ミア、山で消えちゃったってさ。(3)
水曜、木曜が過ぎて、金曜日の朝。
普段よりも早く家を出る息子がよほど珍しかったのだろう、玄関でタカオは母親に怪訝な顔をされた。
「そういえば中学の時は朝練でこれくらいの時間に出てたわね。……で、何なの。部活じゃないでしょ」
タカオは背中越しに母親に答える。
「ちょっと、学校行く前に駅前に寄りたくてさ」
「あら意外」
「何が」
「てっきり『何だっていいだろ』とか言って突っ返すのかと思ったのに」
「べつに。隠すようなことでもないし」
「私、息子の“反抗期”ってモノを体験してみたいのよ」
朝っぱらから何かほざいていた。
―――
『駅前のバクショの前で。八時に』
昨日の夜に送ったメッセージの通り、約束の時刻に合わせて向かう。十一月になって気温はどんどん下がり、朝は特に冷えるようになってきた。天気はいいがとにかく寒い。温かいコーヒーでも飲みながら行きたいところだ……と思ってから、そういえば自分はこれからそのコーヒーを買うのだと気付く。だいぶ寝ぼけているらしい。
駅前に着き、開店直後のバックショットコーヒーの前で、近くの手すりに腰かけていたキョウコと合流する。制服の上に羽織っているパーカーは昨日までのものよりも丈が長く厚手になっているが、相変わらずスカートから伸びる脚は素のままだ。彼女は手すりから腰を上げると、尻を軽くはたいてタカオの元に来る。
「おはよ」
「おはよう。寒いから中に入ろうぜ」
店内は空調で暖かく、コーヒーの香ばしい匂いに包まれていた。開店したばかりとはいえ、店内には既に何人かの客がいる。ほとんどがサラリーマンで、電車に乗る前にコーヒーで一服して駅に向かっていく。
少し前まで、山峰市は主要都市で働く家族のベッドタウンとして宣伝することもしていたという。だが隣町はともかく、都心までとなるとそれなりに時間がかかるせいで、結局大きな効果はなかった。らしい。
そう。駅に行って電車に乗ればこの町からは出られる。なにも閉鎖されているわけではない。大昔ならともかく、現代では行こうと思えば“物理的には”どこだって行ける。そして、キョウコは毎日それを目にしている。そうして彼女は駅ではなく、いつも通りに学校へと向かう。
「次の季節限定品は来週からだね」
「なんだありゃ。ストロベリー……クリーム……」
「メニュー見てキョロキョロすんの止めなよ。なんかバカみたい」
「おれは……ホットコーヒーでいいや。キョウコは?」
「ラテ」
「もっと高いの頼んでもいいよ」
「じゃあカフェモカ」
「違いが分からない。で、その……また、アイスで?」
「アイスで」
サラリーマン達に混じり、二人でカウンターに並ぶ。タカオは隣にいるキョウコに視線を向ける。見慣れている顔とはいえ、彼女は特にはしゃぐでもなく、いつも通りの佇まいだ。
本当にこれで良かったのか? とタカオは心の中で呻く。
―――
ことの始まりは昨日の夕方。補習を受けるキョウコと別れたタカオが、放課後にチヒロと会話していた時である。
「バクショのラテは何であんなに高いんだ」
日常会話がてらにタカオがボヤくと、チヒロは途端に変わった動物を見るような目を向けた。
「……アンタ、もしかして、昨日の朝は“公約通り”単にお金を払っただけ?」
「そうだけど」
チヒロはまた大きな溜息をついて、それからタカオを睨む。
「あのね。そこは『おれも朝に駅前のバクショ行って奢るから、一緒に選ぼうぜ』って気を利かせるのが正解なの」
そんなの分かるかよ、とタカオは天を仰ぐ。
「放課後は一緒に帰れないから、二人でいる時間も少なくなるわけでしょ。何のためにあの子があんな事を言い出したんだと思ってるの」
「カネがないからじゃなかったのかよ」
「いや本当……何でアンタみたいなのが彼氏やってられるんだろ」
そうして、チヒロに怒られたり呆れられたりした。
ともかく、アドバイス通りにタカオはその日の夜にキョウコにメッセージを送った。既読が付いただけで返信は無かったが、それでもキョウコは店の前でタカオを待っていた。相変わらずといえば相変わらず。だが――。
「来てくれて、ありがと」
店から出てテイクアウトのカフェモカを渡すと、キョウコは素直にそう言った。
「まあ、おれもこんな機会でもなきゃ入らないところだし」
妙にむず痒くなり、タカオはついそんな風に話を逸らす。何だか茶化してみたくもなったが、ここで彼女のローキックが飛んできたら、熱々のコーヒーで大惨事になりかねない。
「また来ようよ」
「次はストロベリー……なんとかでもいいんだぜ」
「きっと高いよ」
「いいよ別に」
タカオは手に持っていたカップに口を付ける。
「……あっっちい!」
プラスチックの蓋についた飲み口から出てきたコーヒーで舌を火傷しそうになる。
