第2話
月並みな言葉だけれど、平穏と言うものは崩れる時は一瞬なのだと、その時初めて分かったような気がする。
走れば走る程、足は激痛を発していた。足首に刺さった瓦礫の欠片は中でぐずぐずと痛み、止めきれなかった血が流れる感覚がする。寒気の気配と、意識を繋ぐような痛み、目の前の現実のあれこれに、いっその事気絶してしまいたいなんて思うけれど、気絶した途端に命が無くなる予感がした。
がらがらと派手な音を立てて右の建物の一部が崩壊した。空から大粒の瓦礫が降ってくるのを、頭を抱えて避ける。足を止めてしまえばそこで建物に押しつぶされてしまう。
吐く息が上がる。一瞬肺から嫌な音がして、上手く息が吸えずに噎せれば、自然と足は止まった。
止まってはいけない、走り続けなければ。そう思うのに、一歩が前に出ない。糸が切れた人形のように、足に力が入らない。
何処か遠くで悲鳴が聞こえた。また建物が崩れる音が響く。
今日の午前中まではただの日常、高校のほんの非日常の課外授業があっただけだった。学校から離れた場所で、生徒が集まって交流がてら勉強をする、そう言う課外授業だ。
正午には解散となった勉強会の僅かな同級生達と電車を乗り継ぎ、折角だから遊ぼうと誘われて、駅を飛び出したのは五時間前の事だ。
そろそろ帰ろうかと駅に向かう同級生達の中で、私だけが他に用事があるからと残ったのは、多分十七時半くらいだった。
携帯にはイプシロンからのメッセージが入っていた。丁度今いる街にいるから、一緒に帰るか、と言うメッセージには、後悔しないように友達と帰っても良い、と書かれていたけれど、私は一も二も無く頷いていた。
待ち合わせの時間までは四十五分はあった。待ち合わせ場所は駅ではなく街の南側、ビルが立ち並ぶ場所であったから、恐らく仕事か何かで来ているのだろうと、南側へと足を向ける。電車に乗って二駅超えても良かったけれど、時間もあるからと歩きで向かえば、人々が帰路を急ぐ姿とすれ違った。
そう言えば、今日は十八時から十九時くらいに雨が降り始めると天気予報で言っていた。どうやら大雨になるらしいと、母が玄関で言っていた言葉を思い出す。
鞄の中には折り畳み傘が入っているけれど、取り出すのは雨が降ってからで良いかと、空を見る。空には分厚い雲が寄せ集まり始めていた。
折角だから相合傘でも出来たら良いのに、と隣に並ぶ高い背を想う。あの高い身長と相合傘をする時は、何時も彼方が傘を持っていた。こちらが持ってしまうと、身体が収まらず濡れるのだ。けれど結局、イプシロンは、私が濡れないように傘を傾けるので、何時も右の肩が濡れていた。
待ち合わせ場所にはまだ誰も居なかった。時間は後十五分残っていた。
街に設置されたベンチに座って待っていれば、花の甘い匂いがして、急激に眠気がやって来た。疲れていた訳でもないし、寝不足だった訳でもなかったのに、まるで春の日の縁側にいるような急激な眠気に耐え切れず、瞼が落ちていく。
瞼が落ち切る前に見えたのは、赤色だった。
「うっ」
目が覚めた時、空からはまだ雨粒が落ちて来てはいなかった。時間にしてそんなに眠っていない筈だ。
どうしてか、身体はアスファルトの上に寝ていた。硬い地面の感触が頬から伝わり、首を傾げながら身体を起こす。
「なに……?」
何か爆発でもあったのか、もうもうと煙を上げる目の前の建物。先程見た時から、明らかに欠けているそれには、大きな亀裂が入っていた。鏡を拳で割ったようなその亀裂から、私が座る地面へと細かい瓦礫が落ちてくる。
辺りを見渡せば、大きなコンクリートや鉄骨が落ちていた。潰された花壇は見る影も無く、潰れた花と自分を重ね合わせれば、背筋に冷たい汗が伝った。
「いっ!」
急激な痛みにぼんやりとしていた目が覚める。先程まで香っていた花の香りが薄らいだ。
痛みは、足から伝わっていた。咄嗟に右足首を手で押さえる。ぬるりとした感触、小さく息を吐き出し覗いて見れば、そこには瓦礫の破片が刺さっていた。
