第12話

セミの鳴き声をBGM代わりに、自転車に乗ること十分ちょっと。夏の風物詩は想像以上に鬱陶しく、ここが都会ではないことを強調していた。まさか、夏だけ活動する音楽グループが人間界以外にいたとは。夏で思い出すあのグループの存続が危なくなってくる。

 アスファルトからの熱に当てられ、空間が歪む日本の夏。もしかしたら、パラレルワールドというものは身近に存在しているのかもしれない。そんなことを本気で考えてしまう俺の脳は、もう溶けてしまっているのかもしれない。心なしか、頭の中でちゃぷちゃぷと液体が揺れるような音が聞こえてきた。気のせいであることを願いたい。

 現代科学に甘えきった現代人にとって、熱中症はお隣さんのようなもの。親密度でいうならば、会えば拳で挨拶をするくらいの仲だ。

しかし、気を抜こうものならば、そのお隣さんは豹変したように襲い掛かってくる。刃物を持って襲い掛かってくるのだから、恐ろしいこと、この上ない。

新しくできたコンビニで買ったスポーツドリンクを一口飲む。外気温との温度差で、喉仏辺りに冷たい汗が通り過ぎていく。収縮された筋肉の感覚が心地よい。

 冷たいというだけで、なんでもおいしく感じる。そのペットボトルを無造作に自転車のカゴに放り込んだ。がこっと音を立てて、無礼な態度への怒りを露にしてくる。きっと、次に口にした時には、ぬるい別の物に変わっているのだろう。まるで青春だな。

 いや、何を言っているんだ。本当に。自分に酔っているのだろうか?

 自分に酔ってしまったら、酔いが回って吐しゃ物を吐く未来しか見えない。酔いが覚めたときには、それが黒々とした歴史に塗り変わるのだ。

 自伝にも載せられもしない歴史は必要ない。過去を振り返らないと言えば、多少は格好がつくものか。

 車輪が回る音とセミのセッションを聞きながら、無価値な思考に花を咲かせていた。夏場に似合うような花。夏の花といって、初めにナスを思い浮かべてしまうのは都会っ子と名乗っても良いものだろうか。咲かせる花のほどが知れるというもの。

土手沿いを走って、数十分。

汗ばむどころか、汗だくになる季節なだけはある。着ているTシャツが内的要因で濡れてきた。暇つぶしにしては、汗を流し過ぎている気がする。気持ちの問題ではない、そう糾弾するようにTシャツの汗を感じる。

これも全部、部長のくれた情報がアバウトすぎるのが悪い。今度会ったら、開口一番に注意の言葉を飛ばしてくれよう。

そんな理不尽過ぎる自己中心的な考えで暑さを紛らわす。紛らわすことができなかった暑さが、俺に今の行動を糾弾する。

フィールドワークをするなら、夜にするべきではなかっただろうか。そんな少し考えれば分かるようなことを、ドヤ顔でひけらかすように口にする。分かりきったことを、そう聞き捨てれば良かったものの、『そんなこと分かっとるわい!』と似非関西弁で捲し立ててしまった。こうなれば、外国人助っ人を筆頭に乱闘のゴングが鳴らされるのだった。

不意に我に返ったタイミングで、目の前の信号が赤に変わった。

 間が悪いことこの上ない。乱闘の勝敗はスポーツニュースでも確認できないというのに。

青に変わらないものか、そんな視線を横断歩道の先にある信号に向ける。信号はアイコンタクトをするように、視界の隅に目配せをしてくる。その先には、黄色の正方形が申し訳なさそうに主張していた。

なるほど、押しボタン式の歩行者信号か。

責任転換に成功したことに、胸をなで下ろす信号。しかし、俺の内心は一層荒れ狂うものとなった。

押しボタンの所まで自転車を寄せるのが煩わしい。しかし、このまま何もしなければ、干乾びた蛙のようになってしまう。

 仕方なしといった様子で、嘆息。ハンドルを押すようにボタン方向に向けた。

 パラソルがあった。

 何も急に場面が飛んだわけではない。今も昔も、俺はここで信号待ちをしていた。その状況下で傘を意味する単語が飛びこんできたのだ。

 カンカンと金槌で叩いたような日差し。天気予報では、ここ数日は洗濯日和だと太鼓判を押していた。当然、ゲリラ豪雨対策という訳ではないだろう。

パラソルの大きさからも種類からも、これが雨を防ぐ用途でないことが分かる。バーベキュー会場、砂浜のビーチでしか使用されていないパラソル。

辺りを見渡しても、肉を焼くサーフィン少年や、埼玉県人が九割を占める湘南ビーチは見当たらない。初めて、上記の二か所以外での使用例を目撃した。そうか、押しボタン式の歩行者信号前で使う手があったのか。これは盲点でした。

