第7話
それから、数時間が経過し、今日という日が終わりを迎えようとしていた。
夕ご飯は彼女の手作りをいただいた。当然、女子が作るご飯というのだから、それだけで価値がある。
彼女が作ってくれた夕ご飯は、慣れ親しんだような味がした。冷蔵庫にあるからという理由で、焼き魚料理をメインとした夕食だった。
おかずの塩加減、米の硬さ、みそ汁の味付け。どれをとっても、高校生が作ったにしては、出来が良すぎるように感じた。
『作る度に、先輩が褒めるからですよ』
その旨を伝えると、彼女は照れを誤魔化すような笑みを浮かべた。そのとき、俺はどんな表情を返していたのだろう。人間の形相を保っていただろうか?
俺に味の評価を求めた結果、俺がおいしいと感じる味付けに化けていったとのこと。
無垢な少女を染めてしまった罪悪感と、背徳感を舌で転がして味わった。深追いしすぎると、サイレンの音が聞こえてきそうなので、舌先で味わうだけにしておいた。
その後は、テレビを観たり、雑談をしたりと、本来の夏休みの形を楽しんだ。部活に明け暮れ狂う学生生活。もしくは、狂気のように学問に己を捧げる学生生活。上記の二つが一般化されている現代で、怠惰的な夏休みは『本来の形』と言っても良いのだろうか。
良くはないんだろうなぁと思いつつも、湯水のごとく、限りあるはずの時間を過ごしていく。あ~、ビバビバ。
そうは言っても、考えない葦は人間扱いされないらしい。さすがに、人権の剥奪には恐れをなし、怠けながらも頭を使うことにした。
後輩が入ったお風呂の残り湯の有効活用法。どのように使うことが、一番エコであり、エロであるか真剣に考えた。地球温暖化よりも、重要な会議が脳内で開かれていた。絶え間なく意見の飛び交う議会。幾重にも積み重なったミルフィーユのように、中身の多いディスカッション。
これにて、俺も考える葦の仲間入りである。やったぜ、人間だ。
それだというのに、それにも拘わらず、その計画は頓挫する形になった。
理由は単純で、材料が手に入らなくなったからだ。
『先輩の前に、入るわけがないじゃないですか! 残り湯で何をされるか、分かったもんじゃありません』
『客人よりも先にお風呂に入るといった暴挙。そんな身勝手なことが、できるわけなかろう』
誠心誠意を込めて客人をもてなしたい。その他意にまみれた言葉を信じてもらうことができず、無理やり先に風呂に入れられてしまった。
これでは葦の仲間に入れてもらうことができず、葦として受け入れてもらえない。……いや、葦と認識されてしまったら、人間ではなくなってしまうのでは?
それとは別に、憤りを覚えた。俺の意見を微塵も取り入れないとは何事か。
全く、えっちな後輩の前に入ったら、残り湯でナニをされるか分かったもんじゃない。エロエロに使われてしまうのではないか。そんな考えが、頭の一割を埋め尽くされてしまった。他に議題がなくなった議会は、あくびを一つしたあとに閉会されてしまった。議事録だけは国会図書館でも寄贈しておくとしよう。
結局、その一割の考えは杞憂に終わり、特に何も起こらないお風呂イベントを終了。そんなお風呂イベントなんかよりも、テレビの深夜のバラエティーの方がエキサイトしていた。
そうは言っても、湯上りの女子というものは、深夜のバラエティー番組以上にそそるものがあった。お風呂イベントのアフターストーリーとでもいった方がいいだろうか?
部活上がり、プール上がり、湯上り。ただ上がるという言葉がつくだけで、艶美な響きになるのはなぜだろうか。思春期だからだろうか。ベールに包まれた不思議である。
桃色のパジャマに包まれた彼女。彼女がリビングに顔を覗かせた瞬間、空気が変わっていくのを目の当たりにした。目には見えない湯気が色気へと変わり、俺の体にじんわりと染みていく。このまま染み込まれては、俺の方も色っぽく……なるわけないか。
いつもと違う寝巻という服装。いくら見慣れているとはいえ、その無防備さには思う所があったりする。
寝ているときに苦しくならない格好。逆を返せば、簡単に脱がすことができる服装なわけで。
そして、そんなことをコンマ何秒で考えてしまうほど、思春期真っただ中であるわけで。
そんなことを想像してしまった罪悪感が、隣で俺の手を握ってこちらを見ていた。親子のように固く握られた手。横縞のボーダーを着て、背中には背徳感を背負っている。
なんだよぅ。
そう目で訴えかけても、消える様子を見せず、ただそこにいる。なぜだろうか。この組み合わせは、時々顔を覗かせてくる。長い間寄り添ってきたたかのように、親しみさえ感じてしまう。
邪な感情と背徳感に呑み込まれずに、共存する。
なるほど、これが紳士的思考というものなのだろう。
「まさか、本当に泊まることになるなんてな」
隣に並ぶ感情を横目に、そんなことを口にしてみた。
「何を今さら。先輩だって、いいって言ったじゃないですか」
「いいとは言ってないだろ。結果的に折れただけだ」
もう一度だけ、一瞥をくれてみると、紳士の二人組は消えていた。
書置きも残してはいないのに、また帰ってくるのだろうと確信を持てる。きっと、また忘れたころに現れる。
今までもそうだったのだから。
そして、少しでも気を緩めてしまうと、湧き出てくる別の感情に飲まれてしまいそうになる。こっちは、思春期特有の病のようなものだ。大人になったら、この感情とはオサラバするのだろうか?末永く一緒に暮らしていくイメージしか沸かない。
