1章:勇者になりたい少年
1-1
──この日の夜は月が明るかった。
剣道場からは荒々しい息遣いが聞こえる。
「いち、にっ……、いち、にっ……!」
そこには電灯も点けず月明かりを背に一心不乱に竹刀を振り続ける少年の姿があった。
しかし月明かりが顔に反射する程の発汗に対して、その素振りは風を切ることもなく弱々しい。
「い゛っ……つ……!!」
突然の呻き声と共に、竹刀が床を打つ音。
他に誰もいない木造の広い空間は、寂しく残響を残した。
「……ちくしょう……!」
少年はその場で膝をついて涙ぐむ。
その唇は悔しさで歪み、震えていた。
■□■□
「ふう、ようやくひと段落した……」
綺麗に拭かれた窓から差し込む朝日が、床のタイルに反射する。
僕は袖口で額を拭いながら、掃除の成果を満足げに振り返っていた。
まさかここまで社屋が汚いとは全くの予想外で、廊下と窓だけで予定時間を軽く超えてしまった。
おかげで初めは扱い辛く言うことを聞かなかったこのモップも、今ではすっかり共に汚れを落とした戦友の如く手に馴染んでいる。
僕がこの有限会社エクソダスに来てから、初めての夜が明けた。
昨日は終始驚かされっぱなしで心身ともに余程疲れていたのか、仮にあてがわれた部屋のベッドでぐっすり眠ってしまった。
それで朝早くに目が醒めてしまったので、こうして社屋の掃除をしている、という訳だ。
結局雇ってもらったとは言え、今の僕には雑用くらいしかできることがないのが現状だ。
それでも働きながら父さんを行方を捜すという目標もできたし、何よりこの目で異世界転生を何度も見られるなんて貴重過ぎる経験ができるのだから、それくらいなんてことはない。
「おはよう湊徒君、ずいぶん早起きなんだね」
「あ、社長。おはようございます。たまたま早起きしちゃったんで、社内を憶えるついでに掃除でもと思いまして」
強敵を共に倒した戦友を片付けるため投下を歩いていると、反対側から狂咲、もとい狂咲社長が歩いてきた。
もう上司だからね、モノローグとは言え呼び方には気を付けないと。
開襟シャツの襟をドキッとするほど大きく開けて颯爽と歩く姿は、早朝と言えど相変わらず一分の隙もない。
「うむ、君は実に働き者で素晴らしい! 社屋が清潔だと、より朝の空気が清々しく感じられるよ。ふむ──というか、廊下ってこんな色だったんだね」
社長はいつものオーバーアクション気味に両手を広げて僕を称賛してくれると、今度は一転顎に手をやりながら色調が一段階明るくなった床を興味深そうに眺めている。
「ありがとうございます……え、はあ……そうですね」
めちゃめちゃ汚れてたんで、とはさすがに言いにくく、愛想笑いで誤魔化した。
社長も僕の表情から本音を察したのか、すこしバツが悪そうに鼻筋を擦る。
「私も理子君もこういうのはどうも苦手みたいでね……。ついつい不精にしてしまいがちなんだ。だから湊徒君が来てくれて本当に助かったよ」
それでも不精で片付くレベルの汚れ方じゃなかった気がしますよ。
とは言え、いつも身なりは完璧な社長にもこんな一面があることに、僕は素直に親近感を覚えた。
それに、別段綺麗好きでもない僕がこれだけ掃除で感謝されるのは、頼られている気がして気持ちが良かった。
「そういえば今まで掃除以外の家事はどうしてたんですか? 洗濯とか、あとキッチンもあるみたいですし」
すると社長は不敵に微笑んで指をパチンと鳴らす。
「……あっ!?」
すると社長を淡い光が包み、それが晴れると服装が変わっていた。
あの時──三崎さんを送り出した際に来ていた純白のスーツだ。
そして次々と社長がポーズをとる度に、その服装は変化していく。
「すごい……!」
信じ難い光景を何度か見た後でも、こういった地味に魔法っぽい現象を目の当たりにすると思わず感嘆が漏れてしまう。
あまりスケールが大きくない方が、自分が今まで生きてきた中で培ってきた常識の外の出来事なのだと実感が持てるのかもしれない。
「この外見は魔力によって作り出しているものでね。身に纏うものもその範疇なのさ」
「まさか社長、実体はドラゴンだったりするんですか!? ──あっ!」
失礼なことを聞いてしまったと思い、慌てて言葉を飲み込む。
好奇心丸出し過ぎて恥ずかしい態度を取ってしまった。
