ミア、月に行っちゃったってさ。(1)
「ミア、月に行っちゃったってさ」
そう噂が立って、今日で半年になった。
―――
死んでしまった――という比喩ではない。ある日突然、彼女は本当に月に行ってしまった。今年度の特別調査隊に個別スカウトされただとか、公募で入り込んだのだとか、噂はどれも曖昧で信憑性がない。事実なのは、誰にも言わず、誰にも知らせず、たった一人でこの町を出て、そして行ってしまったということだけだ。
本当のことは誰にも分からない。
まだ半年。もう半年。今日に限って、そんなことを思い出す。
―――
稲葉康仁……ヤスヒトは月に憧れていた。
子供の頃に“しょう来なりたい仕ごと”を書かされる時は、誰もが立派なことを書く。芸能人、オリンピックの選手、警察官、パイロット、宇宙飛行士、そして月面調査隊。夢を見ることは誰でも出来る。そのどれもが他愛もない、モノを知らぬ子供が考えるぼんやりキラキラとした憧れの仕事だ。数年も経てばその考えは変わってくる。それらの職業に就ける人間には才能と努力が必要で、およその人間はそのどちらか(あるいはどちらも)が欠けている。だからほとんどの人々は現実を知り、結局は“出来る範囲でなんとなく”やっていくようになる。それが普通だ。あの時に何を書いたかなんて、みんな覚えてすらいないだろう。
ヤスヒトは違う。彼は子供の頃に書いた“しょう来なりたい仕ごと”……月面調査隊員という仕事を諦めていなかった。はっきりと希望を持ち、夢物語に終わらせず、進むべき進路をイメージしながらこの十数年という人生を歩み続けていた。
一大国家プロジェクトだった昔に比べれば、今は民間企業も参入していてアプローチも様々だ。月面調査隊員という職業は、オリンピックの選手や宇宙飛行士(この場合は調査員や作業員ではなく、航宙技術や宇宙船の船長などのスペシャリストのことを指す)に比べれば現在はそれほど狭い門ではなくなった。それでも資格や技術の必要な専門職であることは確かである。少なくとも、相応の努力は必要だ。
先週に回ってきた進路調査票も、渡された直後に具体的な大学名を書いて提出した。単なるネームバリューで決めたのではない。そこは地質学や宇宙工学といった分野に長けた工業大学だった。まずはそこに入学し、学問を修め、院を出て、資格を取得し、しかるべき機関、あるいは民間の振興宇宙開発企業に入り――そして月へ行く。助手でも何でも構わない。ともかくそこまでのビジョンは明確にある。月面の研究施設に立つ時、自分はいったいいくつになっているだろう。そんなことを考えながら。
―――
だが、ミアは先に月に行ってしまったのだという。
ヤスヒトにもタカオにも、キョウコにもチヒロにも、誰にも知らせず。
一度だって、そんな素振りも見せないまま。
―――
土曜日。休日の昼前。
「B、L、T」
「ベーコン、レタス、トマト」
「そうか。じゃ、僕はトマトだけ抜いてもらうぜ」
「お前、まだ苦手なのかよ。中学の頃からそうだったろ」
「うるせえな。トマトが食えないからって、人生に不利益なんかねえんだよ」
駅前のビル一階に珍しい店が出来た、と聞いたのは先月のこと。
土日も試験勉強ばかりで気が滅入る、とタカオが言ったので、二人で来てみた。
外資系ファーストフードのサンドイッチチェーン、ペイブウェイ。葉巻型(弾体型)ブレッドを使ったサンドイッチを主力商品としており、お好みでチーズやエビなどをトッピングすることもできる。もちろん――抜くこともできる。
「BLTでトマト抜き、なんて、高校生の男が堂々と宣言することじゃないな」
サラダチキンサンドのチーズトッピングを食べながらタカオは呆れたように言う。
「そう言うなよタカちゃん。多少偏屈なくらいが、印象に残る男ってモンだ」
「一理ある。良いか悪いかはともかく」
サンドイッチといえば、この町にある古い喫茶店でもよく供されてはいる。ただそれは食パンを使って三角に切ったタマゴやらハムサラダがメインの、いかにも昭和っぽい食べ物だ。ペイブウェイに並ぶのはアボカドやエビ、ローストビーフ……全粒粉やらなんやらのブレッドなど、あまり馴染みのあるものではない。ヤスヒト達以外の客も、メニューやトッピングを珍しそうに眺めている。ヤスヒトもまた、それが美味いかどうかよくわからないまま“BL”サンドにかじりついた。
「誘っておいてなんだが、あんまり男二人で来るところじゃねえな。やっぱりダムダムハンバーガーにすりゃ良かったか」
「たまにはいいんじゃないのか。……それよりも」
さっさとサンドイッチを食べ終えたタカオが、改まったように切り出した。
「あの話、本当なのか」
「ああ。クロサワちゃんと話がついたぜ」
「マジかよ」
「僕はこれでも品行方正成績優秀で通ってるからな。ただ、条件を出された。四人の中で、来週の中間試験において赤点を取った奴が一人もいないこと」
「お前のことは心配してない。チヒロと……まあ、おれもやるだけやってみるけど、後は……」
「言うな。言わねえでも分かる。そのために僕が勉強見てやってるんだ」
「クロサワちゃん、普段そんな素振りもしないのに、こういう時だけ教師みたいなことを言うんだな」
「あれでも結構いい大学をいい成績で出てるらしいぜ。その気になれば私立進学校だってどこだって雇ってくれるくらいには。……それが何で“こんなところ”に戻ってきたのかは分からねえけど」
