ミア、山で消えちゃったってさ。(5)

 この山峰市は四方を山に囲まれている。


 もちろん、それは単なる地形の話だ。物理的に出ようと思えば出ることができる。方法は簡単だ。駅から電車に乗ればいい。クルマでもいい。国道を進めば山にはぶつかるが、そこには整備されたトンネルがある。高速道路だって使える。キョウコがバイクに乗る本当の理由もそこにある。だから彼女は“アシ”が欲しかった。電車よりもいい。重要なのは“アシ”だ。いつでも、自分の意思でこの町から出られる。そのための力が欲しかったのだろう。高速にでも乗れば半日もかからずにここから出てしまえる。

 彼女がバイクの免許を取ったと言った時、タカオ達三人は「あんまり周りに言うなよ」と告げた。キョウコもまた「そんなことわかってる」とぶっきらぼうに返した。ただでさえ見た目に周りを寄せ付けない雰囲気を放っているキョウコがバイクに乗っていると知ったら、他の人間は彼女をこれまで以上に奇異な“不良少女”としての目で見るだろう。


 けれど実際は違う。どこまでも一人で行ってしまいそうで、しかし彼女は今までそれを実行に移したことがない。自分の“アシ”を使って行くだけならいくらでもできる。しかし本当の意味でこの町を出ることは出来ない。タカオもキョウコもまだ高校生だ。一人で生きられるアテなどない。この町から出たところで、半日か一日後か……必ず帰ってこなくてはならない。出たくても出られない。だから彼女はまだここにいる。


 だが、ミアは別だった。“不良少女”でもなかったミアは、一人で消えた。一人で奥熊沢を越え、雁根岳に向かい、半日か一日経っても帰ってこずに消えた。彼女はこの町から居なくなった。この町から本当の意味で出て行ってしまった。だからこそ、その意外性に周囲はざわついた。


 そうして半年が過ぎた。


―――


 タカオは子供の頃、灰川ダムまでは行ったことがある。その先はない。行ったところで何もないからだ。これはキョウコも同様である。今はもう使われなくなった旧道。ただ山を出ていくだけならこんな道を通る必要はない。バイクやクルマのような“アシ”がないなら電車に乗れば良い。歩くにしても国道の道を行けばいい。

 それでもミアはこの山の道を選んだ。二人は今、その痕跡を辿っている。

 かろうじてアスファルトで舗装されてはいるものの、クロサワの言うように道のコンディションは良くない。落ち葉はもちろん、落石や落枝、路面のヒビ割れも目立つ。そんな道を、キョウコはスピードを落としながら慎重に進んでいく。後ろに乗るタカオも、転び振り落とされないよう重心に気を遣う。

 山道を行けば行くほど気温は下がっていく。路面凍結まではいかないが、冷たく湿り気を帯びた空気が二人を容赦なく裂く。防寒装備を着込んでいても、指先からどんどん冷えていく。これもまたバイクの長所であり、短所でもある。


 ――ミアは、本当にこの道を歩いたのだろうか。こんな道を。一人で?


 熊沢、という地名は読んで字の如くだ。朽ちかけた“熊出没注意”の看板が示す通り、熊が出るから付けられたのだという。近くを流れるのは熊沢川の源流のひとつで、これが先ほどの灰川ダムにぶつかり、熊沢湖になる。そして川となって山峰市を渡る。タカオ達が毎日のように見ている山も、こうして奥まで踏み入れば、見た事のない景色が広がっている。鬱蒼とした木々の間を踏み入り、人気のない道を行く。本来“山を越える”とはそういうことなのだ。彼女があえてこの道を選んだのはそれなりの理由があったのだろう――とタカオは思う。


―――


 そうして旧道を進みはじめて三十分ほど経ったところで――二人は土砂崩れによる通行止めに当たった。

 行けども続くかと思われた林道の果ては、あっけない終わりだった。


―――


 奥熊沢旧道の先。雁根岳の――今はどのあたりだろうか。

「まあ、こんなもんだよな」

「……そうだね」

 本当にその先に行くつもりならバイクを止めて歩いてもいい。そうでなくても、このモタードなら多少の砂利道や未舗装路だって乗り越えてしまうだろう。オンロードタイヤを履いていても、このバイクにはそれだけの力がある。二人の元にはそれがある。