「ふ、構わないよ。ドラゴンではないが、少なくとも湊徒君たちのような人間ではないな。
ご期待に沿えないのは残念だが、外見だけなら今の姿とあまり変わらない」
社長は今、ドラゴンではないにせよ人間ではないとさらりと言った。
まだ出会って一日の僕にそこまで話してくれるなんて、随分と信用してくれているのか、それとも……。
「料理に関しても、基本私たちは体内に蓄積された魔力をエネルギー源としているから、この世界の食物を摂取せずとも生きられるんだよ」
「へえ、すごいですね!」
「それでも嗜好品として、お酒や料理を楽しむことはある。特に豊潤なワインやブランデーはお気に入りさ」
社長はその香りを思い出すかのように目を閉じ天を仰ぐ。
確かに、静かに洋酒を傾ける姿が良く似合いそうだ。
「じゃあ、たまにはする感じなんですか?」
僕はそう言いながらフライパンを振るジェスチャーをする。
「さっきも言ったように、私たちはそういうのまるでダメでね。
ここのキッチンは、湊徒君の前任者がお菓子作りで使っていただけなんだ」
お菓子作りが趣味の前任者がいたのか……どんな人だったんだろう。
社長が人間でないなら理子さんやその前任者とやらも、ひょっとしたら人間ではないかもしれない。
(ぐぅ~……)
「あ……」
お菓子と聞いたせいか、お腹が大きめに催促をしてきた。
僕はここに来てから今までなにも口にしていなかったことを思い出した。
「でも僕はただの人間ですから、食べないと死んじゃいますね///」
口に出したら余計にお腹が減ってきた……目の前がぐっとズームアウトしていく。
「しまった、私としたことが湊徒君の食事のことをすっかり失念していたよ。申し訳ない、この近くだと……」
慌てて社長がスマホを取り出して飲食店を調べようとするが、それを僕が慌てて制した。
これから毎日のことだし変に気を遣わせたくない。
「ああいえ、せっかくキッチンがあるんで、何か適当に作ります。──そうだ、たまにでいいんで一緒に食事しませんか? 毎日僕ひとり飯というのも寂しいので」
「それも悪くはないが、湊徒君は料理が得意なのかい?」
そう聞かれて当然の話の流れだが、僕は俯く。
「いえ、実は……。でも覚えます」
家族といた時は専ら漁師飯だったし、ひとり暮らしではインスタント食品の毎日でとても人に振る舞える腕前はなかった。
作ると言った手前、みっともない話ではあるが。
「無理をしなくてもいいよ。湊徒君を預かったのは私の判断だから最低限の責任はある。……しかし食事、か……これは喫緊の課題だな」
廊下で黙りこくる両者。
そこへ、早朝にはあまり合わないローテンションの声が響いた。
「うーばーみーつで、いいんじゃなぁ~い?」
「あ、おはようございます」
声の主は理子……さん。
昨日見た胸の開いたシャツではなく水玉模様のパジャマを着ていて、その大きなバストが彼女の胸元を垂直に持ち上げていた。
また長い髪をおさげに結んでいるのも、印象が違って見える。
「理子君……身だしなみに気を付けたまえ。これからは湊徒君もいるんだよ」
それを見て眉間を押さえる社長。
この構図も、もうお馴染みになってしまったな。
社長と理子さんもこの社屋で暮らしている。
自室などのパーソナルスペースは完全プライベート扱いで、僕が掃除などで立ち入ることは許されていない。
「失礼、おトイレ行く途中だったもので」
理子さんは踵を返すとぱたぱたとモコモコスリッパの音を立てる。
しかし数歩歩くとこちらに振り返り言った。
「どのみち料理するにも、うちには食材がありませんから買い出しは必要ですよ。あ、おしっこ漏れちゃう~」
言うだけ言うと理子さんは小走りに去って行った。
それを何か言いたげに見送る社長。
あのふたりはずっとこうしてきたのだろうか。
「買い出しか……近くにスーパーとかあるのかな。社長、そもそもこの会社、相当な山奥ですよね。昨日バスを降りてから相当歩きましたから」
昨日の道中を思い返すと、あの道を食材担いで往復するのはかなりのハイカロリーだ。
とても毎日、いや週に一回でもしんどい。
「うむ……それはね、本来は降りてすぐなんだ」
来るときはあんなに歩いたのに……これも結界による空間のねじれ的なもののせい?
