4-9
「あなたぁーー!!」
不意に響いてきた女性の声で長い夜が明けたことを知る。
僕はショックで全く眠れていなかったが、ひろしくんは眠っているため真っ暗な視界の中で音声だけが僕に届いている。
「あなたっ! あなた来て!」
それは金属同士が擦れあうような耳を塞ぎたくなる叫び声。
ただ事ではないことは確実だ。
「なんだ、朝っぱらから……今日は休みだぞ」
「真琴が、真琴が息してないのっ!」
(!!!!!!)
「なんだって!? 見せてみろ」
(え……)
「……吐いた物が喉に詰まってる。窒息したんだ。
お前、なにか変な物食べさせただろう!」
「違うわよ! 昨日は寛ちゃんが一緒に食事するって……うぅ、ううう……」
「昨日は確かエビフライだったな。いきなり慣れない消化の悪い物食べたから夜中に吐いたんだ」
「ううっ……あぁあああ~~~!!」
「いいか」
「あぁあ~~~……」
「いいか! このことは寛には絶対言うな、いいな」
「うぅ、うぅ……」
「いいなっ!!」
「俺はこれから先生のところへ行って頭を下げてくる」
「……それで、ぐす、どうするの……?」
「……なかったことにして頂くんだよ。
先生ならちょっと戸籍を触るくらい……きっとできるだろう」
「そ、そん、な……そんなことっ……」
「いいな、寛は一人っ子だ、双子の妹はいない、わかったな?」
「いやよ、そんな……」
「お前だってもう悩まなくてもいいんだ。
これからは真琴の分も寛に愛情を注いでいこう、な?」
「うう、ううう……」
僕は呆然自失になりながら、暗闇に響くふたりの会話を聞いていた。
体中から力が抜けて思考も回らない。
まことちゃんが、死んだ……。
それもひろしくんと仲良く食べたエビフライが原因で。
(あの時の仲睦まじい光景は、二度と……)
『ママ……?』
いきなり強い光が目に飛び込んできて我に返った。
そこで、強く自我を保たないと僕とひろしくんの境界が曖昧になって帰れなくなると言われたことを思い出す。
いけない、僕がこんなんじゃ。
体は動かないが気分だけ両頬を平手でたたく。
『まーちゃんどうしたの……?』
起きたばかりで何もわからないひろしくんが居間の戸を開けた。 が、その瞬間──
「寛ちゃんっ! ダメよ!」
女性が立ちはだかり扉を閉めてしまう。
『ママ? どうしたの……? あけて』
「今は開けられないの、おとなしく寝てなさい」
『まーちゃんは? ねえ──』
「言うこと聞きなさい!!」
今まで聞いたことのないような大声で食い気味に遮られ、ひろしくんはしゅんとしょぼくれた。
「いい? ママが開けてもいいよって言うまでここは絶対開けちゃダメ。わかった?」
その言葉にひろしくんは返事をしなかった。
──
居間の扉が開放されたのは、それから二時間程経った頃だろうか。
『ねえ、まーちゃんは?』
はだしの足音をぺたぺたとさせながらひろしくんはまことちゃんのいるはずの納戸に近づこうとする。
「真琴はね、いないの」
『いるよ』
それを自分の体を割り込ませて遮る女性の苦し紛れの言葉に、ひろしくんは純真な心でまっすぐ回答する。
「今朝早くにね、施設に預けることにしたのよ。だから……」
『いるよ。まーちゃん、ここにいるよ』
「いないのよっ! いい加減にしなさい!」
女性のヒステリックな声にひろしくんは一瞬ビクッとたじろぐが、それでも諦めようとはしなかった。
(ひろしくんだって怖いのに、いつもきみは自分のことよりまことちゃんのことを心配するんだね……)
納戸の方を目を凝らしてみると、扉に目張りがしてある。
ということは、まだそこに『いる』ということか。
どこかに遺棄しないのは微かにも愛情が残っているのか、それとも証拠を手放すことを恐れてか。
いずれにしても、この事実はこの家族を深い闇の鎖で縛り続けることになるのだろう。
──
そして次の日、また次の日とひろしくんはまことちゃんに会えない日が続いた。
女性がいくらここにはもういないと言っても、彼はかたくなに『ここにいる』と言って聞こうとはしない。
それは血の繋がりから存在を認識できるのか、ただの願望なのかはわからないけど、僕にはひろしくんは確信を持って言っているように感じていた。
『まーちゃん、まーちゃん……』
(ひろしくん……)
ひろしくんは日を追うごとに元気をなくしていった。
時々中空に視線を漂わせ、うわごとのようにまことちゃんのことを呼ぶばかり。
ところがある日、急におかしな行動をとりはじめた。
『まーちゃん、そこにいるの……?』
それはある日の幼稚園の帰り、バスの中で突然そんなことをつぶやいたと思えば隣の座席に座っている子の上に馬乗りになったのだ。
『へいきだよ。すぐだしてあげるから』
そこまで言ったところで引率の保育士に取り押さえられたが、ひろしくんは『あそこにまーちゃんがいる』の一点張りで全く会話にならなかった。
この時は僕も普通にひろしくんはストレスでおかしくなってしまったものだと思い込んでいた。
ひろしくんは体調不良ということで幼稚園を数日休むことになり、その間は次第にまことちゃんの話も減っていった。
それで両親ももう大丈夫だろうということになり、復園することが決まる。
──そして、『あの日』は唐突にやってきた。
その日は朝から運動会の練習で園児はみな疲れていた。
お昼を食べた後はいつもなら元気よく跳ねまわっている子も全員今日は静かにお昼寝している。
『まーちゃん?』
ちょうど見守る保育士が席を外したときだった。
ひろしくんは不意に起き上がると、自分の近くで寝ている園児の上に覆いかぶさる。
(待って! ひろしくんやめるんだ!)
