つい、ゆずり

サカモト

つい、ゆずり

 十月末。

 その日の会社の帰り、わたしは近年稀にみるほど、くたくたな状態で電車に乗っていた。

 運がよいことに、電車内での座席は確保できた。座席はすべて人が埋まっている状態で、数人のみが車内に立っている。流れる車窓の向こうには、真っ赤な夕焼けがみていた。

 外貌からうかがい知るに、この電車へのっている人々の大半が仕事からの帰宅とみえる。車内は静寂だった。一日の業を成し終えた人々が、社会的な人格から、個人的な人格へと切り替える時間帯、と、そんな印象を受ける。かくゆう、わたしもそうだった。今日もまた、なんとか外界を生き延び、そして逃れた。精神を消費し、生きるために用意した偽りの人格を演じきった。しかし、代償として、心の消耗は激しかった。

 だから、帰りの電車で、座席が確保できた意味は大きい。腰にもいい。

 しかし、まもなく、電車はあの停車駅のホームへ滑り込むことになる。有名な、とある大規模遊園地の最寄り駅だった。平日でも大勢が来園し、朝、それから夕方から夜間にかけて、混む駅だった。

 車内は今日の人生をさまざまに疲弊した者たちを搭載していた。そこへ今日一日を遊戯に投じ、生命の祝祭にも似た時間を過ごした来園客たちが乗り込む。乖離した世界観の合流を果たすことになる。

 やがて、電車はブレーキをかけた。ホームへ車体をすべり込ませる。停止線で完璧に停車する。車窓の向こうには、すでに、それぞれの心の祭りを満喫した者たちが、うつくしい夕陽と、園内のシルエットを背後しつつ、喜びの疲れをその反面に浮かばせて立って待っている。扮装をしている者もいる。そして、その手には、思い出の具現化を果たす、ショッピングバックを持つ者も多い。そして、そのバックは、往々にして特大サイズであり、カラフルだった。そのあでやかな色は、陽の煌めきと融合し、目に染み入る光となることもある。

 この時間帯、いつも、ホームはそんな人々でいっぱいだった。しかし、今日は違った。ホームに人の数が少ない。

 その後、ドアはあくまで機械的に開かれた。わたしの近くのドアから、車内へ乗り込んできたのは、ひとりだけだった。

 女性だった。きっと、二十歳ほど。髪は短く、顔色が緑で、出血している。服の生地は真新しいのに、ぼろぼろだった。丁寧にやぶかれた印象がある。靴は、エナメルで、履きやすそうだった。

 ゾンビのメイクか。それと、扮装。

 そうか、今日は十月の末日。この時期、この大規模遊園地では、ゾンビの荷姿で、園内を歩き、なにかをするイベントがあるらしい。なにをするのかは、わたしは把握していない。

 いったことが、ないのだ。イベントはおろか、この大規模遊園地にさえも。

 ゾンビを模した彼女は、ひどく、ぐったりした感じで車内へ入って来る。足をひきずっていた。具合が悪そうにみえた。

 わたしは彼女が乗り込んだドアのすぐ近くに座っていた。そこで、席を立ち「あ、どうぞ」と、小さな声をかけつつ、席を譲る。

 彼女はゾンビの顔でこちらを見た。その間に、彼女の頭がただ揺れたのか、それが小さく会釈をしたのかは判断がつけられなかった。

 しかも、ゾンビメイクはカチカチに固まっているのか、表情の変化も読みとれない。いずれにしても、彼女はわたしのあけた席へ腰を下ろした。

 席を譲る。すべては反射的な行動だった。深い思想はない。席を譲り、わたしはドアのそばに立った。

 ドアが閉まり、走り出した電車の車内で、やがて、わたしは自動的に醜い考察を開始していた。

 しまった、彼女がゾンビメイクだったため、てっきり顔色が悪く、具合が悪い人だと思ってしまい、つい、席をゆずってしまった。

 そして、まて。かりに、そのぐったりが、本当にぐったりだとしても、今日一日、遊んだことによるぐったりではないか。

 いや。

 いやいやいや、いけない 、そんな方向で身勝手に、ねちねち想像してはいけない。

 そうだ、こうして同じ車両で、しかもすぐ近くにいるのがいけないんだ。わたしがいけないんだ、わたしがまちがっているのだ、狂っているのはわたしなんだ。

 さあ、隣の車両へ移ろう。見えない場所にゆけば、考えなくなるはず。移動しよう。わたしが向こうへ行こう。そう決めた。ところが、もたもた考えているうちに、電車が次の駅と着いた。ドアがひらく。人が雪崩のように車内へ入って来る。わたしは、人並みに流されて、車両の奥へ。

 一挙車両内は乗客でぎゅうぎゅうになる。すると、今度は、わたしは反対側のドアから入りこんできた人々で、押され、ゾンビの彼女の正面へ戻って来た。

 どうしよう。席を譲ったゾンビの目の前だった。いったいなにが、どうしようなのかという説明は難しい。とにかく、どうしよう、と思うポジショニングに至った。さっき、席を譲ったゾンビの正面に立っている。

 わたしの方は、周囲は人でぎゅうぎゅうで、つり革に捕まるのがせいいっぱいだった、スマートフォンも取りだそうと試みたが、スペースがない、これでは情報の世界へ、精神だけを逃すこともできない。

 そして、わたしは目撃した。いま、ゾンビはポシェットから自前のスマートフォンを取り出しかけものの、わたしの状態を見て、ゆっくりとしまった。ええっと、席を譲った側が、スマートフォンを使えないのに、やっぱ、わたしがスマートフォンをいじるとか、あれな感じになりますよね。

 いまゾンビに、空気を読まれた。

 そうか、このゾンビ。

 まだ人の心が、残っているのか。

 わたしは涙ぐんだ。

 きっと疲れと、調整のおかしくなった感情が配合されて生産された涙だった。おそらく、ながい休息が必要だった。

 こうして濃厚な疲労と、満員電車攻撃が、わたしのたいしたことのない精神を蝕んでゆく。孤独な戦いだった。

 眼前に座るゾンビの彼女は、その間、目を閉じ、眠ったふりを開始した。王道の作戦だった。わたしでもそうする。その姿は、健気にも見えた。

 やがて、電車がある駅に到着すると、ゾンビは慌てて目をあけた。立ち上がろうとした。しかし、車内はぎゅうぎゅうで、松葉づえの彼女が移動するスペースがない。わたしは見よう見真似のスクリーンアウトの動きで、周囲の乗客から少しでもゾンビの動けるスペースを確保した。耳元での舌打ちをされたが、汚れ役を引き受けた。ゾンビは、わたしを見ていた。わたしが、いいんだ、と、目で、うったえた、いいんだ、これでいいんだ。わたしにまわず、ゆけよ、と。

 ゾンビは、わたしの生産した乏しいスペースを進み、電車を降りてゆく。

「ア」

 その際、ゾンビが小さな声を放った。そして、続けた。

「リガ、トウ………」

 人のことばを。

 やはり、まだ、人の心が。

 ソンビが電車を降りて行く。ドアが閉まり、車窓の向こうには、世にゾンビが放たれた光景が完成する。

 君よ生きろ、と、わたしは願った。

 まあ、ゾンビは最初から死んでるけど。

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