異性の前では、バレないように沸騰した気持ちを抑え込む。その感情を収めるために、気を紛らわす必要があった。
それゆえに、中身のない会話に花を咲かせ続けたのかもしれない。花咲か爺も驚愕、十分咲きの満開だった。
そんな言った、言ってない、の水掛け論。やがて会話は転々と移り変わり、日本全土を横断した。横断した先で付けっぱなしになっていたテレビ。その映像は、深夜のバラエティー番組を映し出していた。
笑い声よりも、瞼の重力が気になりだした頃。時刻が丑の刻に突入し、じわじわと眠気が襲い始めてきた。
「そういえば、里奈ってどこで寝るんだ?」
惰性で進む勢いで、ゆっくりと口だけが動いた。それを皮切りに、脳内の思考回路が助走を始めた音が聞こえた。跳ねるような助走から、これが跳躍競技の助走であることを察した。
我が家は小さくはないが、家の中で迷子になるほどの豪邸でもない。中の上くらいの家庭環境だろう。しかし、中流階級で上位に位置していても、客間と言われるものは存在しないのだ。まず、そんな頻度でお客さんが訪れてこない。
一階の和室ならば泊まることもできるが、あそこにはエアコンなんて横文字の機械はなかった気がする。和室に横文字の家具を入れようものなら、そこで洋物に対するいじめが発生するだろうと配慮した結果だった。嘘である。
しかし、今は現代の日本の夏。いくら夜といえ、気温が秋のように落ちるわけではない。エアコンなくして目を閉じるものならば、二度と日の光を見るときは来ないと言っても、過言ではない。いや、過言である。
エアコンが完備され、それでいて寝具が揃っている部屋。両親の部屋を除けば、自動的に俺の部屋にーー
「泊まりに来た時に使わせてもらってる部屋ですよ。先輩の部屋の隣」
「あ、そうだったな」
泊まるはずがなかった。
沸騰しかけていた感情に蓋をしたついでに、あくびを一つ噛みしめた。ばかばかしさと、本来の眠気があくびの原因を折半する。少しだけ多めに、眠気が支払いをしたようだった。
「それでは、今日はもう寝るとしますか」
こちらは俺の口調。
「そうしますか。明日もやることがありますし」
こちらが彼女の口調。
俺が伸びを一つすると、向かいに立った彼女も伸びを一つした。張り合うために、二つ目の伸びをしようとしかけたが、諦めた。やりだしたらきりがない。そんな気がしたのだ。きりがなくなる前に、上がることにした。
今日、『失恋の神様』の概要を聞くことができた。本来なら数日かかる工程を、一日で終わらせることができたのだ。課題がはかどらないわけがない。
この調子でいけば、かなり早くレポートを終えることができそうだ。
「あ、先輩」
「なんだ?」
階段を上り、各々の寝室の扉の前に立った。おやすみの挨拶よりも先に、ふと何かを思い出したかのように呼び止められ、彼女の方に振り向く。
「私の部屋、開けないでくださいね」
「鶴の恩返し的展開に驚愕」
「恩も返しませんし、機織りもしませんから」
甚だしさに驚くように、目を細める彼女。真面目に取り合うだけ価値がないと思いながらも、しっかりと返してくれ優しさが身に染みる。染み渡る。
「して、その心は?」
「下着とか部屋に干すから、開けないでくださいって意味です」
「そんなはっきり言わなくてもよいだろう。まるで、俺にデリカシーがないみたいじゃないか」
「五感推量じゃなくて、断定していいですよ。先輩にはデリカシーがないのだ。用があるときはノックしてください。先輩の部屋に行きますから」
「別に、下着が干してあっても気にしないぞ?」
『ただ下着が見たいだけじゃないですか!』っていうツッコミを待っての小ボケ。先程までのテンポの良さを崩されたように、返答が返ってこない。えらく間が悪いなと思っていると、隣で微かに唸るような声が聞こえた。これがまた小型犬のような声でして、見て聞いて微笑ましくなってしまうのですよ。
「~~私が気にするんです! 絶対に、ノックしてください。絶対ですよ」
「これはフリと捉えても?」
「よくありません!」
絶対~するな。これを現代語訳に直すと、絶対~しろ! という意味になるはずなのだが、現代語訳で訳すなと言われてしまった。
どうやら、彼女は古風な人間だったらしい。
「まぁ、思春期の女子の部屋に侵入するほど度胸もないさ。なにせ、期間は一週間もあるのだから」
「その考えだと、最終日には侵入してきそうですね」
「男子、三日会わざれば刮目して見よって言うしな。四日後には余裕ですよ」
「そんなに私の下着みたいんですか?」
「……」
「っ、もういいです! おやすみなさい!」
ぱたんと強めに閉められた扉。
俺の沈黙をどう捉えたのか知らないが、被害妄想も甚だしい。全く、恐ろしいほどの以心伝心。ノーと答えるとでも思ったのか、あほらしい。
入浴後の甘い香りと、微かな熱を残して、彼女は隣の部屋に消えていった。
その香りが廊下に散漫していき、いつも通りの我が家の匂いを取り戻す。いや、そんな些細な違いなど判るわけがない。大事なのは心なのである。
つまり、眠気には逆らえないということだ。眠いからもう寝てしまおう。
「おやすみ」
誰もいない廊下にその言葉のみを残し、俺も自分の部屋へと消えていった。
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