第32話 出禁の男 8

 ──ん、……ちゃん……──


 暗闇のなか、聞いたことのない声が響いてくる……。


「寛ちゃ~ん?」


 女性の声だ。声が次第に鮮明に聞こえてくるようになると、今度は徐々に視界から黒い霧が晴れていく。


『ママー』


 これはひろしくんの声だ。

 でもなんか違うな、反響してくぐもった感じだ。


「そこにいたのね♪ 今夜は寛ちゃんの大好きなエビフライよ~♪」


 ここはどこなのか、辺りを見渡そうにも自分で視界は動かせない。

 でもなんとかその女性を確認しようと目を凝らしてみるが──


(!!?)


 瞬間、恐怖で息を飲んだ。

 女性の顔が黒いマジックで雑に塗り潰されたように真っ黒だったのだ。

 しかもご丁寧に細かくぐしゅぐしゅ動いている。


(な、なんだこれ……?)


 すると視界が勝手に前に進んでいく。

 まるで一人称視点の動画を見ているような感覚だった。


 視界はやがてその女性にぴったりとくっついたが、彼女のおへその位置くらいまでしか見えておらず、目の位置が低いことに気付いた。


「さ、お座りしましょうね~」


 その声と同時に視界がふわりと浮き上がり、エビフライの置かれた食卓の前で落ち着いた。


『わあ、えびふらい~』


 そうかこの声……ようやく理解した。


 僕はひろしくんの中にいて、彼と同じ景色を見ている。

 本当にひろしくんの夢の中にいるんだ。


『ねえ、まーちゃんは?』


(まーちゃん!? ひろしくんの言ってた子だ)


真琴まことは後でちゃんと食べるから、寛ちゃんは気にしなくていいのよ」


(まこと……それが名前か)


 しかし今の女性の誤魔化し方には違和感があった。

 なにか変だ。


『やだ、まーちゃんといっしょがいい』


 視界が左右に動く。

 ひろしくんが左右に首を振っているためだ。


『まーちゃんといっしょじゃなきゃ食べない』


「あのね寛ちゃん、寛ちゃんには真琴の分までおおきくなってほしいの。

ママの言うことわかる?」


 今の言葉はさっきまでの猫なで声と違ってトーンが一段階下がっており、真剣さが伝わってくる。

 それにしても、ひろしくんのまことって子に対する気に掛けかたは少し過剰な気もする。

 もしかして病気で体が弱いとかだろうか。


 そんな僕の呑気な推測は、この後目にする現実に打ち砕かれることになる。


「はあ、仕方ないわね……わかったわ」


 再び視界が左右に揺れると、女性が食卓を離れていく。

 ひろしくんの目がそれを追う。


 女性は間取りの最も奥まった場所へ向かうと、その先の扉の前に立ち止まった。


(なんだ……?)


 そして重い金属音がして、何かが床に落ちる。


(大きな南京錠だ……)


 扉は引き戸だった。

 おそらく納戸のような部屋なんだろう。


「ほら、出なさい」


 女性が乱暴に戸を開ける。


 そして中から出てきたのは、ひろしくんによく似ている女の子。しかしその風貌に目を疑った。


 何日も洗濯していないような汚れてボロボロの服。

 下半身は紙おむつだけ。

 足は棒切れように細く、ひろしくんに比べてかなり背が低い。

 髪も手足の爪も伸びっぱなし。


(嘘、だろ……ネグレクトだ)


 弱々しい足取りでこちらに向かってくる少女は、それでも精一杯笑顔を浮かべていた。


『まーちゃん、いっしょに食べよ』


「……ちゃん……よ」


 そして覚えていない言葉を必死に喋ろうと口をパクパクさせている。

 この子は喋ることすらまともに教わっていないのか。


 僕は今、指一本動かせないことが酷くもどかしかった。

 自由に動けたらきっと大暴れしている。


 ひろしくんとまことちゃんは並んで椅子に座ると一人分のエビフライをふたりで分ける。

 ひろしくんは自分が使うフォークをまことちゃんに手渡すが、まことちゃんは手掴みで必死に頬張った。


「きったない子……」


(ぐッ!!! くっ、ふざっけんなよ……!!)


