熱気となって下から襲ってくるのだ。噎せ返りそうになりながらも、逃げるように自転車のペダルを漕いだ。
あれから多くの情報を得た。
『失恋の神様』についての詳細。祀られている神社と、願いを叶えてもらうための条件。そして、今日の倉科実里との出会いで、分かったことがある。
どうやら、俺は『失恋の神様』について知っていたらしい。そう、らしいのだ。自分のことなのに確証が持てないことが、まどろっこしい。
さらに言えば、俺は『失恋の神様』の神社に参拝をしていたらしい。誰かとの失恋を願って。こちらも、らしいとしか言えない。
倉科の情報によると、失恋の神様に願いを叶えてもらうためには、互いに同じ人の失恋を願って、互いに参拝をしなくてはならないらしい。
そうなると、当然、俺も例外ではなくなってくる。
つまり、俺は以前から『失恋の神様』について知っており、願いを叶えてもらったから、それに纏わる記憶を失っている。
「……何なんだろうなぁ」
とてもじゃないが、自分のことのようには思えない。フィクション小説の内容を聞いているような、自分とは違う世界での話を聞いているようだった。『失恋の神様』の詳細や場所を聞いたところで、それを皮切りに全ての記憶を思い出す。なんてことはなかった。捏造されたのか、消されてしまったのかさえも分からない。
そもそも、本当に俺は『失恋の神様』に願いを叶えてもらったのだろうか? 夢と現実がごっちゃになって、ただ混乱しているだけなのではないか?
確かめようがない。いくら考えても、深く読み解いた気持ちで推測をしてみても、正解が提示されることがない。
思考を止めることができずに、仮説に頭の中を占拠された頃、俺は家に到着していた。
自転車を車庫に停め、玄関の扉を開けると、里奈のローファーが目に入った。どうやら、少し早く帰って来ていたらしい。
「あ。おかえりー!」
玄関が開く音に反応をするように、リビングから顔をひょっこりと覗かせた彼女。まだ帰ってきて間もないのか、制服姿のままのお出迎えのようだ。扉の隙間から流れ出る冷気が心地よい。外気の熱と混じり合うことを恐れ、急いで玄関の扉を閉じた。
「ただいま」
混乱していた頭が落ち着きを取り戻していく。廊下の床まで冷えた冷気が、オーバーヒート寸前だった頭を冷ましていく。脳内の仮説が陽炎のように揺らいで、姿を消していった。
「レポートやらないでサボってたんですか?」
ぷりぷりと怒ったようにおどける彼女。ぱたぱたと軽快な音を立てて、俺の目の前までやってきた。それから、小さく首を傾げ俺の言葉を待つ姿勢。
「いや、サボってたわけじゃないぞ。ていうか、早かったな」
「どこ行ってたの?」
「ん? ああ、部長に聞いたもう一つのーー」
「どこの女の子と遊んできたの?」
「……」
瞬きを二回して、状況の把握に努める。それとは対照的に、瞬き一つしない彼女。おかしいな、目のハイライトはどこに行ったのだろう? どこかに忘れてきたのかな?
今すぐ捜索願を届けるため、この場から去らなければという気持ちに駆られる。
「ねぇ、どこ行ってたの? 私を部屋に残して、他の女の子と遊んできたの? 私のことは見てくれないの?」
眼の光と共に、抑揚もどこかに忘れてきたらしい。勢いそのままに、俺との距離を詰めてくる。迫られたら、自然と一歩引いてしまう。恐怖心に体の自由を占拠され、思ったように動いてくれない。それでも、一歩の距離を確保できた。
しかし、確保したはずの距離は大きく踏み込んできた彼女の足によって、それ以上に埋められた。鼻と鼻がぶつかりそうな距離。
感情を破棄したのか、幾重にも織り込まれた複雑怪奇な感情のせいなのか、彼女の表情筋はぴくりとも動かない。無表情とは確実に異なる顔が目の前にあった。
近い、近い、近い、近い、怖い。
青春で感じるドキドキとは、別のベクトルの心音。体が火照る代わりに、背筋が冷たくなっていくのを感じる。背中の汗が凍らされていくようだ。
固唾を呑む喉の動きを感じながら、なんとか反撃の一手をと試みる。脳細胞に意識を総動員して、言葉を探すが見つけられない。一度冷やされた頭は、そうすぐには稼働してくれないようだ。
どういう訳か、彼女は俺が誰かと会ってきたことを知っているらしい。普段部屋に引きこもっている俺が、理由もなく外に出ることはないと踏んだのだろう。どういう訳か、俺が買い物に行っていた線を消している。何かしらの証拠を掴んでいる可能性が高い。
先程の会話を反芻してみる。夏で火照った体の熱を失う代わりに、重要な言葉を見つけ出すことに成功した。
そうだ、会った子が女の子ではなかったことにしよう。とりあえずは、それで問題が解決する気がする。
渾身の一手。この一言を発すれば、事態は激変するに違いない。
「こんな香りするわけないよね? 女の子の香りをつけるほど、密着して何してたの?」
現状回避の策を素手で握りつぶされた。粉々になった策は、指の隙間から灰色の粉となって消えていった。
あかん。
目から光が消え去り、陰った目元。今の彼女に刃物を与えようものなら、その刃先がこちらを向くことからは抗えないだろう。
「待て待て、密着なんてしてないし!」
そんな煌めく青春物語を描いてなどいない。
年齢詐欺みたいな自称高校生と、オカルトの話で多少は盛り上がったが、浮かれるようなことは断じてしていない。唯一したと言えば、二人乗りぐらいのものだ。
そういえば、二人乗りをしているときに何度か体が接触したことがあったような……。
「何で黙るの?」
「待てって! 何もやましいことはしてないんだ! 一旦落ち着こう、落ち着いて距離を取ろう」
俺の言葉を多少は信じたのか、薄っすらと目の光を取り戻す彼女。一歩だけ後退して、彼女は少しの距離を作った。そのおかげもあってか、夏場の暑さを感じられるほどには、空気も熱を取り戻したようだ。未だに背中の汗は冷たいままだけれども。
「じゃあ、何してた……んですか?」
「『失恋の神様』だけだと書けない気がしたから、『変わらない信号』についても調べてきたんだよ」
「そこで女の子の匂いを付けてきたんですか?」
「二人乗りをしただけだ! その時に、少しだけ接触があったかもしれない」
「二人乗りですか……。それで、何か得られたんですか?」
「その前に、一旦リビングに行こう。そこで、しっかり話すから」
ゆるゆると引き伸ばした糸が弛んでいく。彼女の視線が疑いの物に変わっただけで、少しだけ安心してしまう。確信から疑いに変わっただけ、大きな前進と呼べるだろう。
心を落ち空かせている場合でもないけれども、先歩とまでと比べて生きた心地がする。
俺は完全に気を緩めることなく、第二ラウンドとなるであろうリビングに向かった。
冷房で冷やされた空気に包まれ、あらゆる要因で高まった鼓動が落ち着きを取り戻していく。
彼女が持ってきてくれたお茶を一口飲み、小さく息を吐く。本来なら、このままソファーで横にでもなりたいが、そんなことが許されるはずもなく。
逃がさない、早くしゃべれ。と言った様子の圧よく練り混ぜた視線を当ててくる。お茶を二口飲むことが許されなさそうだったので、喉の渇きを微かに感じながら、急かされるように口を開いた。
リビングでの会話は難なく進み、彼女の表情が曇るだけで済まされた。倉科の出会い方について、ナンパだと冷ややかな目を向けられたが、目に光が灯っていたのだから問題はない。
そして、話は本題へと向かっていった。
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