第23話 休導日
聖女の朝は早い。
まだ太陽が昇りきらない時間、かすかに空が白み始めたころに起床する。
今でこそアリアも体内時計が出来上がったおかげで自然と目覚められるようになったけれど、最初の三ヶ月間は寝坊してセレーナの手を煩わせたものだった。
まず起床後に行うのが《お清め》だ。
修道院裏にある浄化場と呼ばれる小屋で、浄化場の隣にある井戸から汲んだ冷水で体を拭き、最後に頭から流しかける。のだけれど、このお清めが修道生活で何より苛酷だ。
冬の氷点下で冷水を頭から浴びるのはまさに地獄だ。拷問と変わらない。
ならば夏は楽かといえば決してそんなこともない。
夏でも早朝の気温は十度ほどしかないのだ。そんな中で氷が入っているのではと錯覚するような井戸水で体を拭いたりするのだから寒くないわけがない。
あまりの冷たさに震えてくるほどだ。
このお清めだけは二年が過ぎても慣れないし、この先も慣れそうにない。
お清めのあとは《礼拝》の時間だ。
礼拝とは、祈りを捧げること。
朝と就寝前の一日に二回、それぞれ一時間ほど行う。
世間での祈りと、カノン教の祈りとでは若干の差違がある。
世間で祈りといえば何かに対して強く思うことだ。けれどカノン教では、その思う対象によって区別されている。
カノン教の祈りとは、自分以外の何かに対して強く思うことだ。それは他者に対してだったり、女神カノンに対してだったり、世界に対してだったりする。
自分に関して強く思うこと、つまり悩みや個人的願望に思いを巡らせることは告白と呼ぶ。
そして礼拝という行為は、カノン教でとても重要視されている。
《世界は人々の祈りによって維持されている。もしも地上から祈りがなくなれば、世界は滅亡するだろう》
と、昔から信じられているためだ。
そんなカノン教の考えに以前のアリアは口にこそ出さなかったものの否定的だった。
祈りがなくなったくらいで世界が終わるわけがないと思っていた。
しかし、それは聖女になる前の話。
女神カノンと出会い、聖痕が刻まれた今は、世界が滅亡するとまではいかなくとも祈りがなくなれば何かしらの不幸が起きるかもしれないと思い直している。聖女になるというのは、それだけアリアにとって衝撃的な出来事だった。
礼拝を終えたあとに聖堂と修道院の清掃をして、ようやく朝食になる。
ここまでの起床から朝食までの流れは、毎日が判を押したように同じだ。
季節や天候によって左右されるのは、朝食のあとからになる。
春から秋にかけては導きや巡回の合間に畑で作業をし、畑での作業がない冬は代わりに除雪作業がある。雨や雪、強風などの悪天候で外に出られない場合は修道院や聖堂の清掃を普段よりも念入りに行ったりする。
ちなみに《巡回》とは、なんらかの理由で聖堂まで来られない信者さんのお宅を訪問し、その場で導きや困り事の手助けをすることだ。
夕食を摂れるのは導きや巡回を終わらせ、畑仕事などの作業も全てすませてから。
聖女の食事は朝と夜の二食だ。
夕食後は基本的に自由。
就寝前に礼拝さえ忘れなければ何をしても構わない。
これが聖女の一日。
そしてカノン教では、《導き》、《礼拝》、《巡回》、《奇跡》をお役目と呼び、特別に神聖な行為としている。
お役目は聖女の存在意義であり、使命だ。
朝食のあと、アリアは一人で畑作業をしていた。
草を掴んでは根っこから引き抜く。
その繰り返し。
草むしりは地味だけれど、とても重要な作業だ。
雑草は土の養分を吸い取る。一本や二本なら問題がなくても、それが十本、二十本ともなれば、せっかく生えたマルイモの芽に必要な栄養が奪われてしまう。だから定期的に抜いてやらなければいけないのだ。
「でも、さすがに飽きてきたのです……っと」
必要だとわかってはいても普段は会話しながらやっている作業なだけに一人だと単調さに苦痛を感じる。
こういう日に限ってソロはいない。
カルロスと話すデュオに付き添うと言っていた。
セレーナも用事で朝から町に行っている。
アリアも、いつもは導きで忙しくしている時間帯だ。
けれど、今日は七月二十五日。
毎月、五の付く日は《
休導日という聖女だけの休日は、まだ歴史が浅い。
七年前、休みのないセレーナを気遣ってトーマスが設けたものだからだ。
休導日が聖女の休日といっても実際はそこまでゆっくりできるわけでもない。
普段の作業はあるし、要請があれば奇跡を使いもする。
ただ、導きと巡回がないというだけだ。
そのため、休導日だからという理由で草むしりから逃れることはできない。
アリアは畑を見回した。
草をむしり終えたのは、だいたい半分。
まだ半分か、とは考えないようにする。
整列して植えられたマルイモの、緑に色付いた茎と葉がずいぶん大きくなってきた。
蕾もぷっくりと膨らんで、早ければ今月の終わりか、遅くとも来月の始めごろには綺麗な白い花を咲かせてくれるだろう。
「この子たちのためにも、もうひとがんばりするのですっ」
どこか母親のような気持ちで作業を再開させる。
だけどすぐに、
「お届け物でーす!」
聞き覚えのある声が聖堂の入り口付近から響いてきた。
すっくと立ちあがってアリアは叫んだ。
「畑のほうまで回ってきてくださいなのですー!」
思ったとおり、小走りでやって来たのは背負袋を背負ったクリスタだった。
「おはようございます、聖女アリア」
「おはようございますなのです、クリスタさん。配達、ご苦労さまなのです」
ところで、とクリスタが周囲に視線を巡らせながら言う。
