ミア、山で消えちゃったってさ。(2)
早くこの町から出たい …… Yes・No
県立山峰高校(通称:ヤマ高)でそんなアンケートを採ったら、およそ七~八割はYesと答えるだろう。中でも一重丸に飽き足らず二重にも三重にも丸を付けるのがキョウコである。だから彼女は毎朝駅前に行ってバクショのラテを買うし、帰り道以外ではあの古いアーケード街に行くこともない。
それでも彼女はまだ親元にいる子供だ。彼女だけではない。この高校にいる人間の大半は、離れたくても離れることができない。少なくとも、今はまだ。
けれどもミアは消えた。誰よりも先に、この町から。
―――
「進路調査票出してないの、お前だけだよ」
朝礼が終わった後、担任のクロサワがタカオに声をかけてきた。
「提出、来週じゃなかったでしたっけ」
「渡したプリント、見てねえだろ」
「家にあります」
「……明日の朝には必ず出せよ。でないと俺が主任に詰められちまう」
「教え子の進路よりも自分の立ち位置のほうが大事だと?」
「当たり前だろ。俺の役目はお前らをこの学校から追い出すことで、その後がどうなろうと知ったこっちゃねえ」
この男は本当に教師なのだろうか、とタカオは思う。もっともこの不遜な態度は“本性が晒せる生徒”に限って晒しているらしく、全体的な評価は高いと聞く。つまり本音と建て前の使い分けが上手い、というだけのことだ。
「何年も“センセイ”やってると、お前みたいな小賢しいヤツとたまに遭うんだ。自分の希望や手の内もほとんど明かさないし、徹底して面倒なことに巻き込まれたくないって雰囲気がマンマンの……まあ、そういうヤツを相手にしているほうが俺としては気が楽だが……それはそれとして、ちゃんと進路調査票は書いてこい。適当でもいいから出せよ」
他の生徒がどんな希望を出したのか、はタカオが深く考えずとも分かる。ほとんどが大学進学希望で、家業を継いだり、地元の会社に高卒として入ったりするのを選んだ人間はおよそ少数派。そしてこの町には大学はない。つまり“この町から出る”ことになる。それが一時的なものであれ、行ったきりのものであれ。
大学進学。タカオも“とりあえず”そう書くだろう。理由は“皆がそうしている”から。だが、タカオにとってそれは「早くこの町から出たい」という希望とイコールではない。キョウコをはじめ他の人間はそう思っているのかもしれないが、タカオはそうではない。出たいのか出たくないのか、大学を卒業して戻るつもりなのか戻らないのか、それは遠い未来へ先延ばししている選択肢に過ぎない。
もし「早くこの町から出たい」というアンケートがあったとしたら、タカオは今のところ“どちらでもない”に丸を付けるだろう。
それでも、いつかは選ばなければならない時が来る。
あと一年と少しで、この高校生活も終わる。
―――
「大学進学。決まってるだろ」
ヤスヒトはさも当然といった感じで答えた。
「ウチは、まあ……その、ねえ?」
チヒロは言葉を濁した。他の三人もそれ以上の追求はしないでおいた。
「……」
キョウコには誰も問わなかった。答えなど言わなくても分かるからだ。
「でもなあ。大学にしたって短大にしたって、受験勉強がいるわけだぜ」
学生服のポケットから取り出したクロスで眼鏡を拭きながらヤスヒトが言う。“勉強”という言葉に反応し、ただでさえ元から機嫌の悪そうな顔をしたキョウコがこれ以上ないほどの仏頂面になった。その表情はどこか皺くちゃになった猫を思わせる。
「とりあえず目の前の中間試験を乗り切ろうぜ。なんか分からんとこあったら僕が教えてやるからよ。週末でもいいし」
今度は“週末”という言葉に反応して、それまで黙っていたキョウコが口を開く。
「それなんだけどさ」
キョウコは昨日の帰り道にタカオへ語ったことを復唱する。友人に隠し事はしない。そのことを一番よく分かっているのは彼女だ。家の事情も、タカオと付き合うことになった時も、これまで全て明かしてきた。だから今回もそうした。
「今週末じゃなくてもよくない? と言いたいトコだけど」
チヒロはわざとらしく腕を組んで言う。
「まあ気にはなるわな。実際、僕だってそうだ」
「だからおれも『中間試験の勉強はどうするんだよ』とは言わなかったよ」
「今言ってるじゃねえか」
「言ってるね。で、どうするの?」
「どうするって。あたしは行くよ」
「いやいや違う違う。キョウコのことじゃなくて」
「タカちゃんだよ。お前お前。お前はどうするのかって聞いてんだ」
キョウコの代わりに、今度はタカオが押し黙る。二、三日中に答える、というタカオの“先延ばし”は、ヤスヒトとチヒロには通じなかったようだ。
―――
そして決まったこと。
一つ目。タカオはキョウコと一緒に今週末に奥熊沢へ行くこと。
