第289話 村人転生者、至宝の書物を受け取る

終わらぬ夜と言うものはない。

窓から差し込む日の光は、安息の終わりと活動の始まりをまぶた越しに訴え掛ける。


「う~ん」

アナスタシアは朝の微睡に包まれ未だはっきりしない意識の中、これまでにない幸福感と充足感を感じていた。

布団に残る確かな温もりは彼がここにいるという幸せを感じさせ、アナスタシアは愛しの人に向かいそっと手を伸ばす。


「!?」

布団は確かにその手に彼の温もりを伝えてくれる。だがそこにいるはずの彼の姿が、指先に伝わるはずの頼もしいあの感触が・・・。

心を襲う不安、私が彼を困らせたから、私が我が儘を言ったから。

途端幸福な気持ちは霧散し、焦りと後悔が激しく胸を締め付ける。


“カチャ”

「あぁ、起こしちゃったかな?おはよう、アナさん。昨夜はよく眠れた?

えっと、もしかして俺がいなくて心配させちゃったとか?

ごめんね、ちょっと井戸に顔を洗いに行ってたもんだから。

気持ち良さ気に眠っているアナさんを起こすのも悪いと思って」


扉を開け入って来た彼は、いつもの飄々とした調子でアナスタシアに声を掛ける。

彼がいた、布団から飛び出しケビンに抱き着くアナスタシア、そんな彼女の行動にどこか困ったような表情を浮かべるケビン。


「どうしたの、アナさん。昨夜も言ったけど、俺の帰る場所はマルセル村だから、勝手にどこかに消えたりなんかしないからね?

ほら、今お茶を入れるからそれでも飲んで落ち着いて?

そうそう、ドレイク村長が出掛けにクッキーをくれたんだよ、一緒に食べよう?」


“カチャンッ、コトッ”

ケビンはアナスタシアをテーブルに誘うと、収納の腕輪からティーセットと小皿を出し、皿の上に革袋から取り出した緑色をしたクッキーを盛り付ける。


「このクッキーはミランダ師匠の手作りなんだって。ミランダ師匠は昔からよくクッキーを焼いてくれてね、俺やジミー達に振る舞ってくれたんだ。

俺たちにしたら言わば“おふくろの味”って感じかな?

マルセル村は狭い村だからね、俺たちにとっては男衆の皆が父親であり女衆の皆が母親みたいなものなんだよ。

はい、どうぞ」


ケビンはポットに茶葉を入れるとでお湯を注ぎ入れ、しばらく置いてからティーカップに注ぐ。

ティーカップからは若葉の爽やかな香りが立ち上る。

一口口に含むと仄かに甘い風味とさっぱりとした爽快感が口腔に広がり、今までの焦りや不安な気持ちがまるで嘘の様に霧散していく。


“コリッ、モグモグモグ”

クッキーの爽やかな甘みとほんのり香る渋みが心を冷静なものに変えてくれる。


「ごめんなさい、ケビン君。私ったら何をこんなに焦っていたんだか。あなたには“エルフには長い時間がありますから、何時までも待てますので”等と言いながら、自分の都合で答えを強要するような真似をして。

私は怖かったのかもしれないわね。

私はエルフ、見た目は若くてもケビン君の何倍もの時を生きる長命種。

時の流れが、時間の感じ方が普人族のあなたとは違う。

そして領都には若く美しいケイトちゃんがいる、儚い美しさを持ったお貴族様のお姫様もいる。

私は確かな繋がりが欲しかった、もうあの孤独を味わいたくはなかった。

本当に自分勝手。ケビン君の気持なんか一切考えもしないで。

私は本当に“ポンッ”」

アナスタシアの言葉を遮る様に、ケビンはアナスタシアの頭に手を載せ、その美しい銀糸をやさしく撫でる。


「アナスタシア、何度でも言うよ。

俺はアナスタシアの事を嫌いに何かならないし、アナスタシアを置いて勝手に消えたりなんかしない。

俺はマルセル村のケビン、俺の帰る場所はマルセル村でありあの農場脇の小屋なんだから。

アナスタシアがずっと一緒にいたいと言うのならそうすればいい。俺は何時でもアナスタシアの事を歓迎するよ?」

そう言いアナスタシアを撫でるケビンの瞳はとてもやさし気で、とても頼もしいものであった。

アナスタシアはこの優しい時間がいつまでも続けばいいと、心の底から思うのであった。


――――――――――――


「ケビンおはよう、昨夜はよく眠れたかな?アナさんもおはよう、何か機嫌がいいようだけど良い事でもあったのかい?」

村の宿屋の食堂に向かい、行商人ギース氏に朝の挨拶をする俺氏。

と言うかギースさん、朝っぱらからさりげない下ネタをぶち込むのはやめてください。それって言い回しは丁寧だけど“昨夜はお楽しみでしたね”と何も変わらないからね?