「ミアは、この先に行ったのかな」

「どうだろうね」

 けれど二人は“ここで諦める”ことにした。目の前にあるのは朽ちかけた通行止めゲート。それはまるで二人の……山峰市に住む、ちっぽけな十代の若者二人の行き着く先を示すようでもあった。

 停めたバイクの傍らに立つ二人が、ほぼ同じタイミングで空を見上げる。時刻は昼頃。木々に囲まれた隙間からは青空が見える。気温は低いものの、こうして立ち止まっている分には陽光もいくらか暖かく感じられる。まるで木々に包み込まれているかのようだ。

「見つからなかったね、ミア」

 もちろん本当に見つかると思っているわけではない。この道を歩いていったとしても、それは半年前のことだ。そんなことは理解している。それでも、ミアが踏み入ったこの奥熊沢まで来れば何か分かるかもしれない。少なくともキョウコはそう思った。失踪してから半年。四人が揃ってミアのことを思い出したのは、決して偶然などではないだろう。だからここに来た。

「それで」

「うん」

「どう思った?」

 いくら旧道があるとはいえ、山を一つ越えることになるとなればかなりの距離がある。まして徒歩で奥深くまで進むなど、入念な準備でもしなければただの自殺と一緒だ。結果、彼女は行方不明になった。

「アンタが一緒に来てくれて良かった」

「?」

「この道は怖かったよ。路面の悪さもそうだけど、それ以上に、雰囲気が……っていうか。こんな道を一人で進んでたらどうにかなっちゃってたと思う。しかもこんなところで行き止まりになって、山の中でひとりぼっちになるなんて」

「バイク乗りってのは一人でどこまでも行けるものなんじゃないのか」

「あたしは、たぶん、そういう性格じゃない」

「そんなのは知ってるよ。おれだけじゃなくて、チヒロもヤスヒトも」

「そっか」

 志村響子という女は、とかく周りに誤解を与える。独立心が強く、他人を寄せ付けない仏頂面の下には、孤独を嫌う少女の顔がある。

「でもミアは違った。ある日いきなり、誰と一緒でもなく、誰にも知らせず、一人でこの道を歩いて、この町を出て行こうとした」

 そう。こんな道を、ミアはたった一人で歩いた。おそらく彼女が通った時にもここは通行止めだっただろう。それすらも乗り越えていった。そうして山を越え、無事に抜けられたのか。それすらも二人には分からない。

「なんにも分からなかったよ。結局、あたし達はあの子にとって何だったのかな」

 何が彼女をそうさせたのか。それほどまでに自分の足でこの町を離れたかったのか。あるいは自らの人生を――。


「……もう帰ろうか、タカオ」

 キョウコは力なく微笑み、そう言った。決して本心を明かすのが得意とはいえない彼女の――その表情は間違いなく、本音の表情だった。


「何見てるの?」

「志村響子」

「の?」

「顔」


 ローキックは飛んでこない。


―――


 行けども行けども果ての見えずにいた旧道も、帰路となればあっという間だった。旧道の入り口である灰川ダムまでは、体感にしてほんのすぐ。彼らは山越えどころか山頂付近にすら辿り着いていなかった。結局、それが彼らの限界だった。


 灰川ダム管理事務所の付近、他に停まっているクルマなどいない駐車場に寄り、休憩を取る。作業員用の自動販売機まで行き、タカオは二人分の同じ飲み物を買う。

「ほら」

 買ってきたうちの一本を、車止めに座っていたキョウコに投げる。

「熱っ……て、ホット?」

「たまには“アイスラテ”じゃないのもいいだろ」

 タカオはキョウコの隣に腰掛けながら、自分の分のボトルを開ける。ミルクと砂糖多めの、甘いホットコーヒー。少しだけ尻をずらし、キョウコと肩を並べるように座る。

「あたし、実は基礎体温ってそんなに高くないんだよね」

「それも知ってる」

「それに、今、すごいドキドキしてる」

「?」

「まだちゃんと慣れてるワケでもないのに……あんな路面の悪い道を、しかもアンタを後ろに乗せて走るなんて、すごく緊張したから。こんなに。今になって手が震えてる」

 バイクグローブの下には細くて白い少女の手があり、それは本人の言う通り小さくかすかに震えていた。キョウコはその手でボトルの蓋を開け、ゆっくりとホットコーヒーを啜る。

