第8話
夢を見た。
いつも通りの日常。この土地で十七年目の月日を過ごしたが、特に変わったことは何も起こらず。非凡を求める年頃からすると、物足りない日々。足りない物は明確ではなく、曖昧な何かを求めていた。
「――――」
言葉を上手く聞き取ることができないのに、不思議と落ち着く声が聞こえてくる。聞き慣れた声がBGMのように心地よい。
初めに目に映った景色は、その声の主と手の甲を映していた。見慣れた教室の机。後ろには見知った本棚が見えた。オカルト臭さがいまいち足りない、微かにしか香らないオカルト臭。
そこが部室だと気づくのに、あまり時間を要しなかった。
俺の正面に座る女子生徒。その表情を窺おうと試みる。しかし、黒いぼかしのせいで、顔の凹凸でさえも認識できないでいた。目にゴミでも入っているのか。そう思って、目を幾度擦ってみても、そのぼかしは消えることがない。
昔、昭和に生まれた人間たちは、目を細めることで、モザイクを除く技術を会得したと聞く。その習いに沿って、目元を細めてみる。
そのまま瞬きを数回。当然、そんなことでぼかしが除かれることはなかった。
あれ? バターを塗るんだったかな?
「――――――――?」
「――――」
聞き取れない会話に対して、俺の口だけが動いた。水の中にいるような、くぐもった音だけが耳に入ってくる。なんで聞こえない声に対して、反応できているのだろう? 何やら会話をしている様子。
一体、何の会話をしているのだろうか?
目の前で会話をする自分と、それを第三者として見ている自分がいる。
気がつくと、場面が変わって映画館の中にいた。
柔らかい椅子に座り、右にはLサイズの紙コップと左にはポップコーンが置かれていた。映画館ならではのくぼみに、紙コップとポップコーンがセットされていた。
半透明な蓋のせいで、中身が見えない紙コップ。ストローで啜ってみると、良く冷やされたコーラであることが分かった。
不自然なくらいに落ち着き払った心。訳も分からないで映画館にいる状況で、中身が気になるからって飲むかね、飲み物を。不用心にもほどがある。非常に嘆かわしいことなり。
辺りを見渡しても、誰もいない。がらんとした空席を見渡していると、後ろの方に人影があるのを発見した。
人影は、せっせと一定のリズムで動いている。その動きに合わせるように、映写機を回す音が聞こえてきた。
その映写機が写す先、スクリーンに目を戻す。
スクリーンには先程見ていた映像が流れていた。くぐもった会話をする俺と、女子生徒。山も谷も感じることができない、ただの音声付きの映像。
不思議と、記憶の片隅を現像したかのように思えた。そんなことを考えていると、後頭部から何かが伸びている様子が目に入った。
どうやら、フィルムが巻かれて、取り出されているらしい。俺の頭の中から。
俺の頭の中から、映写機へとフィルムが一方方向に引っ張り出されていく。それを映像として、俺は観測していたようだ。
どうやら、二度の手間を挟まなければ、俺は記憶を思い出すことができないらしい。
原理も仕組みも分からないのに、それでも納得してしまっているのは、これが夢だからだろう。夢にツッコミばかり入れるのは、マナー違反というもの。郷に入っては郷に従え。寝ているときくらいは、夢くらい描いても良いではないか。
それにしても、随分と退屈な映画だ。
ソファーに腰かけ、しばらく映画を観て、抱いた感想がそれだった。俺以外の人がこの場にいないことにも納得がいく。この場に残って、映画の続きを観るよりは、家で爪でも切っている方が有意義だと判断したのだろう。実に明敏な頭脳を持った客だ。正しすぎて、反論の余地もありはしない。
一般人の自伝。そんなものを楽しんで観ることができるのは、当事者限りだろう。他人のホームビデオほど、退屈な物はない。
一刻でも早く、夢から目覚め、知りもしない手相をぼうっと見たい衝動を抑え込む。当事者であるという責任が、俺を椅子に縛り付ける。映画を作ったのが俺じゃなくても、当事者としての責任が、強く根付いてしまったらしい。もっと他のことに責任感を持って行動して欲しいものだ。
何気なしに見ていると、スクリーンに何か文字のようなものがあることに気がつく。テロップではない、何かを示すような単語。
目を凝らして見てみると、上映中のフィルムの左端に『起』と書かれた文字があった。昭和時代に書かれたような文字。何かを意味するような、謎の主張を感じる。
一体、何を意味する言葉だろうか?
映像よりも、意識はその文字へと移り変わっていた。大きなスクリーンの映像がぼやけ、ピントが文字に合わさっていく。
すると、不意にカタッと音も立てて、その文字は『承』という文字に変わった。
物語が動き出す。
「――」
「瑞希は――」
それを皮切りに、徐々に黒いぼかしが澄んでいく。
ようやく判明した、映像の中のヒロインの名前。
そうかーー思い出した。
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