第3話
どごん、だか、ばがん、だか、大きな音が響いた。大岩を爆破したような大きな音は耳に耳鳴りを呼び、砂を含んだ風が顔に掛かる。
大きな音が響いたのにも関わらず痛みはやって来ず、思わず目を開いて顔を上げた。
金色の星が風に揺れてきらきらと流れていた。
「えっ?」
何度か瞬いてやっと、目の前に立っている後ろ姿が、イプシロンのものだと分かる。普段は後頭部で括られている金の髪が、ゴムがどこかに飛びでもしたのか、さらさらと流れていた。
「イプニイ」
状況がいまいち分からなくて、名前を呼ぶ。取り敢えずは助かったらしい事だけが明確だった。
「よお、生きてるな」
確かめるような声音に頷く。それまで忘れていた足の痛みが戻って来て、生きているのだと実感した。
生きている。ちゃんと痛い。母を一人にせずに済んだ。イプシロンにまた会えた。頭の中で生きている実感がぐるぐると回る。
「試すにしては随分と無粋なこった。俺がもう選んだと言うのに」
近づいて膝を折ったイプシロンが、眉を顰めて籠の中を見た。
私ははっとして、慌てて同じように籠の中を覗く。
「い、ない」
籠の中は空っぽだった。いや、敷かれていた布はあるし、何か指輪のようなリングは入っていたけれど、赤ん坊の姿が無い。
「赤ちゃんっ、どこ。イプニイ赤ちゃんがっ」
居ない、と口にしかけた言葉は、イプシロンの差し出された手に制されて止まる。
「大丈夫だ。元々赤ん坊なんかここには居ない」
「赤ちゃんが居ない?」
元々赤ん坊は存在しないのだと言われて、慌てた頭が混乱する。確かに赤ん坊は居たはずだ。籠には重さもあったし、抱え込んだ時は温かかった。あの温かさを失いたくなくて、私は走ったのだ。
イプシロンは混乱しているこちらとは対照的に、冷静に私の足の手当てをし始めた。中に破片を残さないよう真っ直ぐ瓦礫を抜いてから、何時から持っていたのかペットボトルに入った水で傷口を洗い流して、持っていた包帯で止血する。私がよく怪我をするからと彼が持ち歩いている包帯によって、血はあっという間に止まったようだった。
不思議と彼の処置は、手当の経緯がどうとか関係なく、いつも上出来で終わる。コツがあるのだと本人は言っていた。同時に、見たまんまの俺の真似はするなとも言われている。
「瓦礫が小さくて助かった。慌てて自分で引き抜かなくて偉かったな」
「痛かった」
「良く耐えた」
一息ついて、ようやく先ほどの疑問を改めて口にする。
「赤ちゃんが居ないってどう言う?」
「あれは、まあ試練みたいなものだ。赤ん坊は確かに居たが、それは赤ん坊じゃなかった。試練が赤ん坊の姿をとっていたと言っても良い。だから危ない目にあった赤ん坊はここには居ない」
赤ん坊は試練で、居たのに居なかった、なんて言われてもいまいち理解が出来ない。けれどもイプシロンは私に嘘を付くような人では無い。もし赤ん坊が怪我をしていたり投げ出されたりしていたら、誤魔化す事なく教えてくれるだろう。
「どう言う事かよく分かってないんだけど」
「分からなくても大丈夫だ。赤ん坊は居なかったとだけ分かっていれば良い。ただ、お前は試されたんだよ」
「試されたって誰に?」
首を傾げれば、イプシロンは人差し指で空を指した。指された方向を見上げれば、雲に覆われた空が見えた。が。
「あれ?」
今気づいたが、空に何かが浮かんでいる。いや、浮かんでいると言うより空を覆っているような感じだ。
桃色に近い赤色の光が点滅し、そこから線を引くようにして移動していくとまた光が点滅した。アニメか映画で見たバリアみたいな六角形の鱗が線と点滅で一部浮き上がると、また消えていく。それにバリアが浮かび上がった所には、何かが写っている。
「イプニイ、あれ何?」
「ああ、お前さんにはよく見えないか。ん、ほれ」
イプシロンは私が指す方向を見てから、何時も外さないサングラスをこちらに寄越した。
「え、掛けろって事?」
「俺にとっては見えなくするもんだが、お前さんが掛けたら見えるだろ」
目を瞑りながら差し出されたサングラスを受け取り、掛けてみる。焦茶色のサングラスは、それで空を見てみると、意外な程によく見えた。
「あれって街、えっ、それに人も居る」
サングラスを外して空を見ると、何か写っているのは分かるがやはりなんだかまでは分からない。もう一度サングラスを掛けると、空には街とそこに佇んで、青い顔でどこかを見つめる人達が写っていた。
亀裂の中心の方角から何かが崩れる音がすれば、空に映る人達が悲鳴を上げるように口を開けて手を口元へと持っていく。同時に、どこか遠くから悲鳴が聞こえた。もしかして、今までの悲鳴も空の上から聞こえていたのだろうか。
サングラスを返すと、開けたままになった口そのままに、イプシロンを見つめた。