 取得してからまだ半年も経っていない新米ライダーにとって、難易度の高い道だったのは確かだ。いつでも引き返すことはできた。それでも“行くところまで行ってみた”のは彼女なりの意地だったのか、あるいはミアのことを考えながらだったのか。

「ゴールが分からないのにただ走るのって、けっこう辛いよ」

「でも走り抜けただろ」

「ゴールがあって、安心しちゃった、のかもね」


―――


 ミアが消えたのは今年の春前。キョウコが免許を取ったのはそれからすぐ後。タカオとキョウコが付き合い始めたのもそれからすぐ後。あらゆる物事は繋がっていないようでいて、実は緩やかに繋がっている。


「なんか結局、ミアのことを話題にしながらただツーリングしただけって感じ」

「中間試験も間近だってのにな」

「あたし、ちゃんと勉強してるよ。進路調査票にも進学って書いたし」

「そうか」

「……タカオは何て書いたの」

「おれも“とりあえず”進学」

「あんまり真面目に考えてないんだ」

「先のことなんて分からないし」


 ダム湖の周囲には山が近くに見えた。十一月の寒さで山肌は中途半端に紅葉し、赤、黄、茶と複雑なマーブル模様を描いている。それらは傾きはじめた午後の太陽に照らされ、ダム湖と青空とのコントラストも相まって美しく彩度を上げている。今さきほどまで二人が走っていた旧道も、山の木々に囲まれて見えることはない。

 車の走る音も喧噪も、鳥の鳴き声さえない、静寂の山中。


「一つ、ハッキリ聞いておいていい?」

「いいよ」

「あたし達が付き合ったのって、五月からでしょ」

「そうだな」

「で、タカオ。一年の頃はミアのことが好きだったでしょ」

「否定はしないよ」

 今さら嘘をついたところで、タカオに得られるものなど何もない。

「でも今は今だ」

 そう聞かれたというのであれば、彼もまた“ハッキリ”答えておく。  


「おれも一つ聞いておいていいか」

「いいよ」

「まだ、この町を出たいと思ってるのか?」

「思ってるよ」

 彼女もまた“ハッキリ”答えた。

「ミアみたいに一人で山に入って勝手に消えたりはしないよ。そんなやり方はしない。そうしようと思ってた時期もあったけど……あたしはあたしなりに残り一年をちゃんとやって、正しい“やり方”で出て行く」


 タカオは湖面を見つめていた。

 キョウコは山の向こうを見つめていた。

 高校生活は永遠ではない。二人の関係も同じようにはいかないだろう。いつまでもこの町に閉じ込められているかのように思えて――実際のところ、彼らに残されたこの時間はそう多くない。


