『失恋の神様』。この世には小説のような失恋をさせてくれる神様がいるらしい。

荒井竜馬

第1話

この世の中には、失恋の神様がいるらしい。

 別に、付き合っている二人を無理やり別れさせる神様ではない。こちらから頼むことで、失恋をさせてくれるらしい。

 恋愛成就ではなく、失恋をさせてくれる神様。

失恋の神様に需要があるのか? そう思った人が大半だろう。普通はそうでなくてはならないのだ。

きっと俺は普通じゃない。

だからこそ、そんな人達に対して、こんな感情を抱いてしまうのだろう。

『きっと、何不自由のない失恋をしてきたのだろうな』と。




「……んぱい、先輩」

 部屋に響く一定の機械音。真夏の外気温と対極的な、人工的な冷気が部屋を漂っている。微かに感じるカビのような臭い。遠き聞こえる運動部の声。その騒音までもが心地よく感じる。視界に何も映らないことを不思議に思ったが、この景色が瞼の裏側なのだとすぐに気がついた。

「先輩、せーんぱいっ」

 そんな安らぎを掻い潜って、一つの振動が俺の意識を揺らす。ずっと聞いていたいような、落ち着きのある声。落ち着く声が、今にも定着しそうな空間を壊そうというのだから、怪訝な気持ちが頭に募っていく。

徐々に大きくなってくる。その声に引かれるように、意識がはっきりとしてくる。つまり、呆けていたということになる。

 肌を滑る冷気に震え、騒音がいくつもの言葉となって耳に届く。煩わしい。先程まで薄まっていた五感が、本来の機能を取り戻していく。そうか、気がつかないうちに寝てしまっていたのか。

 数度の瞬きで視界のくすみが除かれ、適度な光が目の中に飛び込んでくる。そう長くは意識を飛ばしていたわけではないようだ。その証拠に、照明の明かりに慣れるまで時間を要さなかった。

激しい光子の代わりに、正面には女の子が腰かけていた。

 ふわっとした肩までの黒髪ショート。吊り上がった目元を和らげるような丸顔の童顔。その顔に合わせたかのように、全体的に小ぶりの印象を受けた。当然、胸も例外ではない。

「先輩! しっかり私の話、聞いてました?」

「ん、ああ。聞いてた、聞いてた」

「お母さんみたいな反応ですね」

「性別の壁を越えた返事が、俺にできるわけがないじゃないか」

「論点をずらさないでください! じゃあ、私がなんて言ったか、言ってみてくださいよ」

「あれだよ、ほら、あれ」

「ほら! お母さんみたいな反応です! そんなに私の話はつまらなかったですか?」

 ぷりぷりと怒ってしまった彼女。幼さを感じてしまうような怒り方に、見ているこっちは顔が綻びそうになる。しかし、表面上はご立腹な彼女に、そんな表情を見せることはできない。上がった口角を手で隠すように、立て肘をついて腕を置きなおした。

どうやら、話の途中で俺が寝てしまったらしい。退屈な講義を聞いていたわけでもないのに、瞼の重さに耐え兼ねてしまったのか。対面で話している人がいるというのに、寝てしまうとは。俺の知らない所で瞼が増量したとしか考えられない。

 そうは言ってもこれは俺の責任問題だ。俺の行動の責任は全て俺が取らなくてはならないのだ。理不尽極まりない。このまま社会人になろうものなら、部下の管理がなっていないと取引先に羽交い絞めにされること間違いない。

「大変申し訳ないことをした。して、議論の内容は何だったかな?」

「逆に誠意を感じません。何ですか、煽ってるんですか?」

「被害妄想甚だしいな」

「甚だしくありません! 普通の度合いを超えていません!」

 不満を示す箇所はそこでいいのか? そんな疑問が頭をかすめたが、このままでは話が平行線だ。本件とは関係のない所で盛り上がっても、問題の解決には程遠い。そのまま遠くまで行って、帰ってこないことが許されるのならば話は別だが。