そんな顔をしていた僕に社長は続ける。
「うちの最寄りは、湊徒君が降りた停留所のふたつ先でね。そこからなら……すぐだよ」
「…………。あー、なるほど……」
じゃあ理子さんはあの時、わざわざ僕を迎えに来てあそこで待っていてくれたってことで、諸々手筈が良かったのも偶然ではなくて。
僕は理子さんにからかわれたのだという現実を理解した。
「じゃあ、買い出しもそんなに大変じゃないですね、は、はは……」
泣きそう。
気まずさと恥ずかしさを紛らわそうと、愛想笑いで頭をかく。
そこへ今度は昨日と同じ服装に着替えた、この場合着替えたという表現が合っているかはわからないが、とにかく身なりを整えた犯人理子がやってきた。
「ところで買い出しに出るなら、湊徒は『こふぃ~ちゃん』が運転できるから、荷台もあるしバス乗るよりも便利ですよ」
『こふぃ~ちゃん』とは、この会社にある中古の軽トラのことで、依頼者を異世界へ運ぶ『ポーター』と呼ばれる一種の転送装置のような役割があるのだ。
理子さんの軽いノリに彼女への怒りも吹き飛んでしまった。
彼らにとってきっと僕はペットの延長みたいなものなのだろう。
「そんな仕事に関わる超重要アイテムで買い出しに行ってもいいんですか?」
「うむ、使う時までに戻ってくるなら問題ないだろう。そうだ、せっかく運転できるのなら私の出張送迎も頼もうかな。これで私も念願だった運転手付きだ」
「見た目はただの軽トラだからって、そんな雑に扱っちゃっていいのかなあ」
「まあ、せっかくエクソダス・コフィンを運転できる従業員が入ったんだ、活用しない手はあるまい。あ、保険は無加入だから、くれぐれも気を付けてくれ」
「全然ダメじゃないですか!」
■□■□
「それじゃ行ってきますね」
社長からキーを預かると、中庭から軽トラを入り口まで運ぶ。
免許取得時は正直迷ったけど、マニュアルを選んだ僕は偉い。
一旦車を降りて、わざわざ見送りに来てくれた社長と理子さんに挨拶を交わす。
「私も久しぶりにワインが飲みたいね」
「領収書の宛名は社長、但し書きは『餌代』でお願いしますね」
「社長、社長のワインまで餌とか言ってますよ」
理子さんを指さして反撃すると、彼女は空を見ながら口笛を吹く。
なんて古典的な誤魔化し方だろう。
そんな理子さんを尻目に運転席に乗り込むと、ドアを閉めた。
スマホで近隣のなるべく大きなスーパーを検索し、見つけるとナビ代わりにダッシュボードに立てかけた。
あったら車用のスマホホルダーも買っておこう。
「よし、出発──わああっ!?」
アクセルを踏んで軽トラが入り口の門に差し掛かったその時、飛び出してきた人影に気が付き慌てて急停車させる。
「だ、大丈夫ですか!?」
窓から身を乗り出して人影の安否を確認した。
危うく追加で異世界転生者を出してしまうところだった。
「おや、こんな朝から新規のお客様かい?」
様子を見に来た社長が訪問者に声をかけた。
僕も車を降りて確認すると、訪ねてきたのは学生服を着た十歳前後の小柄な男の子だ。
「あのっ……! ここって、異世界に連れてってくれるとこで合ってますか?」
少年は社長に駆け寄ると、喰いつきそうな勢いでそう叫んだ。
彼の必死の形相から察するに、冷やかしの類ではなさそうだ。
「如何にも。株式会社エクソダスへようこそ。小さなお客様」
それに対し社長は普段どおりの優雅な立ち回りで対応する。
どんな状況でも姿勢を崩さないところはさすがプロ。
「俺、薮田一真って言います。中1です。俺を……勇者に転生させてください!」
「勇者!?」
一真と名乗る少年は、頭を下げ続けて社長の返答を待っている。
直角に腰を曲げてのお辞儀から、礼儀に厳しい家庭で育てられているのだろう。
転生を望むような感じにも見えない。
「ほう……勇者、ねえ……」
少年を見下ろす社長の目に暗い影が一瞬、落ちたように見えた。
見間違いだろうか。いや、間違いなくしていた。
「では、どうぞ中へ。理子君、ご案内して差し上げて。すまないが湊徒君も同席を頼むよ。買い出しはその後にしてくれ」
「あ、はい。畏まりました」
車を邪魔にならない場所へ止めると、一行を急いで追いかける。
その間もさっき垣間見せた社長のあの表情が気になっていた。
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