第2話

「……」

 予期しない名前だったのか。

 メッセージで違った女の人の名前を送ってしまい、それが原因で浮気がバレてしまうことがあるらしい。そんなことを昔に観たテレビで聞いたことがある。当時の俺は、そんな平凡なフライをミスする訳がないと鼻で笑っていた。

 今同じ状況に置かれても、俺は笑っていた。本当に笑うしかないだろう。対面の会話で別の女の人の名前を出してしまうなんて。

 そして、目が冴えわたったせいか、朧気だった記憶を一気に思い出した。目の前に座る彼女の情報が、プロファイルを開くように脳内に刻まれていく。

鮎川里奈(あゆかわ りな)。学校の一つ下の後輩で、家族ぐるみで仲が良い幼馴染。時折、彼女はこの部室に顔を出すのだ。特に何をするわけでもなく、ただ時間を潰して、一緒に帰宅する。

 どうやら高校で帰宅部の彼女は、部員が二人しかいないこの部室がお気に入りらしかった。でなければ、表面上は男二人の部室に入り浸ることはないだろう。いっそ、この部活に入ってしまえばいいのに。

 これだけ鮮明な記憶があったのに、なんで忘れていたんだろうか。初老にはほど遠い。寝ぼけていた、それだけなのだろうか?

どうして、あと数秒早く思い出せなかったんだ。自身の間の悪さに内心で舌打ちをする。内心だけで全てを解決してしまいたいが、そうはいかず。発した言葉の説明責任を果たさなければならない。

謝罪会見の場はここで合っているだろうか? 機嫌の傾きを確かめるために、深刻になり過ぎない口調で確認を。

「怒っている?」

「いーえ、別にです」

 恐れながら彼女の顔色を窺ってみる。

 頬杖をついた顔からは、怒りの感情は感じられなかった。目が合った際に、ふいっと逸らした顔からは戸惑いに似た感情を覚えた。

 変わった感情を表に出すんだな。

なぜ彼女がそんな表情をするのか。その真相への探求心が止まることなく湧き出て、ずいっと食い入るように彼女の顔色を眺めていた。

 後から考えてみると、あまりにも不躾な態度だったかもしれない。戸惑いの表情は時間経過とともに、ご機嫌を傾けたような表情へと変化していった。

 彼女はこちらに一瞥くれると、そのテンションを保ったまま口を開いた。

「……レポート、書き上げないでいいんですか?」

「レポート?」

 一音一音がバラバラに脳内再生される。しかし、すぐにそれが単語であることに気がつき、話題が別のものにすり替わったのだと理解した。

 言及されることなく、事なきを得たようだ。ならば、このまま逆らわず、波に流されるように会話に乗っかるとしよう。

 レポートの説明をする前に、夏休みの説明が必要だ。

夏に訪れる長期休暇。社会人になると、めっきり姿を見せなくなると言われている夏の休みだ。まるで、子供のうちにしか見ることのできない化け物の類。その中に、今の俺達はいる。

外では四方八方が陽炎によって囲まれている。少しでも気を抜けば、奴らによって意識を溶かされてしまう。そんな熱気をまとった日本の夏。

そんな灼熱が街を襲う季節に、なぜ俺達が学校にいるのか。その疑問に何度立ち向かってきただろう。目の前に倒れる昨日までの自分の屍を超え、俺は今日も学び舎に通っていた。

その戦いとも数日前に休戦に突入していた。七月の下旬に開かれた式典にて、その旨を告げられたのだ。

要するに、終業式を終えて夏休み中だぜ! ということである。

 そして、現在は課外活動に励んでいる最中なのだ。普段使われている教室よりも一回り小さく、机の数はごっそりと減らされている部屋。

 四階建て鉄筋コンクリート、築二十年、風呂なし、共通トイレ、部屋数三十。不動産にあったら空き家確定。

 これが私立じゃなかったら、熱風をいたずらにかき混ぜる扇風機との青春が待っていたのだろう。

 ビバ、エアー・コンディショナー。エアコンと過ごす夏、何とも甘美な響きであろうか。

「オカルト部、潰れてもいいんですか?」

 脳内に築き上げた桃源郷のような四畳半に立てこもっていた所に、不躾に襖を破るようにして現れた現実を突きつけられる。今置かれている状況を直視しろと急かされているのだ。