この町には大学がない。あるのは高校まで。あとはせいぜい専門学校くらい。ヤスヒトは高校を卒業したら大学へ行くつもりでいる。それはつまりこの町から出て行くのとイコールだ。以前に聞いたが、卒業生いわく、進学してこの町を出て行った人間が、またすぐに戻ってくる例はあまり無いのだという。ほとんどが就職先を都心で見つけ、一人暮らしをはじめ、たまの長期休暇に里帰りする程度。
おかげで、この町はごくゆっくりと人口を減らしつつある。
不便な町だから、というわけではない。商店街はともかく駅ビルもあるし、このご時世ネットで頼めば大抵のものは手に入る。
この町から出て行く理由もない。
だが、だからといってこの町に残る理由もない。
この町に住む人間だからこそ感じる感覚がひとつある。四方を山に囲まれた山峰市は、曰く「囚われている感覚がある」のだという。タカオはともかく、キョウコもチヒロもそう言っていた。ヤスヒトの年代はたいていみんなそう思っている。
とはいえ、ヤスヒトは特にこの町が嫌いなわけではない。大学に進むには町から出て行くしかない。それだけだ。彼が求め向かう先は頭上にある月であり、山の向こうを越えた大都市ではない。四方を山に囲まれていても、上を見上げれば目標は常にある。
「さて。食うだけ食ったが。……昼飯にしては中途半端だが、まあいいか」
「また来るか?」
「じゃあ今度は四人で、だな」
「でもキョウコはレタス嫌いだって言ってたぜ。チヒロはあんまり肉食わねえし」
「マトモにBLTが食える奴はおれ以外にいないのかよ」
―――
翌月曜日。放課後。図書館にて。
「……で、ここでさっきやった方程式を使う。こうして……こうやって分解すれば……ほら、見覚えあんだろ?」
「ちょっと待って。今のところ、もう一回」
地頭はいい。おまけに「わからないところ」があったらその部分を徹底的に探り込む。キョウコはそういう性質だ。特に数学のような答えの決まっているものなら尚更覚えが早い。きちんと教えてやれば、スポンジに水を吸わせるように学習していく。勉学に取り組む才能だけなら、あるいはヤスヒトよりも上かもしれない。
「オーケー、オーケー。理解はしてるんだよな。後は……」
「本番でどうか、ってとこ」
「だよなあ」
くるん、とペンを掌で一回しして、キョウコは椅子の背もたれに寄りかかる。
「こういうこと聞いていいのかどうかわかんねえけどさ」
「うん」
「元陸上部ってんなら、これまでも記録会とか大会とか、そういうのはあったわけだろ。誰よりも“本番に強い”タイプかと思ってたけど」
「あれはね、考えなくていいから」
「へえ」
「陸上が好きだったのはそういう理由。走る、と決めたら頭をカラッポにするの。それに相手がいて戦うスポーツじゃないから……どんな時も“やることは一緒”でしょ」
「プレッシャーとかそういうが理由じゃねえんだな」
「ない。他のことを一切考えないようにする。そうすれば周りに何も見えなくなるし、それが練習でも本番でも関係なくなる。自分の身体にだけ集中していればいい」
そう言ってキョウコは、スカートからのぞく太腿を自分の掌でぺちん、と叩いた。
「じゃあ、テストの“本番”が弱いってのは」
目のやり場に困りつつ、ヤスヒトは返す。
「何て言うのかな。だって、テストって……問題が変わるじゃない」
「……そりゃ変わるな」
「……変わるよね」
お互い“当たり前のことを言ったな”という目線を交わす。
「でも今やってる数学なんて、使う数式は一緒で、せいぜい式を使う順番とか数字が変わるだけじゃねえか」
「それ。その順番が変わるっていうのがダメで」
「うう、うん。うん?」
「こんなにスッと解けるわけない、とか、もしかしたら単純に見せてるだけで落とし穴があるのかもしれない、とか、色々考えちゃうし。そうなるとあたし、今みたいに参考書を読み返したりしながら確かめたくなっちゃうんだけど。でも本番じゃそんなことできないでしょ。結局、時間切れになっちゃう」
ピンときた。キョウコに足りないのは応用力と、そして“深読みのしすぎ”だ。おそらくキョウコは頭が良い。だから一度そういうモードに入ると“考えすぎ”る。
「いつもそう、だから……どうせそうなっちゃうなら、テストなんて諦めた方がいいかな、って……」
「言わんとしてることはわかるけどよ……陸上でも、本番さえよけりゃって練習サボるのか?」
「そんなわけないじゃん」
「だろ。だから反復して頭に叩き込むしかねえんだよ。それこそ“考えなくても自然と出てくる”くらいに」
「結局、数学も暗記科目なんだね。あたしの苦手なやつ」
キョウコはテーブルに顔を突っ伏し、溜息をついた。
「そういうこった。で、後は本番でその直感を自分で疑わないこと」
「うーん」
図書館の窓を見る。外はいつの間にか日が暮れきっていた。
「……ま、教えることは教えたぜ。今日はこれくらいにしておこう。後はとりあえず明後日の試験まで暗記、暗記、暗記だな。単なる付け焼き刃じゃねえし、下地はカンペキに出来てる。その保証は僕がする」
「ありがと」
手元には二人で作った特製の暗記シート。それも二度も作り直したもの。
歴史でも数学でも理科でも、こういうものは自分で書き込まないと覚えない。これはヤスヒトの持論である。
「それに」
「それに?」
「僕達には、今回、なんとしても赤点を回避して貰わないとならねえ理由がある」
「……なにそれ」
キョウコは眉をひそめ、怪訝な顔をした。
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