ミア、月に行っちゃったってさ。(2)
翌週、金曜日。中間試験が過ぎた翌日。昼休み。
「ウチが何言っても、今朝からずっとこんな状態なんだけどさ」
「うん」
「おう」
「……」
キョウコは自分の足元を見つめたまま、石像のように動かない。右手に強く握ったコロネからは、ゆっくりと中身がはみ出しはじめている。理由は――誰が言わずとも分かっている。どうやら会心の出来、というわけではなかったようだ。
「ほらパン食べさせてあげるから。口開けて。あーんして。あーん」
今後はブリキのオモチャのようにぎこちない動きになるキョウコ。チヒロの手から、たどたどしく開いた小さな口へ収まるようにちぎったチョココロネが放り込まれ、機械的に咀嚼される。
「やっぱり数学か?」
こくんと首が縦に振られる。
「まるで解答してなかった、ってわけじゃねえんだろ」
こくんこくんと、今度は二回振られる。
「僕が教えたところはわりとそのまま出てたから、問題ねえと思うけどなあ」
「うん。二枚目の……微分のところは確かにおれも分かりづらかったけど、それ以外はわりと素直だった……ような気がする」
「そうそう。ウチでも出来たんだから、キョウコもなんとかなってるって」
咀嚼が終わり、嚥下される。
「……勉強できる人間はみんなそう言うんだよ」
そして、どこか恨めしそうな呟きを漏らす。
キョウコが感情を表に出すことはそう多くない。いつもは当然のように赤点を踏み抜き、それでも当然のように澄ました顔でいるのがこの女である。それが、今回はこの有様だ。プレッシャーを感じたことがないと言っていても、試験前にあんなことを伝えてしまったのは間違いだったかもしれない……とヤスヒトは今さらに後悔する。彼女にとっては相当に悩み苦しんだ一週間だっただろう。
それでも――あんな条件を出したクロサワの肩をもつわけではないが――きっといい機会だったのだ、とも思う。自分のように道を目指すものでもなければ“勉強ができること”は人生において決して一番に重要なことではない。それでも出来れば出来た分だけ選択肢は広まる。“この町を出るため”という目的のために大学へ行く道を選ぶにしても、それなりの学力は必要なのだ。
「とりあえず今日の放課後、キョウコはウチがもらうからね」
「どっか行くのか?」
「カラオケ」
「なんだよ、僕達も連れてけよ」
「嫌。アンタ達がいると、キョウコぜんぜん歌わないんだもん」
ヤスヒトとタカオは顔を見合わせた。
―――
放課後。
「ま、ダメだったからって、おれは別にキョウコのせいにするつもりはないよ」
「そんなの当たり前じゃねえか」
「で、本音は?」
「僕がつきっきりで補習したんだから、成果が出てくれないと困る」
「お前らしいな」
コンビニの前でホットスナックにかぶりつく男子高校生二人。
「人に教えるってのも悪くはねえな。どこに躓くのか、どこが分からないのか、そういうのを考えると、自然と自分自身の勉強にもなる」
「そういうもんなのか。おれは面倒で仕方が無いだけだけど」
「期末試験の時はみんなで勉強会でもすっか」
賛成も拒否もなく、タカオは缶コーヒーをすすった。
試験に限らず、勉強というのは本来個人競技のようなものだ。それこそあえてキョウコの言葉と引用するならば“陸上と同じ”と言ってもいい。誰かと競うことはあっても、導き出される結果と点数は絶対的なもので、他人の介入する余地はない。結果が出れば自分のおかげで、出なければ自分のせい。ごくごくシンプルなもの。それだけが全てではないが、絶対的な基準ではある。それがそもそも“学校”というシステムの基本なのだ。
勉強が出来れば、道は拓ける。月に行くことだって出来る。
ヤスヒトは急激に冷めはじめた肉まんを頬張り、空を見上げる。日の落ちた薄紫の空は雲一つなく、白く透けたような月が浮かんでいる。月を見る度に思い出す。ヤスヒトだけではない。タカオもそうだ。気付けば二人で月を見ていた。
「……おれは、あいつのことを何も知らなかったよ。ずっと五人でいたのにさ。勉強が出来ることだって、そういう夢があったことだって、色々動いてたことだって、何も」
「普通はそういうもんだ。他人だからな」
「他人か。あいつ、おれ達のことをどう思ってたんだろうな」
言葉には裏がある。四人が彼女を他人だと思っていたことなど一度もない。そうでなければ、彼女が突然消えてから半年、四人揃って“示し合わしたかのように”思い出すことなどないはずだ。
「わっかんねえな」
「わかんないよな」
二人でまた顔を見合わせる。
―――
――冬空祭。