「……あたしが今日のことを話したとき“なんでわざわざこんなところに行こうとするんだ”って言わなかったよね」

「“言わなくてもいいこと”を言わないようにしよう、って意識してるからな」

「やっぱり思ってたんだ。蹴っていい?」

「今はやめろって! ライダーブーツでローキックはちょっとシャレにならない」


「うそだよ。うそ。……ありがとね」


―――


 そうして二人の旅は終わった。町に戻る頃には日も落ちかけていて、二人で暖かいファミリーレストランに入って遅い昼食をとり、タカオの住むマンションの前で解散した。

 時刻は五時過ぎ。高校生らしい、いたって健全な時間だ。


「また月曜日にね」


 いつものように別れを告げる。そしてまた日常が(そして中間試験も)はじまり、再びいつものように四人が集まり、いつものような日々が続いていく。


 四方を山に囲まれた、窮屈な町の、変わらない日常。

 永遠に続くものではない。そんなことは、誰でも知っている。


―――


「ねえ」

 自宅に帰るやいなや、タカオの母親が声をかけてきた。

「アンタの部屋、エアコンが壊れちゃって」

「マジかよ」

「ついでに電気も付かないのよ」

「この前に換えたばかりじゃなかった?」

 そうなのよね、と母親は首をかしげる。

「まあ、とりあえずお風呂にでも入ってきなさいな」


 タカオは荷物を置き、着替えを取りに自室に入る。

 入った瞬間、部屋には冷たい空気が満ちていた。試しにリモコンを押してみるが、やはり母親の言う通りまったく反応しない。修理は月曜日になるそうだ。

 部屋は夕暮れの薄闇で、暗いことは暗いがまったく見えないことはない。


 電気の付かない部屋は、自室であってもどこか不気味な空間に思える。これでは明日もゆっくりできないな、と辟易とした気分になりながら、手探りで着替えを取りに行く。


「おかえりなさい」


 ……窓際に、一人の少女がいた。


―――


 それが誰だか、タカオは知っていた。

 彼女のシルエットは薄闇の中でぼんやりと浮かび上がっているが、目をこらそうとすると消えてしまう。そして今度は自室のドアの前に移動している。


「キョウコちゃん、バイクに乗りはじめたなんて知りませんでした」

「おれだってびっくりしたよ」

「でも、私は“あの道”は通りませんでしたよ?」

「そうなのか」

「“私ならもっとうまくやる”。それは、タカちゃんが一番知ってることじゃないですか」


「……」

 背後から、くすくすと笑い声が聞こえる。タカオは再びゆっくりと振り向く。少女のシルエットは消え、今度は窓の縁に座るように移動した。


「お前、本当に“山に行った”のか?」

 タカオはそれまで彼女がいた玄関のドアを見つめながら、小声でそう言った。

「そういうことにしています。けれど、でも実際は――さあ、どうでしょう?」

 くすくす。くすくすくす。


 ミア、山で消えちゃったってさ。


 この町の人々なら、誰もが知っていること。


 だが。

 何故、それを知っている?

 何故、それが事実だと分かる?


「みんなが望んでるから、そうしただけですよ」

「そう思っているのはお前だけかもしれない」

「私はいつでもみんなの傍にいます」

「帰ってくる気もないのにか」

「みんなが望む限り」


 聞き慣れていた声と、聞き慣れない台詞。雑音混じりの囁きがタカオの耳元で響き、正体不明の頭痛を誘発させる。


「みんなが、ずっと、そうしている限り」


 再び彼女のシルエットはタカオの目の前に現れた。その姿は青白くぼんやりと光り、グリッチノイズがかかったように明滅している。


「タカちゃんは、出て行きたくなかったの? それとも私と一緒に消えてしまいたかった? 今はキョウコちゃんのことのほうが大事?」


 窮屈な町の、小さな大事件。突然消えてしまった一人の少女。

 それをきっかけに、タカオ達の日々は少しだけ変わった。


「おれは」

 くすくす。くすくすくす。くすくすくす。


―――


「私は、あなたたちのそばにいます。そして、あなたたちのてのとどかないところにいるんです」


 彼女は、誰だ?


―――


 ばちん、と音がして、タカオの部屋の電気が付く。

 電気だけではなく、エアコンも同時に復活した。エアコンはご丁寧なことに冷房(強)に切り替わっていて、ごう、と冷たい風を猛烈な勢いで発しはじめた。


 寒々しい自室の中で、タカオは一人そこに佇んでいる。


 誰にも言わず、誰と一緒でもなく、ただ一人、春の奥熊沢に消えた少女。誰もがそれを知っている。誰の心にも刻まれている。忘れようとして忘れてしまった者もいる。あるいは忘れたくても忘れられない者もいる。タカオ達四人は特にそうだ。ふとしたことで思い出し、常に記憶のどこかにいる。かつて彼らと一緒にいた少女。ある日、山で消えてしまった少女。ただ“それだけ”の、確かに不確かな事実だけがまるで呪いのようにこびりついている。


―――


「タカちゃん。こう思ってません?」

「……」

「こんな日々が、終わらずに、できればずっと続いていればいい、なんて」


―――


 十一月半ば。あの日から約半年。


 ミアは、未だ帰ってきていない。

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