第10話

「おはよー」

「……おはよう」

 階段を下りるにつれ、強くなってくる香ばしい香り。鼻がひくひくとその香りを追いかけ、匂いに釣られるように、階段を下りていた。

 リビングに入ると、程よく冷やされたフローリングの床が心地よく感じた。地球温暖化に貢献しているエアコンに一瞥をくれるが、エアコンの存在意義を考えると黙る他なかった。ぐっと言葉を飲み込む。

 あまり圧をかけてしまうと、委縮されてしまい、本来のパフォーマンスを発揮できなくなってしまう危険性がある。最近では、子育ても放任主義が流行っているらしい。泣きわめく子供のように冷気を振りまくようなら、教育という名の愛の拳をお見舞いしてくれよう。馬鹿にはフルーツの埋め合わせ以上に効くらしい。

 机の上には六枚切りのトースト、目玉焼きとウインナー。その混ざった香りを、ドリップコーヒーが上書きしていた。

 豪華とは遠いが、朝のテンションにすり合わせたような朝食。飽きそうで、飽きないギリギリを責めたような献立である。

 落ち着くこと、この上なし。

 やけに記憶に残るタイプの夢。そういった物も、なきにしもあらず。

夢うつつと、脳内のフィルムを眺めながら椅子に座る。温かいコーヒーを口に含むと、先程までの筆舌に尽くしがたい舌先は、豊潤な香りと苦みに占拠され、冥暗とした色に染められていった。

一時的に脳内が霞がかり、ピントを目の前の朝ご飯に合わせられていく。このままでは、腹の虫が騒ぎ立てて、ご近所に迷惑をかける恐れがある。遠くの難問よりも、目の前に広がる朝飯を片付けることから始めよう。

 考えるよりも先に、箸を片手に食べる順番を選別していた。考えがまとまった頃には、箸は目玉焼きの具合を調べようと奮闘していた。

「あ、先輩。今日はレポート手伝えなさそうです」

「え、ああ。そうなのか」

 そっと割るはずだった半熟の目玉焼きの黄身が、早い速度で流れ出ていった。この流速で流れてしまったら、もう止める術はあるまい。予想しなかった事態ではあるが、致し方ない。

 突然告げられた、協力プレイからソロプレイへの変更。やる気は目玉焼きの黄身よろしく、重力に逆らわずに落ちていく。それと反比例するのは、労力だけというのだから、浮かばれないこともあるものだ。

少しだけ冷静に考えてみる。そもそも。レポートの提出を課されたのは俺一人。手伝ってくれることがイレギュラーであって、彼女が批判される云われは皆無なのだ。高校生の夏休み。幼馴染のレポートよりも優先すべきことなど、山ほどあるというもの。

どうせ、二年生、三年生は夏期講習と勉強の二週間漬けにされるのだ。そして、一夜漬けで漬かるかるほど、染み込みやすい脳内をしていないことを恨むのだ。胡瓜に負ける悔しさに戦慄すればよい。

「今日は図書委員の当番なんですよ」

「あー、そういえば図書委員だったっけ? 休日出勤、ご苦労なこったな」

 俺の脳内漬物置換計画を感じ取ったのか、彼女は小さく首を横に振りながら、そんなことを口にした。まさか、ここまで意思が伝わってしまうとは。さすがに、脳内の白菜と胡瓜のディスカッション、漬物一本勝負を見られたとなると、恥ずかしくなってくる。

「いえいえ、残業廃止の陰に隠れた、サビ残よりはマシでしょう」

「俺のレポートのこと言ってる? これは部活動だし。やりたくて、やってるだけだしな」

「後半のセリフは、上司のセリフそのものですね」

「いいんだよ。うちは完全フレックスタイム制だからな。それで、何時ごろに帰ってくるんだ?」

「五時くらいですかね。私がいない間に、レポート仕上げちゃってもいいですよ?」

「無茶を言う。昨日知ったばかりのテーマだし、そのテーマについての情報もないんだぞ」

 書きたくても書けない、このもどかしさを、どう表現したらよいものか。例えようにも、使用する単語に申し訳ないほど、もどかしいのだ。つまるところ、もどかしさは皆無なのである。

