第32話 女神カノン

 マザー聖堂。

 アリアは祭壇の前に立っていた。

 

「ここは……」


 慣れ親しんだ場所のはずなのに、様子が明らかに違っている。

 十歩ほど先がないのだ。白くて濃い霧に覆われ、まるで世界が消失しているかのようだった。ただただ純白な空間が外側に広がっている。

 

 この場所をアリアは知っていた。

 以前に一度だけ、誓願式の際に来たことがある。

 だから、これが夢なのだとすぐに気づけた。

 

「女神カノン! いらっしゃるのですかー!」

 と、アリアは呼んでみた。

 

 反応は背後からきた。

 

「ほいほーい、なにかな?」

 

 声に振り返ると、そこにはアリアとさほど見た目の年齢が変わらない、長い黒髪の少女が立っていた。

 少女が右手を顔の横に、左手を腰に当てる。

 

「どもっ! 慈愛と豊穣の女神、カノンちゃんでーす!」

「やっぱり女神カノンがここへ呼んだのですね」

「あ、バレた? っていうかカノンちゃんって呼んでよー」

 

 おどけたように笑うカノンを見て、アリアは額を押さえた。

 この白色に包まれたマザー聖堂は、女神カノンが支配する領域だ。彼女に招かれなければ来ることはできない。

 

「女神様を《ちゃん》なんて呼べないのです」

「相変わらずアリアちゃんは堅いなあ。でも、そういうトコも好きだゾ?」

「ここに来たということは、またわたしの心臓は止まっているのです?」

 

 へえ、とカノンが少し驚いた顔になる。

 

「アリアちゃんは前にここへ来たときのこと、覚えてるんだ?」

「あんなに衝撃的な出会い方をして忘れられるわけないのです」

「いやいや、大抵の人は忘れちゃうんだよ。ここは、そういうトコだからね」

「そういえば特別な場所だと言っていたのです。たしか、この場所と現実とでは時間の流れもちがうのですよね」

「そ。だから心臓とか呼吸が止まるって言っても少しの間だけだよ。心配ないない」

「だとしても、やっぱり良い気分はしないのです」

 

 以前、ソロにせがまれて聖女になった際の話をしたことがある。そのときに女神カノンと会った部分を詳しく語らなかったのは、これが原因だ。

 

 気さくというか。

 軽いというか。

 カノンはまったく女神様らしくない。

 

 それは中身だけでなく外見も同じだ。

 女神像のように穏やかな大人の女性という印象は微塵も感じられず、ただの陽気な女の子にしか見えない。

 言い伝えとの共通点は長い黒髪くらいだ。

 実際に聖痕を授かるまでは、彼女が女神カノンだと信じられなかったほどだ。

 

 溜息を漏らしそうになるのを寸前のところで堪えてアリアは質問した。

 

「それで、今回はどんなご用件なのです?」

「え? 用なんてないよ?」

「……はい? ない、のです?」

「ほら、前に来たときも言ったでしょ? ここはアタシしかいないから暇なんだよー。だからお話ししよ?」

「暇潰しでわたしを殺しかけないでほしいのです!」

「死なないから大丈夫だって。……たぶん」

 

 いい加減すぎる。

 誰だ、こんなのを神様にしたのは。

 

「なら他の人でもいいと思うのです。早くわたしを戻してくださいなのです」

「ヤだよ。もったいないじゃん」

「もったいないって……意味がわからないのです」

「ここへは、いつでも誰でも好きなように呼べるわけじゃないんだ。素質とかアタシとの相性があるからね。それにアリアちゃんは前に来たときの記憶まである。そんな子に会えたのは本当に久しぶりだよ! 実に百年ぶりくらい! やったね、アリアちゃん! キミは神に選ばれたんだよ!」

 

 神様に選ばれたと言われても、それで特別な力が使えるようになるわけでもない。何が《やったね》なのか意味不明だ。

 

 それでもアリアは不満を呑み込んだ。

 相手が女神様だったからというのもあるけれど、一番の理由はカノンが本当に嬉しそうだったからだ。こんなに喜んでいる女神様を邪険にしたら、それこそ罰が当たりそうだ。

 前回も無事に帰れたのだし、少しなら話し相手になっても問題はないだろう。

 

「わかりましたなのです。お話しするのですよ」

「そうこなくっちゃ!」

「女神カノンは、なにか話したいことはあるのです?」

 

 うーん、とカノンが唸る。

 

「話したいことっていきなり言われてもねー」

「ないのなら帰してほしいのです」

「あー! わかった! ある! あるから! ……そだ! アリアちゃんはずいぶん面白いことしてるよね!」

「わたしがおもしろいこと、なのですか?」

 

 心当たりがない。

 

「あれだよ、あれ!」カノンが身振り手振りを交える。「導きって言うんだっけ? 信者にひどいこと言ったり、蹴ったりするやつ!」

「あんなのは導きじゃないのですよ!」

 

 反射的にアリアが否定すると、

 

「え、ちがうの?」

 

 カノンが無垢な仕草で訊き返してくる。

 

