第9話

「せんぱい、せーんぱいっ」

 徐々に間隔が狭くなっていくノック音。その音に女の子の声が混ざり合っていく。呼び戻されたばかりのスロースターター気味の意識が、現状把握に努めていた。

 意識と声帯の接触が悪く、声が上手く出せないでいる。すると、叩かれていた扉が自動的に開いた。

 桜色のパジャマ姿の女の子。シンプルな水色のエプロンを前にかけ、呆れたように目を細めていた。

 その姿には見覚えがあり、直近の記憶を引っ張り出す。更新順に並んだ真新しい記憶は、昨夜更新されたばかりのデータだった。

「……里奈、か」

「起きましたか? 朝ご飯できているんで、早く下りてきてくださいよ」

「おう、ありがとうな。先に行っていてくれ。今、行くから」

「分かりました。しっかり下りてきてくださいね」

「おうよ」

 再び自動的に動いた扉に目をくれる。ぱたんと小さな音が部屋に響いた。

 室温で一晩稼働していたエアコンに、おやすみとお疲れ様の意味を込め、労いのスイッチを押した。こちらに軽く返事をすると、三秒もかからずに静かに寝息をたて始める。優秀なエアコンは『クリーニング』という名の寝息を立てるのだ。

 この調子でいくと、AIが心を持つのも時間の問題であろう。

 ベッドから下り、伸びを一つする。ついでに、あくびも一つ。

 一時的に自動になった扉の前に立つが、うんすんカルタよろしく、動かない。念を送っても動かないことから、これはただの扉のようだ。

 そんな誰もが『なんぼのもんじゃい』と口を揃えそうな描写を描きながら、ドアノブに手をかける。

 すると、何者かに心を引かれた。惹かれたのではない。振り返った先には、二週間は洗っていない、枕が目に入った。

 夏場なのだから、もっとまめに洗ってあげよう。いや、そこではなくて。

 昔から、枕元には人ならざる者が立つと言われている。そういえば、お盆がすぐそこまで来ている。いよいよ、俺は周波数が3THz以下の電磁波を受信してしまったのか。

 もしかしたら、クラスメイトはオカルト部のことを、そんな偏見の目で見ているのかもしれない。偏った考えを直すにはどうしたらよいものか。中央にでも考えを寄せてみればいいのだろうか?

 それはそれで、中央に考えが偏ってしまうのか。どうやら、考えを均すことは難しいらしい。

 変な夢を見た。

「あれ?」

 目覚めると、外気に触れた氷のように溶けていく夢の内容。数分後にはプロットだけになり、一時間後には白紙に戻ったワードのソフトのようで。

 現実世界に引き戻され、数分の時が刻まれていた。

 Windowsでいえば、『エクスプローラー』。Macでいえば、『Finder』。そこをクリックすると、先程まで見ていた夢のデータがはっきりと残されていた。

 これをプロット扱いしては、世界中の作家に集団リンチされること間違いなしである。文章でカタカタと文字にして殴られる。

脳裏には鮮明過ぎる記憶。あのスクリーンの映像を、一寸の狂いもなく思い出すことができた。その数メガバイトほどのデータファイルは、数秒で全て読み込むことができた。そう、一部を除いて。

 俺の正面に座っていた女の子。終始、拝むことのできなかった、ぼかしのかかった顔。当然、ファイルを読み返したところで修正が除けるわけではない。

 だから、そこではないのだ。

 一度だけ発したはずの言葉。彼女の名前。

 その部分だけが、黒いマーカーペンで消されているように、思い出すことができない。まるで、誰かが記憶を修正したかのように。

 喉に何かが詰まって出てこない。知っているはずの彼女の名前を口にすることができない。

 あの女の子は……。

 思い出せない。

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