急かされたところで、現状は何も変わらないというのに、何をそんなに急いでいるのか。疑問符を頭に浮かべながら、先程の質問に対する回答を述べる。

「良くはないんじゃないか?」

「なんで質問系なんですか」

 不平不満を訴えるように眉を顰める彼女。

 質問系じゃない、疑問系なだけだ。

 そんな屁理屈のような返答をしたならば、苦虫を嚙み潰したような表情をされることだろう。彼女の中での俺という存在が、苦虫の一つ上に位置する存在にでもなりそうだ。

まだ人間扱いをされたいので、そっと言葉を丸めて呑み込むことにした。

 呑み込んでしまった言葉は、喉に腕を突っ込んだところで、指にかすりもしない。。

じっと彼女を見つめる。自然と見つめ合う形になってしまった。このままでは、波が寄せてきて、素直におしゃべりできなくなってしまう。そうなってしまう前に、視線を彼女の後ろへと移動した。

潰れても仕方がないんじゃないかと、納得しかけてしまう理由がそこにあった。

 本棚には月刊のオカルト雑誌が数冊。妖怪、悪魔について書かれている専門書? も数冊置かれている。未だに空きスペースが目立つ本棚。空いているスペースの方が目立つというのは、いかがなものなのだろうか。

続きまして、視線は壁際に移ります。壁にはネット記事をコピーしたものが数枚貼られている。切り取りの寄せ集めだ。壁を埋め尽くす勢いなど微塵も感じられず、無地の壁の割合が圧倒していた。

カルト宗教の総本山と言われて、信じる人はいるのだろうか? いや、圧倒的にオカルト要素が足りていない。床に魔方陣さえも描かれていないのだから。色々と中途半端なのだ。

 いまいちパッとしない。中途半端なオカルト要素しか存在しない。それが俺の所属している部活の部室だった。

 オカルト研究部。通称、オカ研。

 我が名はオカ研副部長、柊誠(ひいらぎ まこと)なり。

「先輩も書かないと、潰れちゃうんでしょ。この部活」

「誠に遺憾なり」

「先輩次第でしょ! 本当に、しっかりしてくださいよ」

 彼女の呆れたような視線は、俺の網膜のフィルムを撒き戻し、過去の回想シーンへと突入させた。

 今年の四月に発足されたオカ研。どうせ、大した活動もしなくて大丈夫だろう。そんなお汁粉に黒蜜を入れたような甘すぎた期待は、顧問の一言で吹き飛ばされた。

『とりあえず、夏休み明けにレポート提出な』

 開いた口が塞がらなかった。

 何よりも驚いたことが、その教員が理科の担当だったことだった。

 大学まで科学を学んだはずの人間が、非科学的な現象についてレポートを出せと言ってきたのだ。驚くなという方が無理である。頭が可笑しいんじゃないかと思った。

 物理法則を無視したオカルト現象を証明せよというのだ。参考文献に適さない記事しかないというのに、何を情報源にして書けというのだ。それでも理系の端くれなのか?

 断固反対。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。限度を知れ。

決して面倒くさいとかではないが、ペンを執る気力さえ湧いてこない。

 デモ活動の準備よろしく、のぼり旗でも作製しようかと日々考えていた。一週間かけ、デモ活動の詳細を取り決めたころだった。そんなある日。

『僕の分は書いたから、あとは君の分だけだからね』

 そう俺に言い残し、コンクリートジャングルから離脱した部長。夏休みは家族旅行に行ってくるらしい。悪びれる様子もなく、突き放すようにそう言い残し、俺の元から去っていた。

突然の裏切りである。寝返りである。明智光秀である。

いや、前兆はあったのか

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