こう言う時、抜いた方が良いのか、抜かない方が出血を抑えられるのか分からない。抜いて傷口を洗わなければ破傷風になってしまうかもしれなかったが、生憎と近くに水場が無い。それになにより、この場を離れなければ、何時再び大きな瓦礫が落ちて来るかも分からない。もしかしたらビルごと落ちて来る可能性だってあった。
イプシロンに会えたら、そう彼に会えれば、何かしらの処置を施して何とかしてくれるはずだと、懐からハンカチを取り出し、破片を固定する気持ちでぐるぐる巻きにする。ハンカチだけで血が止まるか心許なかったので、鞄からタオルも取り出して、さらに巻きつける。人を助けた際に簡単な応急手当てをした事もあったし、包帯の巻き方なんてのも教わったが、こう緊迫した空間になると思う程出来ないらしい。
そうだイプシロン。会えればと今考えていた人の姿を周囲に探す。このビルの崩落に巻き込まれてはいないだろうか。辺りに姿は見えない。この場にまだ来ていなかったら良いのだけど、と彼の無事を想う。
身体に力を入れて立ち上がろうとすれば、右足が酷く痛んだ。一瞬、呼吸の仕方が分からなくなって、ゆっくりと吐き出す。
左足を軸に何とか立ち上がれば、冷や汗が流れ落ちた。
「こっからどうしようかなっ」
語尾に力を入れて、何とか折った身体を真っ直ぐにした。立てはしたけれど、まるで歩く気力が湧かない。けれども、ここに居ては崩落に巻き込まれるだけだ。
「希望になるって事は、私が希望を持つってこった」
彼の人の口調を真似て、両手で頬を叩く。イプシロンが言っていた。希望になる者は希望を持て、と。ならば私も希望を持たなければならない。
胸に掛けられたペンダントと、ポケットに入った幼い頃から肌身離さず持っている御守りを、一度ぎゅうと握る。
「何とかなる。絶対に何とかなる」
短く二回、大きく一回、息を吐いて、前を向いた。
どうしてか近くに人の気配は無かった。それは瓦礫の下に埋もれてしまったのか、そもそも人が居ないのか分からない。
遠くの方では悲鳴が聞こえるが、かなり距離があるように思えた。それこそ駅の方からこの光景を見て何人もが悲鳴を上げている、そう言う遠くからの悲鳴のようだった。それに何だか音がくぐもっている。
足早に歩き出せば、上から瓦礫が落ちる音が間近に聞こえた。
早くここから離れなければ。そう思った瞬間、ぎいと大きな音がビルから聞こえた。
振り返って見てもビルに大きな変化は見られない。それでも嫌な音が続いている。
「まずいかも」
痛みが刺すのも構わずに、足に力を入れて地面を蹴る。何も考えずに右に左にと足を前に出せば、何とか走れた。
ビルはぎいぎいと軋んだ音を上げている。それが前からも右からも聞こえて、がばりと顔を上げた。
よく見れば、こちらのビルもあちらの建物も亀裂が走っていた。今まで前に居たビルが丁度中央なら、そこから罅が伝染していったように亀裂が走っている。
取り敢えずひたすら走らなければならないらしい。
地面を蹴り出せば、忽ちぴしりと亀裂の入る音がする。横目で見れば、先ほどよりも亀裂が深く入っていた。
瓦礫が落ちて割れた道路を、走って、走って、走り続ける。足の激痛に肺は嫌な呼吸音を上げ始めたが、見ない振りをして足を進めた。
一度止まった足は簡単には動いてくれない。肺は相変わらず嫌な呼吸を繰り返していた。
右の一部が崩落したビルは、再び重い瓦礫を落とそうと、ぎいぎい身体を震わせている。
今の所、大きな建物全体が崩落して来る事は避けられているが、それもいつまで持つか分からない。ビルの合間に建った小さい建物なんかは、ひしゃげて潰れていた。
息を整えて再び走り出せるのを待つ。気持ちは焦るが、二歩目が出ない以上また少しずつ動かしていくしかない。思ったよりも出血が多い足のタオルを縛り直したかったが、今屈めばそれこそ座り込んでしまうような気がした。
「はぁっ、はぁっ」
ここまで来るのに人に一人も会わなかった。建物に近づいて中の様子を見てみる事も考えたが、時間の余裕からも、身の安全からも程遠い行動だ。
人が一人も外に出ていない状況に違和感を覚えるが、遠くから悲鳴だけは聞こえるのだ。もしかしたら避難勧告が出て、皆逃げた後なのかも知れない。それはそれで違和感があったが、思考は上手く纏まらなかった。