僕が何を叫ぼうとも彼の耳には届かない。
だけど叫ばずにはいられなかった。
(ひろしくん! やめろ!)
『まーちゃん、ここにいるの?』
ひろしくんは園児の服のボタンを引きちぎって露わになった胸部を何度も擦っている。
(だめだ……やめてくれ……!)
やがて部屋をうろつきはさみを見つけたひろしくんは、再びその園児の上へ乗る。
『まーちゃん、まっててね。いまだしてあげる』
(やめろおーーー!!)
──赤、赤、真っ赤……。
視界が血の色に染まり、塩と鉄の混ざった匂いがする。
(ああ、そんな……こんなことって……)
『まーちゃん、どこ……? こっちかな……?』
ここから先は絶望と悲しみと無力感と、もうなにがなにやら意識も感情もぐちゃぐちゃで……。
(……僕は……」
「あ、湊徒! よかったな、生きてるゾ」
うっすら開いた視界にはこちらを覗き込むメイさんの姿が。
「あいた! いたたた腰が痛い」
体を起こすと僕は床に寝ていた。
すぐ隣のソファーではひろしくんが眠っている。
「あんまり目醒まさないからマジで融合しちゃったかと心配したヨ」
メイさんはその言葉とは正反対の表情と声のトーンで僕の頭をポンポンと叩く。
「そうは見えませんけど。
せめて下に何か敷いてくれたってバチは当たりませんよ」
立ち上がろうと手を動かすと、僕の手を握っていたのは理子さんではなくメイさんだった。
「こんな長丁場になるのは想定外ヨ。
だから湊徒死なないように、こうして精力あげてた。感謝するネ」
精力ってちょっとエッチだな。
「はいはいどうも──ん? 僕どれくらい寝てたんですか?」
周囲を見渡しても、夜から昼になった程度しか経ってい無さそうだけど。
「だいたい二日ネ」
「あーでもそんなもんですか」
「ナニ言ってる、三日も潜ったら人間なら確実に精神が消滅するヨ」
「え、マジすか」
僕は起き上がってソファに寝ているひろしくんの様子を窺う。
「ひろしくんはまだ目醒めないんですね」
「彼もじき目を醒ますと思いますよ」
「あ、理子さん」
その言葉と同時に理子さんが部屋へ入ってきた。
手にブリーフケースを下げており、どこかへ行ってきたようだ。
「そのひよオスから先に目醒めたら、それは湊徒が失敗して帰れなくなった合図ネ」
ということは、これで良かったということか。
「──あ」
安心したのかお腹が鳴った。
と同時に猛烈な空腹が襲い掛かる。
「なんだか腹ペコです、安心したんですかね」
「二日間飲まず食わずだったからですよ。
彼も目覚めたらトーストでも焼いてきてあげますよ」
「理子さんの手料理」
「バカ!」
僕がからかうようにそう言うと、理子さんは部屋から出て行ってしまった。
「……あれ?」
あまりに予想の範疇を外れたリアクションを取られてしまい、なんだか調子が狂う。
「実はめっちゃ湊徒のこと心配してたとか。
オマエラ脈あんじゃネ?」
「まさか」
ニヤニヤしながら僕をからかうメイさんに背を向けた。
今どんな顔をしているか分からなかったからだ。
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