 レポートを書くのだ! そう意気込んだ翌日。

振り返ると、三日持たずして坊主になる未来が鮮明に見えてしまった。己の才能に戦慄。もうこのまま出家して、仏道の修業にでも励もうかとさえ考えてしまう。

しかし、決意した翌日に挫けるわけにもいかない。そんな意気込みだけの人間には、成り下がりたくないものである。

「里奈以外に『失恋の神様』のこと知ってる子もいなよな。部長にでも聞いてみるかな」

「私も昨日話した以上のことは、そんなに知りませんよ」

「……となると、マスメディア並みに話を盛るしかないのか」

「調べてみてくださいよ。面倒くさがらないで」

「善処してみよう」

 訝しげに見てくる視線をひらりとかわした。そんな調子で、のらりくらりとしていると時刻が刻まれ、里奈の登校時間がやってきたようだ。

マスメディアに対する信頼か、俺に対する信頼に何か問題があったのだろう。信頼されているとは思えない、辛辣な視線を浴びせながら、彼女は学校へと向かった。

 一人残されたリビング。会話主が席を外し、残されたのは独り言のように音を立てるエアコンのみ。両肘をついて話を聞いてみても、こちらに聞かせる気がないのか、言葉の意味が理解できない。どうやら、機械語をお話ししているようだ。

誰か、機械語をC言語に翻訳してはもらえないだろか。されたところで、C言語なんて分からないのだけれども。

快適なのは気温だけで、口の中が寂しくなってきた。口に残るコーヒーの香りの続きを求め、味蕾がうずうずとしてきた。抑え込んだ先から、抑え込めなかった別の味蕾が舌の上で小躍りを始める。制止するよりも、共に踊ってしまった方が楽しいのは確実。直観に従い、俺もその場で踊りだす。初めは恥ずかしそうに踊ってみたが、刻まれるリズムが心地よくなってくる。数秒と持たず、恥じらいの気持は具象化し、俺の隣に並ぶ。

そのまま恥じらいの気持ちと共に、味蕾を真似て小躍りをする。

そのリズムと合わせて、二杯目のコーヒーをコップに注ぐ。二杯目は踊りで暑くなった体を冷ますように、アイスコーヒーで頂くことにした。

「さてと、どうしたものか」

 ここで優雅なコーヒーブレイクと洒落込むも良いが、何もしていないのにブレイクもクソもない。高校生の夏休みという限られた期間を、コーヒー一色に染めるのは如何なものか。考え直すが吉。

 考え直した結果、昨日聞いた情報を整理してみることにした。終業後に開かれる中身のない会議並みには、今日取るべき行動の案が出るであろう。

 考え直すが吉日。思い立ったが吉日。

思考を昨日の里奈の話に集中すること数十秒。数分の会話データを整理するのに、時計の短針を動かすほどの時間は要さない。整理をした結果、レポートを書くことができるほどの情報がないことを再確認。

 情報の整理終了。

 さて、この限られた情報のみで、文章に起こすことはできるだろうか? 物は試しと、検討してみる。チャレンジ精神というものは、若さゆえの特権だったりするらしい。若さがあるうちに、ふんだんに使い尽くしてやろう。

 検討の結果、一つの高尚な考えが浮かんだ。ワードソフトに向かって、ラノベ新人賞ばりの物語を作ってみるのはどうだろうか。

元々、ライトノベルというものはフィクションの世界。それならば、捏造し放題、異世界行き放題である。

しかし、問題も一つ湧いて出た。俺にライトノベルのような物語を描くことはできない。稚拙な文章力と乏しい発想力で描ける物語など、所詮は一次通過もできない小説となってしまう。文章が書けていれば、一次審査は通ると聞いたことがあったのだが、俺の書く物は文章の体を保っていないのだろうか?