何度も言うけど俺は旅立ちの儀の前のお子様なの!

命の軽いこの世界、早熟な奴らもいるみたいだけど、俺は無責任な事は致しませんっての。

ほら、アナさんが聖母の微笑みで話題をスルーしていらっしゃるじゃないですかってアナさん、それって勘違いされる奴だから、ギースさんが「ほほ~、ケビンも決めるときは決めるんだな」って超勘違いしてるから。

ソルトさんとベティーさん、サムズアップするのはやめて!?


何か朝からどっと疲れる展開と相成りましたが、何とか上手いこと話を誤魔化せたみたいなので結果オーライ。

って言うか聖茶の力ってスゲーな。情緒不安定に陥ってたアナさんがすっかり余裕を取り戻してるし、既成事実を作ろうと躍起になっていた態度も鳴りを潜めたし。

マルセル村を出発するときにアルバート子爵様が嫌味たっぷりにお与えくださったミランダ師匠特製抹茶クッキーも、こんな形で役に立つとは思いもしなかったわ。

ここまでの流れを読んでの行動だとしたらアルバート子爵様マジバケモンだなと思うけど、今回は偶然だね。でも抹茶クッキーが役に立ったのは確か、あなた様もお認めになった聖茶の便利な使い方、あまり頼り過ぎない様にしよう。

こうした危険物は個人的にこっそり楽しむに限ります。


幌馬車の旅は今日でお仕舞、クリスティーヌも久々の引き馬業務に張り切っておられるご様子。

マルセル村からの行程はほとんど俺が魔力で覆ってた上に乗馬での旅だったからな、元気が有り余っておいでなんでしょう。シルバーは元々の体力が違うし、引き馬さん方は絶好調でございます。

お馬さん方がそんな調子なもんで、二台の幌馬車での移動はとってもスムーズ。

お昼前には領都グルセリアの街門を潜り目的地であるモルガン商会店舗前に到着したのでございます。


・・・事件が起こらなかったよ、おい。

これって凄くね?これってあれ?冒険者ギルドも教会も立ち寄らないで只管に移動だけをした賜物?

今は魔物の冬眠期ですし、絡んで来る魔物もほとんどいませんし!

冬場の移動、通りの減る街道、魔力纏いが出来る者にとっては悪くないかもしれない。

冬の寒さも何のその、辺境の田舎暮らしの必須技能“魔力纏い”、その効果は絶大。

俺の不幸引き寄せ体質を軽く凌駕する、素晴らしいものでありました。


「やぁケビン君、よく来てくれたね。早速だけど例の本、<スライム使いの手記>の製本版が出来たんだが、その確認をしてもらいたい」


護衛の銀級冒険者“草原の風”とはここでお別れ。どうもこの二人、この依頼が終了し次第マルセル村に修行に行くと言う話だったので、村門受付の月影宛に俺が許可を出したと分かる書状とボビー師匠宛の書状を書いて渡しておきました。

まぁこの二人の事はマルセル村の者なら皆知ってるから問題ないとは思いますが、こう言う事は手順が大事と申しますし、村門では「銀級冒険者パーティー草原の風、ボビー師匠に書状を持ってまいりました」とでも言えばいいと言い含めておきました。

どうせ馬鹿な冒険者がたむろしてますからね、名乗りを上げれば勝手に手紙の配達と勘違いするはず、余計な諍いは無いに限ります。


まぁそんな事より今はジニー師匠の手記ですよ、手記。俺はソルトさんたちの旅の安全を祈りつつ別れを告げ、モルガン商会商会長執務室に居られるモルガン商会長様の下に向かうのでありました。


「それでこの三冊がケビン君から頼まれていた品になる。この簡素な表紙のものは原書版と活字版、そしてこの豪華な装丁のものは貴族や金持ち向けのものとなる。

時間が掛かったのはやはりこの豪華版でね、ジニー師匠の文章を全て代書師により書き直してもらっている。

見てくれたまえ、この美しい書体を。この流麗な文章がすでに芸術だと思わないかね?

