ベランダに沈む、生活を愛す

飯田華

ベランダに沈む、生活を愛す

 白みだす早朝に嫌悪感を抱くようになったのは、一体いつからのことだろう。

 午前六時。目覚まし時計の呻き声よりも一時間ほど早く目が冴えてしまった私は、そんなことを考えながら、閉じ切っていないカーテンの隙間から漏れ出る光を苦々しく睨んでいた。

 今日は八月最初の月曜日。学生の身分ならとっくのとうに夏休みに突入している時節だけれど、社会人になってからカレンダーに記す予定が『出勤日』か『休日』かの二択しかなくなった私にとって、月曜日は無条件に前者の日程が組まれていた。

 はぁ……とため息を吐きながらも、何のやる気も見いだせずベッドの上で胡坐を掻いている時間を間延びさせる。ほんの少し自由時間ができたと思えばまだ気分が晴れるのだけれど、特段趣味の無い私にはその空白を埋めることすら困難だった。

 何をしよう。

 靄がかかった思考でとりとめもなく思案を重ねていると、視線が自然とワンルームの壁へと傾いていた。

 防音設備のない普通のアパートの、頼りない薄壁。

 その向こうですやすやと寝入っているだろう彼女のことを思慮に入れた後、すぐさま頭をぶんぶんと横に振る。

 生活習慣がてんで異なる私と彼女は、なかなか普段、顔を合わせる機会が訪れないのだった。

 仕方ないと肩を落として、このままだらだらしていても無駄だなと思い立ってベッドから足を降ろす。未だ熱の這い切っていないフローリングの上をそろりそろりと歩いて、キッチンへと向かった。

 電子ケトルに水道水を入れ、スイッチを押す。それから数分間シンクの前で棒立ちになり、ぶくぶくと泡立つ水面をぼんやりと想像しながら時間を潰していると、いくぶんか思考が澄んできた。

 戸棚からお気に入りの薄桃色のマグカップを取り出し、インスタントコーヒーの粉を適量スプーンで掬い入れる。カチッという音と共に沸騰し終わったケトルを傾けてお湯を入れると、鼻腔に馴染んだ匂いがふっと眼前まで立ち昇ってきた。

 スプーンでくるくると黒く、苦い液体を掻き混ぜた後、さっきよりも慎重な足運びでベランダに面した窓へと向かい、片足で無理やり戸をスライドさせた。

 瞬間、熱の篭り切らない空気が寝間着をまとっていた身体に満遍なくぶち当たる。

たまらず瞼を細めると、眼下に広がるのは白い光に照らされつつある街並みだった。

 私の住んでいるアパートは丘陵の八合目くらいに建てられていて、ベランダに出るとそこそこ広大な景色が一望できる。

 社会人になる前、この物件を選んだ最大の理由がこの景色だった。

 新生活を送る以前は「この景色を見ながら毎日出勤するんだろうな」と思っていたけれど、結局のところ、その想像が現実になることはなかった。

 毎朝同じスーツに身を包み、洗面台で髪の調子を確認する日々。そこに朝日の昇る街を視界に入れる余裕なんてなくて、急かされるような日常が当たり前になっていた。

 パッとしない。

 欠伸が誘発される、刺激の乏しさ。

 久しぶりの、住宅街とビル群の混ざり合った風景。

 それを眺めてみても、昨日と今日をくっきりと寸断するきっかけにはならなかった。




 しばらくベランダに乗りかかる形でコーヒーをちびちびと啜っていると、

「あ、起きてた」

 右隣のベランダから弾んだ声が聴こえてきた。

 びっくりしてベランダから少し身を乗り出し、首を伸ばすと、視線の先にいたのは白衣を身に纏った隣人。

 どうやら、今日は生活リズムがぴったりと嵌ったらしい。

「おはよう……わたし、起こしちゃった?」

 このアパートは壁が薄いから、朝方と深夜帯は特に気を配って過ごさなくてはならない。さっきは慎重に動いたけれど、その努力が実っているかは壁の向こうの相手次第だった。

「ん、いいや? 今日はたまたま目が覚めただけだよ。昨晩コーヒーを飲み過ぎたからかもしれない…………君の方は今から眠気覚ましが必要らしいけど」

 私の手に持つマグカップに視線を移しながらそう言う彼女の目の下には、淡い隈がじんわりと滲んでいた。大方実験に精を出していたのだろう。羽織っている白衣の裾も、長時間椅子に腰かけていた分の折り目がしっかりと付いている。

 彼女は私よりも一つ年下の大学院生で、アパートから徒歩十分のところにあるキャンパスに毎日足しげく通っている、今時珍しい勤勉な性格の学生だった。

 腰までの長髪をゴムで後頭部の一点にまとめたポニーテールに、普段着の白衣。かけている眼鏡は度数が高いのか、牛乳瓶ほどの厚さであることが窺える。とてもじゃないけど私には日常使いできなさそうな代物だった。