しかも、露出狂並みに内心を曝け出した物を、顧問に提出しなければならない。そんなことをしたならば、俺の未来はぐにゃりと空間ごと曲がるだろう。

『え、これって、お前が書いたのか?』

 と半笑いで朗読でもされてしまいそうだ。末端冷え性な俺でさえ、足裏と指先でやかんを沸かすことができてしまうほど恥ずかしくなってしまう。

 高校生にもなって、思春期に特徴的な病を発症させる訳にもいくまい。自ら黒歴史を刻みに行く必要はないのだ。生きているだけで、恥ずかしい思い出というものは蓄積されていく。だから、安心しなさいな、若人よ。

「となると、情報収集か」

 彼女も言っていたが、彼女が『失恋の神様』の情報を全て知っているわけではない。早かれ遅かれ、情報源が枯渇する事態はやってくるのだ。

 俺は自室にあったノートパソコンを取りに行き、リビングにて展開した。さらっと述べてみてたが、リビングを出ただけでじわっと汗をかいてきた。健康的な汗であはあるが、リビングの設定温度が健康的かどうか議論の余地があるようだ。

健康よりも、快適な方を優先する脳内議会では、そんなことは議題にさえ上がらないわけだが。

なぜ、暑い廊下の気温に耐えてまで、ノートパソコンを取りにいったのか。何も、突発的な行動を取ったわけではない。卑俗な輩どもには分からにかもしれないが、脈絡のない行動を取ったりはしないのだ。

刑事ドラマや、営業マンのように足で稼ぐ時代では終わりを迎えた。

 今の時代、情報はインターネットに溢れているのだ。 

かちゃかちゃとキーボードを叩き、検索ワードを打ち込む。それだけで、膨大な情報の中から、的確な情報をヒットさせることができる。これが、現代の情報収集法である。インターネットは絶対である。神々しい存在に位置するのだ。

「……ないな」

 ヒット件数がゼロということはなかった。むしろ、ヒット件数は六桁と多い。しかし、こちらが欲しい情報を提示してくれるサイトは、右にも左にも見当たらなかった。

 多すぎて下に埋もれているのか、はたまた目ぼしい情報は存在しないのか。前者なのか、後者なのかも分からない。前か後ろかさえも分からないのだから、右も左も分かるはずがない。途方に暮れる。

 うむ、インターネットは使えないな。ダメだ、実に雑魚である。

 どうしたものか。足首が浸るくらいの、奥深い思考に耽ってみる。

 俺が所有している情報は限られている。

 部長からの『失恋の神様』が存在するという情報。里奈からの噂程度の情報。

 この二点の情報からレポートを作製しろというのだ。これならまだネット記事の方が信頼性が高いと言えるだろう。刺し違えても、負ける未来しか見えない。

 情弱な現状では、質より量とか比較することさえもできない。せめて、かさを増すことだけでもできれば良いのだが。

 そんなことを考えていたのに、気がつくとスマホをいじっていた。注意力散漫で、このままでは普通運転免許を獲得することさえ、難しくなってしまう。これがスマホ依存症の症状というものか。大学病院にて急患で診察してもらうものなら、早急な治療が必要だと診断されるだろう。恐ろしや、現代病。

 考え事をしながら、スマホをいじる。俺はそんな高難易度Sクラスの技を一人で空しく、しっかりと決めていたのだった。

 観客がいないのだから、拍手喝采スタンディングオベーションを受けることはない。寂しさが雪のように積もっていく。その空しさを埋めようとしたのか、考え事はゆっくりと溶けて消えていく。思考停止につきまして。

 こうなってしまえば、ただのスマホをいじる人だ。考える人が称賛されるのならば、俺の今の状態が称賛されても可笑しくない。むしろ、称賛然るべきである。

 体に染みついた動きは無駄がない。無意識で動く指先は、メッセージボックスのアプリを起動していた。

 視界に映った部長からのメッセージ。三つのオカルトの存在を教えてくれた文面とは別で、朝方に要点と呼ぶにふさわしいくらいに纏められていた文章が送られていた。

 このままコピペしてレポート提出。という訳にはいかないだろう。

「……ん?」

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