ミア、未だ帰らず

黒周ダイスケ

ミア、山で消えちゃったってさ。(1)

「ミア、山で消えちゃったってさ」

 そう噂が立って、今日で半年になった。


―――


 当初はこの小さな町の誰もが騒ぐほどの大事件だったが、今はもう話題にする人間も少なくなった。本当に忘れ去られているのか、あるいはあえて避けようとしているのか。おそらく後者だろう。そして――忘れたかったこと、なかったことにしたいものが本当に忘れられてしまう――それもまたよくある話だ。


 平和な町。人の温もりがある町。助け合いの町。中途半端な田舎町をオブラートに包んだ上で装飾すればそういう言い方になる。もちろん実体は違う。事件が起きれば根も葉もない噂が一瞬で広まり、それはノイズとなって人々の間をいつまでも掻き回す。まるで「平和な町に事件などあってはならない」とばかりに。

 それでも彼らは簡単に町を離れることはできない。離れようとも考えない。あるいは離れたくても離れられない。だから皆この町に――山峰市に住み続けている。


 もしかしたら、ミアはそんな環境から――この四方を山に囲まれた狭苦しいところから逃げ出したかったのだろうか。


 本当のことは誰にも分からない。


 まだ半年。もう半年。今日に限って、そんなことを思い出す。


―――


 三船孝夫……タカオは“外”から来た人間である。

 といっても本人にその記憶はない。両親と共にこの町に来たのは二歳か三歳で、物心ついた頃には山峰市の住人だった。そして十数年が経った今もまだ、三船一家はまだ外様の扱いである。別に村八分にされ続けているという意味でも差別を受けているわけでもない。ご近所付き合いも町内会もきっちりやっている。それでも諸々の端々にはまだ“外から来たもの”として扱われている――のだと、両親がたまにボヤくのを聞いている。

「キョウちゃん、もう来てるわよ。はいお弁当」

 ゴミ出しから戻ってきた母親が声をかける。タカオは弁当を受け取り、手早く身支度を整え、部屋から出て行く。


 玄関を開ければ目の前には展望が広がる。タカオの住む四階からは山峰市の東側を一望することができる。駅前には最近出来たばかりの(周りとは不釣り合いなほど洒落た)駅ビルがどんと立っているが、その他は背の低い建物や古いアーケード街ばかりだ。駅前から少し離れて熊沢川を渡れば、後は古い住宅地が延々と続く。それら何の特徴もない辺境地方都市の四方をまるごと山で囲った風景……それが山峰市の全て。

 そして北に見えるのは雁根岳――ミアが足を踏み入れ、消えたとされる山である。十一月も半ばになって、山頂付近はうっすらと雪が積もっていた。


 いつもの景色を一瞥し、エレベータに乗って一階まで降りる。このマンションはタカオとほぼ同い年。小さい頃は他のアパートと比べれば近代的な造りだと囃されていたが、最近はそう言われることもほぼ無くなった。


「おはよ」

「おはよう」

 タカオが出てきたことを確認するなり、キョウコは手元のアイスラテをわざとらしげにずぞぞぞぞと飲む。

「これはアイスラテじゃない。今日のは――期間限定の、キャラメルアンドミルクなんとか……忘れた。それの、ダブルオーサイズ」

「また並んだの?」

「今回のはそうでもなかった。前回のパンプキンチョコレート……なんとかフラッペほどじゃない」

「ああ、あの“並んだ割に大して美味くない”って言ってたやつ。で、それは?」

「フツー」

 キョウコの手元にあるカップには鹿とシェルの絵――バックショットコーヒーのマークが書かれている。この地方都市にようやくできた外資系コーヒーチェーンのショップということで、半年ほど経った今でも山峰市の住人にはかなり人気がある(それまでこの町には昭和臭くて煙草臭い喫茶店くらいしかなかったのだ)。それ以降、彼女は毎朝わざわざ学校に行く前に駅ビルの一階に行って“バクショのラテ”を買っている。それからタカオのマンションの前まで寄るのは、本人曰く「ついで」なのだという。

「毎度思うけど、さすがにもう季節的にアイスラテは厳しくないか」

「大丈夫。基礎体温高いから」

 制服の上にパーカーこそ羽織っているものの、キョウコはこの寒い中でもスカートの裾を短くしている。これも本人曰く「意地」なのだという。そうなるともう基礎体温云々の話ではないとは思うのだが。

 キョウコはパーカーのポケットからスマホを取り出して時間を確認する。このまま一直線に向かえば始業時間にはちょうどよく間に合う。

「あのなあ。これでも、おれは心配してるんだよ」

「何をよ」

「志村響子」

「……」

「の脚」

 歩き出そうとしたキョウコの脚が止まり、タカオのもとに近寄ってくる。短いスカートからのぞくのは、元陸上部であるキョウコのがっしりと鍛えられた脚。

 そこから繰り出された鋭く重いローキックがタカオの左脛に直撃する。

「いってぇ! 朝からそれかよ!」

「何を言うかと思ったら!」

「本当に心配してるんだ。もうちょっと長くしろ、もしくは何か履け。腹を冷やす」

「うるさい」


 言わないほうがいいこともあると、タカオはたびたび他人からそう指摘される。


 そうして、いつもの一日が始まっていく。


―――


 例え家が余所者扱いされていようと、彼らにとっては何の関係もない。だからタカオは学校が好きだ。学校に集う仲間達のことが好きだ。誰も出身地のことなど気にしない。三船孝夫という一人の高校生としてそこにいることができる。