 そんな彼女とは部屋が隣同士だからという理由だけで仲良くなって、時折こうしてベランダで言葉を交わし、近況を報告し合っている。

 社会人と大学院生。もちろんのこと話は合わない。共通の趣味があるわけでもない。果ては、彼女が血と汗と涙を流して没頭している研究の中身のことも一切知らない。

 それでも彼女と話しているとき、思わず口角が緩んでしまうのは、彼女の語り口調が回りくどく、けれど聞いていてとても心地よいからだった。

「仕事、大変なのかい?」

 彼女が、ベランダの縁に右の頬をくっつけながら問いかけてくる。手すりのひんやりとした感触を楽しんでいるのか、レンズの奥の瞳が軽やかに潤んでいった。

「ううん、別に。カフェインに頼らなきゃいけない事態には陥ってないよ。そっちはいつも通り、疲労が滲んでるけど」

 ちゃんと寝てる? と訊くのは野暮なので口にはしなかった。目の隈の色合いがきちんと、その疑問の答えを明確にしてくれている。

「ああ、最近はレポートの校閲で教授のところへ通い詰めでね。その教授がなんとも言えない性格で…………悪い人じゃないんだけど、出されたレポートに全力投球で玄人質問を投げかけてくるものだから、正直滅入ってるよ」

 困ったように手のひらを空へ向けて、彼女は愚痴をこぼした。

それでもさほど深刻に捉えてはいないのか、努めて気楽な調子で「今日こそは質問なしで切り抜けたいね」と続ける彼女は、満ち足りた表情を浮かべていた。

 本当に研究が好きなのだろう。

 それが、羨ましくて。

 届かないものであると、密かに実感してしまった。

「…………研究、楽しそう」

 マグカップの底が見え始めた頃、ぽつりとそんなことを零してしまった。

 言ってから、今の発言は少し嫉妬が混じっていたな、と反省する。

自分と彼女。比べる必要のない両者の生活をいつの間にか天秤に載せてしまって、そんな自分がさらに嫌になった。

 今の生活を選び取ったのは、自分であるはずなのに。

「うん、心底楽しい」

 幸運にも、私の発言に宿るささいな棘を、彼女に気づいていないようだった…………いや、言及はしていないだけで、察してはいるかもしれないけど。

 そして。

「でも最近は、研究以外にも趣味らしいものができたから、より充実してるね」

「趣味?」

「そう、趣味さ」

 彼女は頬を縁から剥がし、目線を私と合わせた状態で、普段とは異なるたおやかな笑みを浮かべた。

「君とこうやって話しているのは、研究と同じくらい気分が良くなる」

「…………へ?」

 思わぬ返答に、つい素っ頓狂な声を上げてしまった。

「…………私が提供できる話、仕事の愚痴ばっかりなのに?」

 聞いていて実りのある内容じゃ決してないはずだ。

「それがいいんだよ。

 …………わたしは今まで研究一筋で、これからもきっと、生活に余裕がある限りは研究に打ち込んでいくんだと思う」

 彼女が一旦文章を区切って、間を置くために一つ息を吐いた。

 仕切り板の向こうの温度が、呼気の熱の分暖かくなっていく。

「でも、それだけだと実感が湧かないんだ。社会の一部になってるって実感が」

「一部?」

「うん、社会の歯車みたいな…………一般的にあまり聞こえの良い言葉じゃないけど、わたしにとっては目指すべき目標なんだ。

 誰かと関わっていたい。生きる意味のようなものが欲しい。研究の先に誰かがいてほしい。そういつも願っている」

 彼女は想いを告げ終えた後、ほんの少し上気した頬をこちらに見せ、「だから、君と話していたい」と言ってくれた。

「社会に出ている君の話は新鮮だし、なにより、研究の先に君がいると思えば、レポートの再提出なんて児戯に等しいからね」

「…………ふぅん」

 そんなことを考えていたのか。当たり障りのない返事とは裏腹に、気恥ずかしさから生じる熱が混ざる。純真な嬉しさが全身を巡って、自然と背筋が天蓋へと伸びていった。

 

 

 

 それを訊いて、話したいことが生まれた。

 いや、元々頭の中にあったものだ。

「でも今日は、仕事の愚痴とは違う話をしようかな」

 あと三十分ほど。仕事の準備まで時間がある。それまでは。

「この部屋で暮らすことを決めた理由について、話すよ」

 昨日と今日を、分けなくてもいい。

 とりあえず、彼女との生活を楽しんでみることにした。

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