第5話

「ただいまー」

「ただいまー!」

 熱地獄と化した日本。天からは灼熱の太陽が放射線を浴びせ、コンクリートは密かに熱エネルギーを蓄積する。そのおかげもあり、夏の夜はエアコンなしでは過ごすことができないのだ。ははは、電力会社と業務提携でもしているんじゃなかろうか。

じめっとした湿気は、サウナを彷彿とさせる。街に出た人間は本来の目的を忘れ、エアコンの冷気を求めて徘徊すると言われている。とか、言われていないとか。

何はともあれ、俺達は日本の夏から無事帰還することに成功したのだった。

「いやいやいや、おかしい、おかしい。なんで里奈までいるんだよ」

 途中までは帰り道が一緒だから、という理由で同じ方向に歩いているのかと思ったが、どうやら違ったらしい。ちゃっかり玄関に上がり、家の中まで付いてきている。なんで、もっと前に突っ込まなかったのだろう。

 こちらのテンションとは違い、落ち着き払っている彼女。何を言っているんだ、とでも言いたげな表情をしている。

 なぜこの状況でそんな表所をできるのか、心底不思議である。

「先輩のうちに入り浸れば、エアコン代浮きますし」

 そんなことを真顔で当たり前のように言ってきた。

 どうやら、ど畜生だったらしいな。この子娘。

「いやいや、冗談ですって。マジ引きしないでくださいよ」

「里奈なら言いかねないと思ってな」

「私をなんだと思ってるんですか」

「それで、本当は?」

「あれ? お母さんから何か聞いていませんか?」

「いや、特に何も」

 こてん、と彼女は軽く首を傾げる仕草を見せた。無意識なのだろうが、こちらが意識してしまいそうになってしまう。

 心音が落ち着きを取り戻すまで、指をくわえて待っているわけにもいかない。微かに変動した脈拍は無視をすることにした。見切り発車とは分かりつつも、分岐器に頼って思考を変える。分岐した先は、彼女に対する返答。

「父さんと母さんは、昨日からいないし」

 そう言ったから、昨日以前の記憶を遡ってみる。

 記憶を遡ってみたところ、昨日から両親が家に帰っていない事実を思い出す。両親は昨日付で一週間の旅行に行ってしまったのだ。何やら商店街のくじ引きでペアチケットを当てたらしく、俺を残して旅立ったのだった。

 あのときは気遣って子供は気にしないでくれ、と提案した気がする。そのおかげもあって、一週間の期間限定で、一人暮らし(仮)ができると踏んでいたわけだ。

 堕落しきった夏休みが幕開ける!

「私、一週間この家にお泊りしますから」

「……はい?」

 まるで世界的な常識を口にするように、決定事項をただ述べるように、そんなことを口にした。

電車に乗り込んだら、扉もろくに閉めずに電車が発車したような感覚。起きたことの事態が呑み込めない。

「お邪魔しまーす!」

「いやいや、まてまてまて」

 説明不足すぎるし、残された問題を山のまま放置するのはやめて欲しい。

 足早に靴を脱ぎ、とててと歩いていく背中を呼び止めた。炎天下の中歩いたせいだろう。前を歩く彼女の背中は汗で濡れていた。その透けて見える色に反応しない男子はいないだろう。