 いつもの一日。午前中の授業が終わり、昼休み。

 タカオは自分の教室である2―Aを出て、三階のフリースペースへ向かう。

 いつもの場所、いつもの席に、いつものメンツ。


「なあタカちゃん……お前が今日、今どうしてそんなシブいツラしてるか、何のこと考えてるのか、僕が当ててやろうか」

 揃うなり、自家製焼きそばパンをかじりながらヤスヒトが言った。

「当ててみろよ」

 他から見てよほど“シブいツラ”をしていたのか、残りの二人もタカオのことをじっと見た。タカオの視線は、そのうちの一人であるキョウコと合う。

「ミアのことだろ」

 隣に座っているキョウコがほんの少しだけ口を尖らせたように思えたのは、タカオの自意識過剰だろうか。それでも――彼女自慢のローキックが本日二回目の着弾とならなかったのは――ここにいる四人全員が似たようなことを考えていたから、という理由に因る。

「当たり」

「そこで『違う、ずっとキョウコのことを考えていた!』とか宣言しないからヘタレなんじゃないの」

「おれだって、たまには違うことを考える」

 予想を上回る返事をされたのか、失言を誘発させようとしていたチヒロが面白くなさそうな顔をした。クリームコロネを掴んでいたキョウコの指にほんの少し力がこもり、中のクリームがこぼれ出そうになる。

「まあ、でも」

「うん」

「考えるタイミングは一緒なんだよなあ」

「そうだね」

「毎度いつものことだけど」


 もう半年。まだ半年。今日が特別な日というわけでもない。ミアが消えてから“だいたい半年”というだけの、ただありふれた一日だ。他の人間だって完全に忘れているわけではない(それこそ“忘れようとしている”のではと思うくらいには)のだけれど――それでも四人だけは、何故かよく彼女のことを“揃って”思い出すことがある。


「最近、ミアの家には行ったの」

「いんや。僕が前に行ったのは夏前か。ミアが消えたのは一年最後の春休みくらいだから――そうだな。それっきり」

「ウチはさ、二学期が始まったらひょっこりと帰ってくるんじゃないかとか思ってたのよ。あの子、何をしでかすか分からないところあったからさ」

「おれだってそうだよ。でもそうはならなかった」

 チヒロが長い脚を組みかえ、弁当の玉子焼きをつつく。

 今でこそ日常会話に交えて話をしているが、失踪してからすぐは敢えて口に出すのも憚られるくらいだった。こうして会話が出来るのも半年という時が経った結果だ。


「ウチらで久々に家に行ってみる?」

「気にはなるけど……やめとこうぜ」

「だね。言い出しておいてゴメン、提案撤回。試験も近いし」

「これ以上キョウコの赤点増やすのもヤバいしな」


―――


 いつもの一日がはじまり、あっという間に終わる。

 過ぎ去った一日は二度と戻ってこない。若い日は一日一日が大事なんだよ、なんて言われても、実感もなければ自覚などしようもない。いつもの日々とはそういうもので、だからこそ、誰かが、何かが欠けた時になって、それが大事だったとはじめて思うようになる。


「朝のことを根に持ってる、ってわけじゃないんだろ」

「持ってるよ。半分は」

「マジかよ」

「もう半分は、ミアのこと考えてた」

「だよなあ」

 いつもの帰り道、二人は古いアーケード街を並んで歩く。昼頃から明らかに口数が少なくなっていたので、さすがにタカオも心配になっていた。これはヤスヒトとチヒロもそうだったようで、帰りがけに「ちゃんと構ってやれ」などと釘を刺された。お節介といえばお節介で、恋人の義務といえば義務。

 八百屋から漂う魚臭さ、クレープ屋から漂う甘ったるい香り、居酒屋から漂う焼き鳥の匂い……横を過ぎるなり、それらが順番にタカオ達の鼻をついていく。

 今どきここで買い物を楽しもうという人間はほとんどが地元の大人達で、少なくともタカオ達の世代には存在しない。駅前に場違いなセンスの駅ビルが立って以降、ただでさえ古いアーケードの店並びはさらに古さを増していっている。だから十代、二十代の人間はほとんど駅前に行く。キョウコもまたその一人である。


「今度の土曜日、奥熊沢に行こうと思ってる」

「バイクで?」

「雪が降る前に」

 なんだってそんなところに――と言いかけて、タカオはその理由に行き当たる。

「ただのツーリング、ってわけじゃなさそうだ」

「でなきゃ曇りの日になんていかない。週末、気温が一桁行くかもだっていうし」

「基礎体温が高いんじゃなかったのかよ」

「あたしはちょっと真面目な話をしてる」

「ごめん」


 しばらく二人の会話が止まる。アーケード街を抜け、横断歩道を渡り、そしてまたアーケード街へ。昭和のまま時が止まった街。道行く古い大人達。彼らはもう、どこにも行こうとしない。そんな人間を、キョウコは疎ましく思っている。


「おれ達四人で?」

「チヒロとヤスヒトに話はするよ。内緒とか独断にしたいわけじゃないから。でも一緒には行かないと思う」

「アシもないしな」

 いちおう路線バスは出ているが、それも途中までだ。

「後ろに一人なら乗せられるけど」

「……」

「……」

 無理にとは言わない。一緒に来て欲しいと言っているわけでもない。タカオの選択に任せたい。キョウコは語らずの口でそんな風に言っていた。


「考えておく。二、三日中に答える」

「わかった」


 ところで中間試験の勉強は大丈夫なのか? と続けようとしたが、タカオは口に出すのを止めておく。言わないほうがいいこともある、という指摘を、今日の彼は守ることにしたからだ。

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