「ちがうかと訊かれるとちがわなくはないのですけど……でもあれは、ほんとうの導きではないのです。導きはもっと、ちゃんと信者さんの悩みを解決するものなのですよ」

「ふーん。でも、アタシからしたらどっちも似たようなもんだけどね。アリアちゃんが言う《本当の導き》だって、元は誰かが勝手に始めたことなんだし」

「え、そうなのですか?」

「そうだよ。アタシがやれって言ったと思う?」

「それは……」

 

 考えたこともなかった。

 

「そもそも最初は聖女とか信者って区別さえなかったんだよ」

 

 まるで師匠が弟子に言って聞かせるようにカノンが語る。

 

「あったのは争いを憎む心と平和を願う祈りだけ。そのなかで、ここへ来れるくらい祈りが強い人に聖痕を与えてた。ただ、それだけだったんだ。でも、人っていうのは欲深くて忘れっぽいからね。平和が続くと祈りも忘れる。それをまずいって思った誰かが聖女と信者っていう仕組みを作ったんだよ」

「それからどうやって導きが出来たのです?」

「アタシも詳しくは知らない。気がついたらあった感じ? でも、きっと聖女を守るためだったんだろうね。人間社会では役に立たない存在は淘汰されていくでしょ? それを避けるための手段だったんだと思うよ」

 

 なるほどと感心しながらアリアは初めて知らされる歴史に驚いてもいた。

 カノン教では、どのようにカノン教が作られたかの歴史が明確には残されていない。だから今となっては当時の話を知るのは女神様だけだ。

 

「前にここへ来たときに『神様になりたくなかった』とおっしゃっていましたけど、あれはどういう意味なのです? 女神カノンは、どうして神様になったのです?」

「そのまんまの意味だよ。アタシは、はじめっから神様だったわけじゃない。アタシも元は、ただの人間だよ。それなのにちょっーとばかし活躍したからって死んだあとで勝手に祭り上げられちゃってさ。まったく、いい迷惑だよ」

「いやならやめればいいのです」

 

 率直な意見を口にしたアリアを、カノンがまじまじと見つめる。

 

「アリアちゃんがそれ言っちゃうんだー?」

「いけなかったのです?」

「普通、そこは必死になって引き止めるもんじゃない? 聖女なんだから」

「だって女神様がやりたくないならご利益もなさそうなのです」

 

 アリアが真顔で言うと、カノンは爆笑した。

 

「あははははっ! やっぱりアリアちゃんは面白いね! 大丈夫、今はいやいややってるわけじゃないからさ。それにアタシだってまだ消えたくはないしね」

「消える、とは……どういうことなのです?」

「神様ってのは、大勢の人の意識が集まって具現化したようなものなんだ。つまり、みんなの中から《女神カノン》って存在が消えたらアタシも消滅するの。だから面倒がって何もしなかったら忘れられて消えちゃうのよ。そういうわけだからアリアちゃんはアタシを忘れちゃダメだからね?」

 と、カノンがものすごく重要な事情をあっけらかんと打ち明ける。あまりにも軽い調子で話すものだから冗談なのではとすら思えたほどだ。

 

 あーっ、とカノンがアリアを指さす。

 

「その顔は信じてない顔だ!」

 

 さすがは女神様。目敏い。

 

「えっと……信じてないとかではないのです。突然のことにびっくりしていたのですよ」

「ふーん? ま、信じてくれなくてもいいけどね」

「信じるのですよ。女神カノンがわたしに嘘をつく理由はないのです。貴重なお話をお聞かせていただいてありがとうございますなのです」

 

 すると、カノンがまんざらでもない顔でにんまりする。

 

「そ? 喜んでもらえたならアタシも嬉しいよ。おっと、そろそろ帰してあげなきゃね。うっかり死なせちゃったら死神って呼ばれるようになっちゃいそうだし。あ、でも死神ってちょっとカッコイイかな? アリアちゃんはどう思う?」

「……死ぬ前に帰してくださいなのです」

「はいはい。じゃ、最後に神様らしいことでも言っておこうかな」

 

 カノンがわざとらしく咳払いをして、アリアの名前を呼ぶ。

 その声があまりにも神様然としていて、それまでとの落差に驚いたアリアは姿勢を正して返答した。

 

 聖女アリア、と再び名前を呼んでカノンが続ける。

 

「あなたは間違っていません。あなたの導きも、なにも間違ってはいないのです。だから誰もあなたを否定できない。あなたも、あなた自身を否定してはいけません。これまでにあななたは少なからず救ってきたのです。そして、その者たちはあなたにしか救えなかった。そのことを決して忘れないでください」

 

 一言ごとに周囲の白色が狭まってゆく。

 そうして白色にアリアの体と意識が完全に呑み込まれる直前、カノンの陽気な声が聞こえてきた。

 

「それじゃ、アリアちゃん。まったねー! また暇になったら呼ぶかもしれないから、そのときはよろしくねーっ!」

 

 そんな頻繁に呼ばれたら、そのうち本当に死ぬかもしれないからやめてほしい。

 そう訴えたかったけれど、声が出なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る