セーラー服の奥に見えた下着に、一抹の興奮を覚えた。

 色は白だった。

 そんなことはどうでもいい。

「さすがに男の家に泊まるのはまずいだろ。それに、一週間なんて」

「え?」

「え? じゃないだろ。男女が一つ屋根の下なんて良くないって」

「何がまずいんですか? 先輩」

 何かを察したかのような笑み。全てを悟った上で、こちらの反応を手の上で転がすような余裕。彼女は、一歩二歩と悪巧みをするための距離を詰めてくる

「ねぇ、先輩。私がいると、何がいけないんですか? 先輩は、私に何をするつもりなんですか?」

汗で微かに透けて見える素肌。熱を帯びたせいで火照った体。スカートと黒ソックスの間に存在する、吸いつくような太もも。

 波打つような邪な感情が、湧かないという方が可笑しいくらいだ。三大欲求の一つの柱が激しい主張を示す。

 この描写を一言一句伝えてやろうかと考えたが、それでは俺が不利になってしまう。法廷に立つことになった際には、さらに不利になってしまう。

 俺は青い鳥を探すかのように、言い訳を探す。しかし、良いものがまるで見つからない。不思議と、鼓動がいつもと違う動きをしているせいだ。思考がまとまらない。当然、上手く言葉を発することもできないでいた。

 思春期少年脳内をプロジェクションマッピングしたかのような表情してしまったようだ。彼女が何かに気づいたように頬を赤らめた。遊び半分の言葉が、的を射てしまったとでも言いたげな雰囲気。

 彼女の方が先に視線を逸らしたということは、きっと、そういうことなのだろう。いや、知らんけどね。

「……里奈の両親に殺されるっての」

「私の両親は、先輩の両親と一緒に旅行に行ったじゃないですか」

「え? ああ、そうだったか」

 そういえば、そんな事を言われた気がする。幼馴染なのだ、両親間で仲が良いのも納得できる。でも、違うんだ。何事も事後報告はいけない。それも、男女の間の問題だとすればなおさら。責任取るにしても、人中を七発くらいは殴られることになるだろう。

「お父さんも、先輩なら問題ないだろうって」

 だいじょばない、だいじょばないですよ、お義父さん。

この場合の問題がないというのは、紳士を体現したような俺ならば、安心して娘を任せられるという意味だろうか? それとも、娘をおいしく召し上がっても問題ないということだろうか?

 お父さん、俺に過度の期待を持ちすぎですよ。

 据え膳食わぬは男の恥。

「これで問題ないでしょ?」

「問題なくはないが、着替えはどうするんだよ?」

「着替えは朝届けに来ましたよ? そんなことよりも喉乾いたぁ」

 そう言うと、彼女は俺の制止をすり抜け、とててとリビングの方に向かってしまった。

 両親同士で話すは済んでいるみたいだし、これ以上駄々をこねても逆に俺が気持ち悪がられる可能性がある。紳士的行動を取っているはずなのに、意識しすぎって言われるのはなんか癪だ。

 というか、荷物も受け取っている状況で拒む方が可笑しいか。向こうからしたら、前から予約していた宿をドタキャンされたようなものだ。非常に珍しいケース。

彼女の両親も、女の子を一人で家に残す方が心配だったのだろう。ここで断ったほうが、彼女の両親に良く思われないかもしれない。

 今朝里奈が家に来たときに、大掛かりな荷物を持っていた気がする。普通はその場で今日のこと知らされているはず。

ということは、今朝までは俺も今日から里奈が止まりに来ることを知っていたのか。だとしたら、その後に今日のことを忘れたのか? そんなに物忘れが激しかったか? 俺。

 御年十七の年を迎える若人が、今朝起きた青春な事件を忘れるとは。二重の意味で心配が重なってしまう。

 玄関で一人置いていかれた俺は、思考と記憶を整理しながら靴を脱いだ。整理をしようにも、目的のものが見つからない。気がつけば、彼女を追うようにしてリビングに流れ込んでいた。

「先輩も飲みますか?」

「ああ、もらおうかな」

 彼女が開けたリビングから流れてくる、閉じ込められた熱気。直射日光とは別の、じめっとした高温を保った空気の塊。玄関で感じたモノとは別の味をした熱量が、舌先に転がった。 

分かっていたこととはいえ、怯まずにはいられない。部屋の中でも、変わらずに夏は存在していたのだ。エアコンがついてなければ、換気だって十分でない。微かに開かれている裏口の窓だけで、何ができようか。