雑談の上手い人は、最初に何の話をしていたか分からなくなるらしい。それでけ、会話を指数関数的な速度で広げているのだろう。

しかし、そんな『何の話をしていたっけ?』と会話中で方向音痴になるほど、俺は雑談が上手いわけでもない。

だからこそ、話の舵を取り、少しでも元の海路に戻そうと努める。少しでも角度を変えるために、一旦話を仕切りなおす必要があるとみた。

「それで、結局なんの話だっけ?」

 不毛なやり取りを終え、新たに会話を開始する合図を出す。その合図を気に入ったのだろうか。彼女は先程までの心情を海に投げ捨てるように、表情を一から作り替えた。

「もしも一つだけ、願いが叶うとしたら、何を願いますか?」

 胸を高鳴らせるように、そんな子供の時にしたような会話を持ちかけてきた彼女。身を乗り出す勢いに、思わずひるんでしまう。

まさか、こんな会話を聞いていないだけで、詰問されていたのか。理不尽にもほどがある。道理に合わせる気がないのか?

この率直な考えを彼女にぶつけてしまえば、三十分一本勝負のゴングが鳴らされることだろう。その肉弾戦には迫力こそあるが、今はそんなテンションにはならなかった。そして、それをやらせだというのは、マナー違反であると静かに思った。

仕方なしに、先程までの思考の数々を引き出しにしまうことにした。想像以上に多くて、引き出しが閉まるかどうか不安であったが、無理やり押し込むことで難を逃れた。閉まった後に一服。

いやいや、そんなことをしている時間はない。先程の質問に対する回答をしなければならないのだった。

いつでも脳内は大忙しなのだ。

願いを一つだけ叶えることができるのなら、何を願うか。

もっと幼かったころに、この手の話題で盛り上がった人達は星の数ほどいることだろう。かくいう俺も、その一人だったりする。

 昔はどのように答えただろうか?

 好きなものをいっぱい食べたい? お金持ちになりたい? ギャルのパンティーをくれ? きっと、その質問をされる度に答えは違っていただろう。

「色々ありすぎて選べないな」

 これが欲深き人間の模範解答である。異論は認める。

 その答えを聞くと、目の前に座る彼女はつまらなそうに眉をひそめた。きっと、望んだ答えとは違っていたのだろう。

 彼女が俺に求めた答えは何だったのか、その答えを俺は知りえない。

 どうにか答えを導きだそうと、彼女の全体像を捉えてみる。捉えたところで、椅子に座る彼女の下半身を覗き見ることは不可能。下から覗き込みでもしたものならば、変態のレッテルを貼られてしまうこと間違いなし。

 目の前に座る彼女は制服姿だった。白を基調とし、襟元が紺色のセーラー服。夏ということもあり、涼しげな半袖から白く細い二の腕が伸びていた。

 細さと、柔らかさを兼ね備えたような二の腕。その二の腕の先には、脇があって、双丘存在する。

ただの腕からそこまで想像、もとい妄想してしまうのは、思春期の性とも言えるだろう。

 そんな性に抗いながら、視線を彼女の顔に戻す。

 未だに退屈そうな眉毛は戻ろうとしていない。先ほどの突拍子のない質問。もしかしたら、先ほどの質問にマリアナ海溝よりも深い、意図が隠されていたのかもしれない。

そんな深さまで潜ることができずとも、一目でいいからその考えに触れてみたいと思ってしまった。未知の物を知りたい探求心とでも名付けておこう。

 俺はその真相を探るべく、伝家の宝刀『質問返し』をすることにした。『質問返し』とは、疑問形に疑問形で返すという、会話の不成立を故意的に引き起こす術である。あたかも、自分は知っていることを匂わすことができる。無知を恥じと考える思考から生まれた秘術なのである。