 スポーツ少年団の父兄が座っていそうな折り畳みチェア。その正面である信号を渡った先には、雑草しかない。ただの長い一本道が、俺達の左右に広がっているだけだ。

 正面に雑草があり、その方向を向いている。こんな夏日を絵に描いたような気温だというのに、雑草観察? あまりにも高難易度過ぎる趣味に達観した。

 小麦色に焼けてしまった指先は、その先の押し信号をゆっくり押した。こちらの意図が伝わったのか、こちらの存在に気がついたのか。

やがて、信号の色が赤色リトマス紙のように色を変えた。

初めて見る光景に目を奪われつつも、俺は無言で自転車を漕いで信号を渡った。深く被った麦わら帽子のせいもあり、顔色を覗き込むことができない。甘く見積もっても、中学生といった所だろうか。白色のワンピースが良く映えている。

 前方不注意も不注意。視線だけ少女の元に置いていったように、中々どうして正面を向こうとしない。このままでは、一面に広がる雑草畑に突っ込んでしまう。そんな本来あるべき思考は、頭の隅に追いやられ、ぎゅうぎゅうに押しつぶされていた。

頭の中には源泉のように、止まることを知らない疑問が湧いて出ていた。

何をしているのか。その単純な疑問がメリーゴーランドのように頭の中で回っていたのだ。レトロな曲調に合わせて、昭和の忘れ物のような音楽が、エンドレスで流れていた。廃れた遊園地を彷彿とさせる。

何をしているの、何をしているの、何をしているの。

あと五分も聞いていれば、ノイローゼにでもなってしまいそうな勢い。その勢いは思考だけでなく、俺の体までも侵食していく。

 ただペダルに足を踏み込む。この単純な動作さえもぎこちなくなっていき、漕ぎ方さえも忘れてしまいそうになる。脳内が疑問で埋め尽くされたとき、漕ぎ方を忘れた体は自転車を漕ぐことができなくなった。自然とペダルから足が離れる。

 なんとか信号は渡り終えたようだ。視線は少女の元から帰還していたが、焦点を置いてきたようにぼうっとしている。忘れ物を確認するように、振り向いた。

その先には当然、少女がいた。やはり忘れてきたらしい。少女にはピントが鮮明に合うのだから。

少女の周りには誰もいない。後方に佇む土手と背景がかみ合わず、少女のパラソルの下だけが切り取られたように、別の次元に存在していた。

少女は細い指先で、再び信号の押しボタンを押していた。

その行動が湧き出る疑問符を加速させた。湧き出る疑問符は脳から弾けだし、外の世界を求めて爆破したようだった。日の光を浴びた疑問符の集団は、各々四方八方に駆けていく。 

しばらく経って、信号が変わった。当然、誰も信号を渡ることはなく、停止を命じられた車のみが静かに止まった。

「? いったい、何をしてーー」

 ぴくんとありもしないアホ毛が揺れた気がした。アホ毛はヒロインの身に許されたアイテムである。ヒロインでもない俺は、その閾値を超えた波形を脳内で感じ取った。

 漕ぎ方を忘れてしまった自転車を押して、引き返す。信号の点滅に飛び込むようにして、数十秒前の立ち位置に戻った。

「はー、はー」

 肩で呼吸をしながら、信号機の側に座る女の子を見下ろす。確実に高まった俺の感情とは対極的に、少女は落ち着いた素振りで、信号の押しボタンを押した。俺が見ただけでも、これで三度目である。

 呼吸を整える。小さな咳払いを一つ。早くなる鼓動を抑え込みながら、冷静を装う。問う言葉は、この一言で十分だろう。

「君が『変わらない信号』か?」

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