「飲みづらいな、これ!」
「歩きながら飲むからだよ」
よほどおかしかったのか、けらけらとキョウコが笑う。
今朝になって、タカオははじめて彼女の笑う顔を見た。普段あまり感情を表に出さないだけに、余計にその笑顔は新鮮に思える。
飲みづらいだけのカップの蓋を取り去り、冷ましながら口を付ける。味や風味など正直分かるわけもなかったが、この寒い空気に温かいコーヒーはありがたかった。
「……そういや、勉強はどうなんだよ」
「たぶん大丈夫」
キョウコが大丈夫という時は本当に大丈夫な場合が多い。元々飲み込みは早いタイプなのを、タカオはよく知っている。
「どうしたの?」
「いや」
ヤスヒトは教えるのが得意だからな、と言いかけて、止めた。
今日のことも“チヒロにアドバイスを受けたから”が理由なのも言わなかった。
チヒロもヤスヒトも気の知れた友人なのだから、何もいまさら互いに嫉妬やヤッカミの感情があるわけではない。ただ、この場では言わないでおいた。言わないほうがいいこともある。タカオもたまにはそれをわきまえる。
「なんかさ、こうして歩くのって新鮮かも」
「いつも一緒に学校行ってるだろ」
「この道を歩くのは毎朝一人だから」
駅前の通りは主要な銀行や飲み屋、チェーン店の牛丼屋などが密集するメインストリートで、この時間帯は出勤のクルマで渋滞している。タカオにとっては平日の朝にここを歩く機会はほぼない。二人で登校の途中となればなおさらだ。
大通りはそれなりに活気があって現代的に見える。だがここから一歩脇道に入れば風景が変わる。時代に取り残されたアーケード街や古い個人商店、個人宅が歪に軒を連ねており、シャッターの降りたままのところも多い。どちらがこの町の本質かと言われれば後者だろう。
開けた大通りの向こうには、その見通しを阻むように山が見えている。大通りを先に行っても、どこかで山にぶち当たる。それがこの町だ。
「ねえ」
「うん」
「今度、また朝のバクショに付き合ってよ。奢らなくてもいいからさ」
ずずず、とアイスラテを飲みながら、キョウコは小さく呟くように言った。
―――
そして週末。土曜日。
朝、いつものようにタカオが住むマンションの前でキョウコと待ち合わせる。だが今日の目的は学校ではなく、キョウコの服装もいつもの制服にパーカー姿ではない。お互いに防寒対策を万全にした格好である。
「これ、お父さんのやつ」
そう言ってキョウコはフルフェイスのヘルメットをタカオに渡す。
「前にも被ったことあったし、いけるでしょ」
「大丈夫だと思うよ。おれの頭が前よりデカくなってなければ」
キョウコの前には、白に黒のロゴとラインが入ったカウルと大型のフロントフェンダーが特徴的な、細身のオートバイが停まっている。いわゆるモタードタイプで排気量は250cc。トレールモデルではなくストリート向けに舗装路メインのオンロードタイヤを履いてはいるものの、元がレースモデルを市販向けに仕立てただけに未舗装路も苦手ではなく、さらに搭載される単気筒エンジンは一般向けよりも軽量で高出力の……云々……と以前に聞かされたことがある。まあ、つまりはそういう“いいバイク”らしい。
キョウコもまた自前のフルフェイスを持っている。半ヘルやジェットタイプではないのは父親から譲られた時の条件で、彼女はそれをきちんと守っているらしい。
「乗るのは夏以来……だっけ」
あの時は『練習に付き合って欲しい』と言われて乗ったのだった。つまりタンデムは二回目である。
二人は今日、雁根岳の麓にある奥熊沢まで行く。
半年前、ミアが消えたというあの山に――キョウコの希望で。
何があるか、何かが見つけられるのかは分からない。少なくともタカオはそうだ。けれどキョウコが行きたいと言ったので一緒に行くことにした。一緒に行くかどうかは任せる――と彼女は言ったが、本心は違うだろう。最初は「考えておく」と返したが――実際のところ、ヤスヒト達に言われるまでもなく、答えなど元から決まっていたようなものだ。
あの山に行けば、何かが見つかる。
ミアが消えた、その理由が。
ただそれだけの、無策な行き先。
「行こっか」
キョウコは器用な体捌きでオートバイを押して転回させ、ひらりと身軽に跨がる。彼女の身長からすれば決して足つきの良い高さではなかったが、少し前にタカオが見た時よりも扱い方に慣れたようだ。それから手元のセルスイッチを押す。
オートバイが目覚め、とたたたたた、と単気筒の小気味よい音が住宅街に響く。彼女は手元や足元を確かめ、それからタカオを手招きする。
フルフェイスの中は、まだ少し埃っぽい匂いがする。
それは、彼女の父親がバイクと一緒に遺した形見の一つだった。
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