 この宝刀を向けられた相手は、怯み、戦意を喪失して立ち尽くす。そして、再び意識を取り戻した際に、初めから自分が質問を投げかけられていたという錯覚を引き起こすのだ。

大抵の会話は、この宝刀で乗り切ることができる。相手がそれを聞いてくるということは、相手も聞いて欲しいと望んでいるからだ。

 会話は一時も油断できない心理戦。相手の間合いを見誤る失態を犯すのものならば、一刀両断の一撃を食らってしまう。

 だから、気心知れた相手以外とは、一線を引いて会話をすることをお勧めする。

その一瞬の誤りが命取り。先手を取ったほうが栄光を掴むことができる。それだというのに、俺は刀を抜くことを躊躇ってしまった。

 相手の間合いが掴めないわけではない。刀は届く距離にいるはずなのに、引き抜く手が鞘から刀を抜こうとしないのだ。初動で後れを取った。

 分かりやすく、端的に言うのであれば、彼女の名前が出てこないのだ。

 寝起きだからか? これだけ親密そうに話しているのだから、存じ上げないわけではないだろう。それゆえに、頭が寝ぼけているせいだろうと思った。だから、会話をしていくうちに思い出すと思ったのだが、一向に思い出せない。

 そもそも、我が部活に後輩の女の子がいたのかさえも怪しい。こんな可愛い子が我が部活に属していたら、この部活は三軍まで率いる強豪校となってしまう。一軍と二軍に分かれて紅白戦ができたことだろう。それだけの集客力を期待できるほどの美貌を持っている。

 俺が並んで歩くものならば、財布と揶揄されること間違いなし。いや、財布どころか、背景としてカウントされ、ピントを合わせてさえもらえないかもしれない。

自称平均的な俺でさえも、二歩どころか五十歩後ろを歩く奥ゆかしさを求められる。日本人の美点を、ふんだんに散りばめてみようではないか。

 俺が精を出して寡黙を演じようとも、事態が急変するようなことはない。寸止めした言葉は出ずとも、話そうとした姿勢は評価されたようで、目の前の彼女は俺の言葉を待っていた。呆れの中に微かな光を感じる視線。俺の返答次第では、その光を二度と見ることはなくなるのだろう。

 安易に言葉を選ぶわけにもいかない。将棋盤に長考する名人よろしく、人差し指と親指で顎を挟み込み、思慮深い様子を醸し出してみる。

 彼女が俺の言葉を待つように、俺も記憶が蘇ることを待っていた。あと少しの時が立てば、不意に脳裏に横切りそうな記憶。その一瞬を見逃すことなく、深い思考に沈んでいく。

 互いに待ちの姿勢。数年の時が過ぎ去るほど長く感じた均衡。彼女から圧力をかけることができても、こちらからは何もできない。一方的にのしかかっていく圧力に骨がきしむ。きしきしと鳴く悲鳴に耐え兼ね、拷問から逃れるように、寸止めを食らったはずの口が無意識に動いた。

「瑞希は、何を願うんだ?」

 待ち焦がれていた記憶が蘇ったのではない。そんな都合良く蘇る記憶は、初めから覚えていた他ない。危機を演じていたと批判されること間違いない。

だから、思い出したのではない。ただ反射的に彼女の顔を見て、不意にこの名前が出てきたのだ。

 なぜその名前を口にしたのかは分からなかった。自分でも驚きを隠せない。自分で口にした言葉に驚いているのだ。きっと、今の姿を表面からみたら、滑稽な表情をしているのだろう。

 どうやら、驚いたのは俺だけではなかったようだ。

 彼女の目はぱちくりと、大きな瞬きをしていた。静かに喫驚している様子。そんなに意外だったのだろうか、俺が彼女の名前を呼ぶことが。それとも、『質問返し』の一撃を受け、軽い脳震盪状態なのかもしれない。

「……私は、里奈ですけど?」

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