 部屋の中に入ったというのに、変わらずに汗が流れ出る。

 俺はろくに振り返らずに、エアコンの電源を入れた。設定を数段落とし、冷気の威力を上げる。数年の型落ちモデルのエアコンにとって、急速冷凍を期待するには荷が重い。その証拠に、開いたばかりの口元を動かすだけで、冷気のれの字も流れてこない。

 何も意味はないと知りながらも、急かすように眉をひそめてしまう。

「いくら睨んでも変わりませんよ」

「何事も、期待されるうちが花なんだよ」

「期待するのは自由ですけど、お茶がぬるくなりますよ」

「何事も、あきらめが肝心だ」

 くるりと振り返ると、家庭的な氷と麦茶が目に入った。注がれているグラスは、表面が汗をかき、妖艶的な魅力を放っていた。

 からりという氷の音が、俺の自制心を嘲笑う。笑われても構わない。喉の渇きはそんなことを訴えながら、俺の行動を支配した。

 彼女が持っているお盆から、グラスを受け取り、一気に飲み干す。

 喉元の熱を全て持っていかれたかのように、冷たさが痛覚に変わる瞬間が心地よい。鼻から香ばしい、麦茶の香りが抜けていく。今にも、鉢巻を撒いて踊りだしたくなる心意気だ。

「く~! ありがとうな、里奈」

「どういたしまして。お変わりは冷蔵庫へどうぞ」

 彼女は失笑気味に口元を緩ませると、俺の未来を予知するかのような一言を残した。俺は彼女の忠告通り、新たな潤いを求めて冷蔵庫に向かった。

 両開きの冷蔵庫を開け、零れだしてくる冷気が俺の汗を冷やす。エアコンの代用品として働いてもらうことを考えたが、ウォームアップを終えたエアコンが機械音で存在をアピールしてきた。

 どうやら、本業を奪われるわけにはいかないみたいだ。必要だったのは期待でも、諦めでもなかった。

 良い好敵手だったのだ。

 俺はキンと冷やされた麦茶を、氷の入ったグラスに注いだ。

 からんからんと冷涼感あふれる音が、麦茶の温度をさらに下げていく。これでキンキンに冷やされた。

 八割ほど新たな麦茶を注ぎ、リビングに戻ると、彼女は一足先にダイニングチェアに腰かけていた。

 いつも俺が腰かける場所の正面。まるで俺が座る場所を知っているかのようだった。

 いや、知っていて当たり前か。冷蔵庫から麦茶を氷入りで持ってくるくらいだ。我が家の間取りからシミの数まで知り尽くされていることだろう。俺も続くように、椅子に腰かけた。

 麦茶を流し込まれた彼女の喉が、こくこくと動く。その様子を他意の欠片もなく目に焼け付けると、動き方が変わった。

「夕飯までまだ時間ありますね。せっかくだし、レポート進めちゃいますか? 先輩?」

「ん? ああ」

 視線を上げて彼女の言葉に耳を傾けた。

「なんだっけ?」

「いや、だからレポートやっちゃいましょうよ。私から話聞かないと書けないんでしょ?」

「そうだった。失恋の神様について」

暑さにとろけてしまい、忘れかけていた。今年の夏は宿題とは別でやらなければならないことがあったのだ。

麦茶を一口含み、ゆっくりと口の中で味わう。冷やされた口内の温度が、脳まで伝わり、とろけた脳の流動性を弱めた。

『失恋の神様』。同じ学校で一年も長く生活しているのに、一切聞いたことがなかった。男女間で話題に違いがあるとはいえ、話題になっていたことさえ知らなかった。ただ俺が知らなかっただけだろうか?

予備知識ゼロのテーマを題材に文章を書こうというのだ。少しでも情報があるのならば、詳しく問いただしたいところ。都合よく、目の前にはその情報を持っている人物がいた。根掘り葉掘り、聞ける限りを尽くしてみよう。

「それで、失恋の神様ってなんなんだ?」

「そのままの意味ですよ」

「失恋を叶えてくれる、ってことか?」

「そう、失恋をさせてくれる神様」

「……誰が拝むんだ、そんな神様を」

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