 ぼそりと聞こえた酷く冷たい声に怒りが込み上げる。

 体は無いのに喉の奥が灼けるように熱くて、今にも胃酸が逆流して来るような嗚咽を繰り返す。


『いいよ。ぼくがふいてあげるね。

食べおわったらブロックしてあそぼ』


 しかしひろしくんは彼女の態度には目もくれず、楽しそうにまことちゃんと接している。


「ひろしちゃん、もうおしまいにしましょ、ね……?」


 黒塗りの顔がこちらを覗き込んだ。

 表情はわからないが困っていることは分かる。

 このふたりが仲良くすることがそんなに気に入らないのか。


『だめ! まーちゃんとあそぶ』


 そしてどうやらこの母親らしき女性は、ひろしくんには強く言えないらしい。

 どうにかふたりを引き離したがっているみたいだが、ひろしくんがそれを許さない。


「はあ……だから嫌なのよ、帰ったら絶対叱ってもらうんだから……」


 やがて根負けしたのか、女性は溜め息をついてなにかぶつぶつと文句を言いながら向こうへ行ってしまった。

 ひろしくんと彼女の仲も決して良好とは言えず、かなり歪で複雑な家庭環境だということがこの短時間で判明した。


 僕は何ひとつ出来ないことに唇を噛みしめるだけだ。

 怒りで吐き気が治まらない。


 そのあともひろしくんは献身的ともいえる程まことちゃんの世話を焼く。

 両者には絶対的な信頼関係があり、その間には誰であろうと割り込むことはかなわない絆の強さを感じた。


 食事が終わるとふたりはリビングへ行き、いっしょにブロックや積み木で遊んだ。

 しかしまことちゃんは何回やっても組み立てることが理解できず、ひろしくんの作ったものをただただ壊すだけだ。

 それでもひろしくんはとても楽しそうにまた積み直すのだ。


 ふたりだけの穏やかで楽しい時が流れていた。

 ようやく僕のメンタルも安定したかに見えたが、その時間も唐突に終わりを告げる。


「寛っ! 真琴と遊ぶなと言ったろう!」


『パパ!』


 乱暴にドアが開け放たれ、女性と同じように顔が黒塗りの男性がずかずかとこの穏やかな空間に踏み入ってきた。

 そしてパパと呼ばれたその男がまことちゃんの腕を掴んで無理やり立たせる。


「さあ来なさい真琴!」


「やあ、やあ~~~!」


『パパやめて、まーちゃんいやがってる、パパ、パパ!』


 視界が激しく揺れた。

 なにも見えないが事態は分かる。帰宅した父親らしき人物によって再びまことちゃんが連れ去られようとしている。

 そしてその行く先はきっとあの納戸だ。


「寛、お前はパパの後を継いで立派な政治家になるんだ。

真琴のことは忘れなさい」


『やだ! まーちゃんといる!』


 必死に抵抗するひろしくんであったが大人にかなう筈もなく、簡単にまことちゃんと引き離されてしまった。


『まーちゃん……ぐす……ぐすっ……』


(ひろしくん……くそっ、くそっ! こんなの拷問だよ!)


 ベッドでひろしくんがすすり泣く声の向こうで大人たちの声が聞こえる。


「ねえ、真琴のことそろそろ真剣に考えない?

私、もう嫌よ」


「考えるってどうするんだ、どこかに預けるのか?」


「だって、ご近所に黙っておくのももう限界よ」


「預けるのだって金がかかるんだぞ」


「育てるのだってお金かかるわよ!

だいたい学校はどうするの、養護学校なんて近くにないわよ!」


「産んだのはお前だろう! 俺に当たるなよ!」


「私だって双子だなんて知らなかったわよ!

分かった時にはもう堕ろせなかったし……それにあなただって跡取りがふたりできるって喜んでたじゃないの!」


「片方は女で障害持ちなんていらないんだよ!」


(なんて話……してんだよ……。

やめろよ、ひろしくんに聞こえるじゃないか……)


 悲しい。ただただ悲しかった。

 こんな家庭、僕は許容できない。


『まーちゃん……まーちゃん……』


 やがて言い争っていた両親もそれぞれの部屋へ行ってしまったが、ひろしくんのすすり泣く声は一晩中聞こえていた。


 これはひろしくんの夢だけど、胸の奥底に眠る記憶でもある。

 彼は小さな体でこの地獄のような現実を生きていた。

 人を手にかけてしまったことは償い切れない罪だけど、僕はこの先どんなことが待っていようとひろしくんの味方でいようと思った。



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