元は、どうにも集客に困った市の広報課と商工会が無理やりに興したイベントだという。毎年十一月末の土曜日夜に開催される、特に何かがあるわけでもない――地元の人間からすれば“微妙”な催し。ヤスヒトも子供の頃に一度行ったきりだ。
開催場所は郊外。山の上とまではいかないものの、傾斜地に位置する日帰り温泉施設の一角。広大な駐車場と相まってスペースだけはあり、出店も並ぶ。だが高校生が行って楽しめるイベントではない。基本的には市に住む家族連れ向けだ。
だが今年は違った。
行ってみないか、とタカオ達に切り出したのはヤスヒト本人である。理由は簡単。折しも、今年は祭りの当日が満月になると分かったからだ。それを聞いて、初めの頃は「何故?」と顔を見合わせていた三人も、ああ、と頷いた。その返事で、行くことが決まった。
しかしそこでまた問題が一つ発生する。会場に行くまでのアシである。驚くことに当日は送迎のバスがない。市の人間なら誰でもクルマくらい持っているだろう、という当然の事実があるからだ。
「じゃあ、キョウコのバイクに四人乗るのは」
「曲芸?」
そう、クルマがない。今にして思えば、誰かの親に頼んで出してもらえばそれで良かったのだろうが――四人で会話をしていた時、ちょうどそこに通りかかったのが教師のクロサワである。
斯くしてアシは確保できた。ただし“四人の中で、今度の中間試験で誰も赤点を取らないこと”という条件付きで。
そして話は今に戻る。
―――
クロサワが実際どう考えているのかは分からない。たまには教師らしいことを言ってやろうと、自分達に“ちょっとした課題”を課しただけなのだろうとは思う。
もしもキョウコが赤点を取ってしまったとしても、あるいは頼み込めば“今回は特別に”とばかりに連れて行ってくれるかもしれない。そうでなくても――本当に、何が何でも――冬空祭に行きたいなら、誰かの親に頼めばいい。しかしこれはまがりなりにも“約束”だ、その結果は本来、課題を果たした末にしか達成できない。それを一番分かっていたのは、きっと他でもないキョウコ本人だ。一言も口に出さなかったが、彼女にかかるプレッシャーは並大抵のものではなかっただろう。何しろ、個人競技だったはずの勉強という行為に“自分のせいで他の人間に影響する”ことが発生したのだから。もちろん、たかが思いつきで決めたイベントの一つや二つ、キャンセルになったところで誰も文句などいうはずもない。それでも彼女は「やるよ」と決めたし、責任を負った。だからヤスヒトは自ら協力を申し出た。その覚悟に応えるべく。
そう。選択とプレッシャー。そして覚悟。きっと最後はそれが物を言う。
往々にして、人生には岐路と機会がある、とヤスヒトは思っている。高校受験、大学受験、進路。大きなものから小さなものまで。
自分の目指すべき道は決まっている。ルートを引ききった登山のようなものだ。けれど道中に何があるか……それは登ってみないと分からない。落石があるかもしれないし、天候が急に崩れるかもしれない順当に行かなくなった時。不意の選択やプレッシャーに迫られた時。。道行く誰かと運命を共にしなければならなくなった時。その時にどういう行動を取るかも、また岐路であり機会だ。諦めてしまうのも一つなら、力を奮い立たせて望むべき道に挑戦するのも一つ。
これまでヤスヒトは順当に道を登り続けている。これから何が起こるかは分からない。いざ苦難と選択に直面した時に、果たして自分にもそんな気力は沸くだろうか。自分は今までそんな“苦戦”をしたことがあっただろうか。
―――
そして。
この道の先に、誰よりも早く辿り着いた人間がいる。
彼女は誰にも言わずに事を成し遂げ、そして月に行った。公募があった、とか、今度こういう試験を受けるんだ、とか、そういう事は一言も言わずに、四人の前から、学校から、そしてこの町から姿を消してしまった。誰よりも先に、黙って、ひょいひょいと道を駆け上がり、そして消えた。岐路も機会も苦難もあったかもしれない。それでも彼女はそんなことを一切言わず、きっと一人で乗り越えた。そう、勉強とは個人競技。だから誰にも頼らなくていい。誰にも告げなくてもいい。それは真実で、責めるようなことではない。「一言でも言ってくれたら」などと、たかが“友達”に非難されるようなことなどない。至極真っ当な行動だと言える。
けれど。
ヤスヒトは月を見上げて一人呟く。
「ミア。お前はずっと、僕達の前でいったい何を考えていたんだ?」
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