やっと早いだけの呼吸になれば、それまで喧しかったきいんと言う耳鳴りも落ち着き始める。相変わらず寒気はするが、ぼやけていた視界が戻り、再びの一歩を踏み出せそうな気がした。
「よし」
亀裂の中央からはそれなりに離れたが、未だ亀裂が走る建物に囲まれている。距離を走ったつもりでも、手負の状態では思うように距離が伸ばせない。
せめてビルの群れからは離れようと、再び地面を蹴った。
その時不意に、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
驚いて顔を上げる。今まで、赤ん坊の鳴き声など聞こえていなかったのに、今ははっきり聞こえている。それとも今まで耳鳴りのせいで泣いていたのに聞こえていなかったのだろうか。
赤ん坊の泣き声はどこから聞こえて来るのかまで分かった。先程一部が崩落した右のビルの奥の方だ。きっとビルを挟んで向かい側にいるのだろう。
右のビルは、ぎいぎいと嫌な音を上げている。大きな瓦礫が落ちる時の音だ。もしかしたらビルそのものが崩落するかも知れない。
地面を蹴った足は、赤ん坊の方へと向かっていた。誰かと一緒にいるのか、何らかの事情で赤ん坊だけがいるのかは分からない。が、留まって泣いていると言う事は動けないのだ。誰かの助けがいる。
赤ん坊の大きな泣き声はそれだけで私の足を早めてくれた。痛みを自覚しながらも、それでも止まらないようにと赤ん坊が呼んでくれる。
出来るだけ落ちて来る瓦礫の下にならないように、それでいて最短距離で向かい側に行けるように、走った。
ビルを右手側にして進んでいけば、アスファルトの上に籠が置いてあるのが見えた。中に入った布の塊が蠢いている。布の隙間から小さな手が伸びて、天を必死に掴んでいた。
「居た!」
周囲に他の人間の姿は見えなかった。赤ん坊だけが奇妙に道路の上に置いて置かれている状態に、少しの奇妙さを感じながらも、考えている余裕は無い。
びゅうと甲高く音が鳴るほど大きな風が吹いた。その勢いのままに足が動く。
頭上、ビルの群れの中では大きい方ではないが、人間にとっては脅威となりうるビルから、何かが外れるような音がした。
同時に赤ん坊の元へと辿り着く。視界の上端に何か大きな物が映るのを見ながら、赤ん坊を籠ごと抱え上げて、足を動かした。
上から己を押し潰すほどの大きな物が落ちてきているのが分かった。きっと数秒にも満たない動作が酷く遅く感じられる。
赤ん坊の泣き声はいつの間にか止んでいた。腕の中のこの子だけでもと思うが、仮に上手く籠ごと放り投げて赤ん坊が無事に着地出来るにしても、瓦礫の外側までは距離がある。
母の顔が浮かんだ。朝、気をつけてね、と見送ってくれた笑顔。父が居ないから私まで居なくなれば母は一人ぼっちになってしまう。何より自分の健やかな安全を常に願ってくれている母を傷つけるのは嫌だった。
それに。それに彼に会いたい。もしもこのまま終わってしまうのならば、最期にあの大きな背中に会いたい。金色の星を見たい。
欲が出てくる。終わってしまうかも知れないと感じた時に、次から次へと欲が出て来る。母に色んなことをしてあげたかったし、死ぬのならばせめて好きだと伝えたかった。
瓦礫はもう私を押し潰そうとそこまで迫っている。
最後まで諦める気はなかった。何としても走り抜けようと足を動かしていた。けれども、上半身を屈めながら走ろうとした時、足がもうもたなかった。
がくんと言う衝撃と硬いアスファルトの感触。咄嗟に赤ん坊を庇うように抱きすくめる。
「あっ」
地面に倒れ伏した身体では、どうあっても間に合わない。下手をすれば起き上がっている最中に落ちて来るだろう。身体を半分起こし、せめてもと赤ん坊の上に覆い被されば、赤ん坊が笑った。
「お母さんっ、イプニイっ」
助けて欲しい。誰か助けて欲しい。衝撃に備えてか、それとも恐怖でか、目はいつの間にか固く閉じていた。
良くやった、と耳元でイプシロンの声がした。
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