イプシロンは早々にサングラスを掛けて、私の顎に指を持ってくると、押し上げて口を閉じさせる。
「あれがお前さんが普段いる場所だ」
「ん?」
分からずに首を捻る。あまり勉強が得意な方では無いので、出来るだけ難しい話は避けて頂きたい。
「今居るこっちは、あちらとは場所が異なる」
場所が違っている、と言う事は、多分ビルが崩れてくる前、眠る前まで居た場所はあちらなのだと思う。多分。だって普通に友達と会っていたし、連続した日常の一部だったはずなのだ。そう考えると、眠った後に場所が変わった事になる。逃げる時に人が見えなかったのも、そもそも人が居るのはあちらだからこちらには居ないのだと言われれば、あれほどまでに人が居なかった理由も分かる。
「こっちは別の世界って事で合ってる?」
「まあ簡単に言ってしまえばそうだ。ここは狭間でな、ここでしかあいつらは暴れられない。地球の環境はそれまで育まれてきた生命の味方だからな」
「へー」
のんびりと頷いてから、暴れるなんて言う物騒な言葉に気がつく。と言うか。
「え、あいつらって何?」
「ほら、ご登場だ」
イプシロンが親指でおざなりに後方を示す。そちらへと視線を動かせば二メートルは超えた大きな人間らしきものが立っていた。だが、人間では無い。いつから立っていたのか、ずっとそこに居たのかは分からない。
肌は墨汁を垂らしたように黒く、腕は指先へ目掛けて大きく太く、足先に付くほどの長さだった。腰から下、下半身も人間のものとは違い、獣の蹄のようだ。
「あなた様はそちらへ立つのですね」
大きく裂けて牙が見える口から、言葉が発せられる。目の白目部分は黒く、それなのに縁取る長いまつ毛が白く輝き、眼球が赤く恒星のように発光していた。
「そうだ」
「私はこちら側です」
「それで良い。それはお前達の役割だ。こちらはこちらで足掻く」
「人間の側に立たれるとは思いませんでした」
「俺は戦う者の、希望を持つものの味方だ」
「我々も戦っています」
「公平さが必要だと言う話だ。だからそちらの神も人間に最後の希望を与えた。滅ぼすのならそれに抗う者が居る。それにな、俺は人間が作る煙草も酒も気に入っている。ゲームもな」
私の前に出た金色の大きな背が、あいつらと呼ばれた者と対峙する。簡素な会話はすぐに終わった。
「イプニイ」
「大丈夫だ、お前さんの味方だよ」
振り向いて、サングラス越しの目を細められれば、すとんと言葉が心臓に落ちた。
「少し待ってろ。こっちにも準備がある。今までも待って見ていたのだから、待てるだろう?」
「はい」
イプシロンは相手に待ってるように言い付けて屈むと、籠に手を掛ける。
「ん、これはお前さんのだ」
差し出されたのは、籠の中に入っていた指輪だった。ミルクティー色と柔らかい金色の間の色をしたシンプルな指輪だ。
「私の?」
「お前さんには希望になってもらう」
唇が大きく弧を描く。指を取られて、中指へと当てがわれると、すっぽりと綺麗に嵌った。大きくも無く、小さくも無いそれと、目の前の笑顔を交互に見つめる。
「戦え」
たった一言、にんまりとそう言う。
「え゛」
「戦って貰う」
「なにゆえ」
「あいつらがあー、何だ? こちらを脅かす侵略者だから、お前さんが戦うって図式なわけ」
「なんでぇ?」
「お前さんが今日からこの星の戦士だ」
「嘘ぉ」
「本当」
出来るな、と伺うように首を傾げてそう問われる。形は伺ってはいるが否を許してくれそうにない。目がギラギラしていた。
「ニイは戦わないの?」
「俺はあいつらとは戦えない。気持ちの問題では無く物理的にだ」
「で、でも私、出来ないかもだし」
「お前を信じている」
近くなった笑顔にじっと見つめられれば、頷くしかなかった。だってこの顔に弱いのだ。それに人の希望になると言う約束だってしている。
「いきなりすぎる」
「人生はいきなりの連続だ」
「私戦った事がないよ」
「戦う意志さえあれば難しくないから安心しろ。いつもの人助けみたいに後先考えず頑張れば良い。後は俺がフォローする」
「う゛う。分かった。とにかく頑張る」
大きく溜息を吐いて空を見上げる。どうしてだか分からないが、戦士になってしまった。
今までの人助けとはまるで違う予感はしている。けれど、私が今ここに居合わせて、そうして今ここで助けが必要なのだと言う所は一緒だ。頑張らなきゃいけないのも一緒。それならば、いつもみたいに何も考えずやってみれば、案外どうにかなるだろうか。
どうなるか分からない怖さはあったけれど、約束を守るためには腹を決めると決めていた。
「よしっ、やる!」
踏ん切りをつけた瞬間、指に嵌めた指輪が光を放った。
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