二つ目。キョウコの成績はギリギリなので、週末までは放課後に試験前の補習。勉強はヤスヒトが見ること。
三つ目。タカオはキョウコへの“ご褒美”としてバクショのラテ代を奢ること。
「――結局こうなるんじゃないかと思ってたよ、ウチは」
その日の放課後、チヒロが言った。残された二人……チヒロと帰路を共にするのも、タカオにとってはずいぶん久々に思える。
「わざわざ行ってどうなるのか、って言いたかったけどさ」
「そこは言わないで正解。アンタにしては珍しく気が利いてる」
「そりゃどうも」
「ウチだってわけもなくミアの家に行こうと思ったわけだし」
「今からでも行ってみるか?」
「やめとく。ウチはちゃんと“前言撤回”って言ったし。それに今のアンタはキョウコのカレでしょ。つーか……そういうところが良くないんだよ。昔からだけど」
タカオとチヒロ、そしてミアは小学校の頃の同級生である。そしてヤスヒトとキョウコも小学校の頃の同級生である。中学に入ってタカオとヤスヒトとミアが出逢い、同様にキョウコとチヒロが出逢った。市内にある学校はそれぞれ二つか三つほどしかないため、狭い町の同級生はおよそ幼馴染みの関係にあることが多い。“五人”もそうだった。
「言わなくてもいいことを言うクセ、マジで昔から直ってないんだ。言ったほうがいいことは言わないのにさ」
「今さら矯正しようがないんだよ」
チヒロはまたわざとらしげに溜め息をついた。
「子供の頃、ウチを“デカ女”ってはじめに言ったのもアンタだったよね」
「そうだっけか」
「忘れたとは言わせないかんね。まあ今さら謝らなくたっていいけど」
しらばっくれたわけではない。タカオ本人は本当に忘れていた。なお、小学生にしては発育の良いチヒロをして“デカ女”とはじめに言ったのもタカオなら、それがきっかけでしばらくイジメに遭うようになったチヒロを庇い続けていたのもタカオである。これも本人はまったく忘れている。
「今もデカいけどな」
「それだよ、それ。また“言わなくてもいいこと”を言った。ミアだけじゃなくてキョウコに愛想尽かされても、ウチは絶対にフォローしないからそのつもりで」
なんでこんなのに好意を持つヤツが何人もいるんだろ、とチヒロは呻く。もちろん、その言葉はタカオに届くことはない。
「……ミア、どこへ行ったんだろうな」
思い出話を続けるのが何となく居たたまれなくなり、タカオは話題を変える。とはいえ――彼女もまた幼馴染みグループの一人。元はミアも含めて五人だった。今は四人しかいない。どうしたところで、結局こうなる。
「それを確かめに出掛けるんでしょ」
「もし見つけたらどうする?」
「何も聞かないでいいから、まずウチらの元に連れてきてよ」
「久々に“五人”で揃いたいと」
「うん」
―――
分かれ道でチヒロと別れ、自宅のマンション前まで戻る。
カギを差し、部屋番号を押して玄関の自動ドアを開ける。
年季の入ったエレベータがタカオを飲み込み、低い音を立てて上昇する。
三船家の住戸は四階にある。そこからは四方を山に囲まれた山峰市が一望できる。十一月半ば。時刻は午後五時半。薄闇に覆われた黒紫の空の下。うっすらと雪の積もった雁根岳。奥熊沢の山並み。山の向こうは県境。
吹き付ける晩秋の風を身体を震わせ、玄関を開けて中に入る。
中に入ると、母親が夕食の支度をしていた。
「あんたの部屋、暖房付けておいたからね」
自室に入って灯りを付ける。この町は夏は暑く、冬は寒い。十二月になる前からどの家でも暖房が動きはじめるほどだ。暖かな部屋。暖かな風呂。暖かな食事。家に帰れば穏やかに過ごすことができる。タカオはそれに何の不満もない。当たり前の日常すぎて、それがどんなに幸せなことかを忘れてしまう。
それを捨ててまで、ミアはあの山に向かって、そして消えた。
制服を脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込む。
特に何もしていないはずなのに疲れがきて、全身の力が抜けはじめた。
タカオは仰向けのまま目を閉じる。とりとめのない思考が頭を駆け巡っていく。
ミア。そう、あいつだ。
――どうして“山に行って消えた”と断言できるのか。
――噂はどこから来たのか。
――本当に彼女は山に行ったのか。
――本当に彼女はこの町から出ようとしていたのか。
何故おれ達はそれが分かる?
疑問が頭の隅に浮かび、思い返せない夢のように霧散していく。そうして消えかけた意識を取り返すかのように、握りしめていたスマートフォンが震えた。
『いま終わった』
キョウコからのメッセージは絵文字も顔文字もなく、いつものように簡潔で素っ気なかった。
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