そしてこの写実的な挿絵、スライムの生態がまるで植物図鑑の様に正確に描かれている。これはこの<スライム使いの手記>の記述を基に現役のテイマーに実証実験を行ってもらい、その様子を観察した上で絵に起こしてもらった結果なんだよ。

やはりこちらも信用商売だからね、いくらこの手記が好事家に受けのいい雑学書とは言え、その内容が誤りだらけであっては販売元であるモルガン商会の信用問題にもなりかねない。

その辺の確認を行う事は出版元としては当然の事なんだよ。

最初はこの仕事自体小ばかにしていたテイマーも、スライムの有用性には舌を巻いていたよ。特に驚いていたのが下水道スライムを使った殺菌消臭剤の作製だったな。

下水道スライムと言えば汚れの象徴、そのスライムが殺菌消臭剤の原材料を作り出すだなんて考えもつかなかったそうだよ。

私もその殺菌消臭剤は見せてもらったが、あれは大したものだった。惜しむらくはテイム魔物のスライムからしか作れないという点だろうな、大量生産には向かないと言う事だ」


流石はグロリア辺境伯領の雄、渡された手記を妄信せず確り検証してから製本するとは、この慎重さが信頼に繋がっているんだろうな~。


「そう言う事でしたら<魔物の友>のスキル持ちの方を探されるといいですよ?

ご存じかどうかは分かりませんがテイマーの外れスキルと呼ばれるもので、数多くの魔物をテイム出来る代わりに最下層魔物と呼ばれるスライムやビッグワームしかテイム出来なくなると言われるスキルです。

<スライム使いの手記>の著者、ラッセル村の養蜂家ジニー師匠もこの<魔物の友>の持ち主で、若い頃は大変苦労なされたとか。

今はその<魔物の友>の特性を生かし、フォレストビーの体調管理を行い素晴らしい蜂蜜を作り出しているお方です。

そう言えばモルガン商会でも聖水布作製の為にジニー師匠の蜂蜜をご購入いただけているとか、ジニー師匠に代わりお礼申し上げます」


「おぉ、あの素晴らしい蜂蜜か。ギースが素晴らしい蜂蜜と蜂蜜農家を見つけたと言っていたが、あれはケビン君が紹介したものだったんだな。

こちらこそありがとう、おかげで聖水布の生産は順調だよ。

ただ今は王都との関係が微妙でね、逆に言えば王都からの増産要請も“グロリア辺境伯様に御問い合わせください”の一言で済むから助かってはいるんだがね。

それにしても<魔物の友>か、テイマーとしては外れもいいところ、底辺冒険者と呼ばれる者のスキルだったかな?

スキルとは女神様の慈悲、全てのスキルに外れと言うものはあり得ない。教会の司祭様がよくおっしゃるお言葉であったが、なにごとにおいてもその活用法という事なんだろうな。

これは本当に盲点だった、早速<魔物の友>持ちのテイマーを探してみるとしよう。ケビン君の助言に感謝する」


そう言い頭を下げるモルガン商会長。この<スライム使いの手記>を切っ掛けに<魔物の友>持ちのテイマーが見直される様になれば。

多くの冒険者に馬鹿にされ、それでも挫けずに冒険者活動を続けたジニー師匠。

最下層魔物のスライムを使い数々の依頼を熟し、銀級冒険者としてその存在を示し続けた男の思いが詰まったこの手記が、後に続く<魔物の友>持ちの道標となれば。

ケビンはテーブルに置かれた<スライム使いの手記>豪華版を手に取ると、熱い想いを胸に最初のページを開くのでした。


“コンコンコン”

「“失礼します。商会長、お客様がお見えです”」

叩かれる執務室の扉、「あぁ、入ってもらってくれ」と答えるモルガン商会長。


“ガチャリ”

開かれた扉、コツコツと靴音を立てて入室して来たスタイリッシュな老紳士。


「お久しぶりでございます、ケビン様。グロリア辺境伯閣下がお待ちです、どうぞこちらへ」

にっこりと紳士的な笑みを浮かべるそのお方は、グロリア辺境伯家の重鎮、グロリア辺境伯家執事長ハロルド・ロンダートその人なのでありました。

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