「セレーナさまは?」
「朝から町に行っているのです」
「じゃ、今はアーちゃん一人だよね?」
「クリスタさんは切り替えが早いのです」
「アーちゃんもさっさと切り替えてよ! アーちゃんに《クリスタさん》なんて呼ばれるのは落ち着かないんだから」
「はいはい、なのですよ。クーちゃんが配達に来たってことは、あの変態はまだお店に戻ってないのですか?」
デュオとの話し合いが長引いているのだろうか。
「バカ兄貴は帰ってきたよ。今は店番させてる」
「……? カルロスがいるのにクーちゃんが配達なんて珍しいのです」
「いやー、だってさすがにこれをお兄ちゃんには触らせられないでしょ」
クリスタが背中の背負袋から布にくるまれた包みを出し、はい、と手渡してくる。
何を頼んでいたのかを忘れていたアリアは紐を解いて納得した。
「ああ……なるほどなのです。これは無理なのですよ」
「でしょ?」
小包の中に入っていたのは白い布切れが数枚――女性用の下着だった。
もしもこれをカルロスが持ってきていたら、あの変態のことだから相手を怒らせるためにどんな奇行を起こしていたかわかったものではない。
「ありがとうなのですよ。クーちゃんの機転に助けられたのです」
「気遣いは接客業の基本ですから! でも、遅くなっちゃってごめんね?」
アリアが下着を注文したのは聖女になってすぐだ。
注文してから商品が届くまでに二ヶ月の時間が空いたのは確かに遅い。だけど、その遅れには理由があった。
この下着は、クリスタの手製なのだ。
そもそもケニス小国では、下着は買う物ではない。個人が自分で、もしくは家族に作ってもらうのが一般的だ。けれどお針子仕事が苦手なひとはいつの時代にもいるもので、アリアもその一人だった。
大きな国には下着専門のお店があるらしい。だけどケニス小国に、そんな気の利いたお店があるはずもない。もちろん今はカルロスがいるから彼に頼めば手に入れてくれるだろうけど、同じ男性ならともかく女性が注文するには精神的な難易度が高すぎる。
そこに目を付けて商売にしようとしているのがクリスタだ。もっとも、それを考えついたのが今年のはじめで、今はまだアリアが練習台になっている段階だった。
アリアは純白のパンツを一枚手に取ってみた。
外側と内側を入念に確認する。
クリスタはアリアと違って手先が器用だ。
縫い目もまっすぐで綺麗な仕上がりになっている。とくに蝶をあしらった刺繍が彼女の思いやりを感じさせた。こういったひと工夫が女性は嬉しいものだ。
「うん、これならお金を取れると思うのです。わたしなら払っても後悔しないのですよ」
「ホントに? じゃあ、これでクリスタ下着店開業だね!」
「ところでコレ、ほんとうにお金はいいのですか?」
「いいのいいの。アーちゃんのおかげで商売にできるんだもん。そのお礼だよ」
「気持ちはうれしいけど、やっぱり払うのですよ。タダでもらうのはなんか……」
好意に甘えすぎている気がする。
「そこまで言ってくれるなら……お金はいいから、お願いを聞いてくれないかな」
「なんなのですか? クーちゃんの頼みならなんだってするのですよ?」
「お願いっていうか、わがままなんだけどね。前みたいにアーちゃんと遊びたいなって」
「わたしだってクーちゃんと遊びたいのですよ。でもわたしは聖女で、クーちゃんだってお店があるから忙しいのです。現実には難しいのですよ」
「今日なら時間あるんだ。アーちゃんも今日は導きがないでしょ? 二人が時間取れるなんて滅多にないんだし、どうにかならないかな?」
なんでもすると言った手前、断りにくい。だけど断るしかなかった。
導きがなくとも日々の作業はある。
セレーナが不在なら尚更、留守にするわけにはいかなかった。
断腸の思いでアリアは口を開いた。
「ごめんなのです、クーちゃ、」
しかし、その途中で声が割り込んでくる。
「あらあら、行ってきてもかまいませんよ」
町から戻ってきたセレーナが、クリスタの後方から歩いてきた。
声にふり返って会釈するクリスタに、笑顔で挨拶を返したセレーナがアリアに向き直る。
「今日は休導日ですし、わたくし一人でもなんとかなります。聖女アリアもたまにはお友達とゆっくりしたいでしょう? ぜひ行ってきてください」
心の底から嬉しい申し出だった。
セレーナの気遣いが心にしみる。
だからこそアリアは素直に受け入れるわけにはいかなかった。
「それでは聖女セレーナがお一人になるのです」
「うふふ。これでも聖女アリアが来る前は、わたくしだけですべての作業をこなしていたんですよ? 一日くらいなら平気です」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「聖女は他の職業に比べてお休みが少ないですから。休める機会があるときに休んでおいたほうが良いですよ。それに、聖女アリアが休んでくれるとわたくしも助かるのです」
「どうしてなのです?」
「聖女アリアが休んでくれたら、わたくしが休みたいときにお願いしやすいでしょう? というわけで、わたくしのためにも今日は羽を伸ばしてきてもらえませんか?」
先輩聖女にそこまで言われてしまっては頷くしかなかった。
「わかりましたなのです。それじゃあ、お言葉に甘えて今日はお休みをいただくのです。でも聖女セレーナ、約束なのですよ? 聖女セレーナが休みたいときは遠慮せずに言ってくださいなのです」
「はい、そのときは聖女アリアにお願いしますね」
にっこりと微笑むセレーナに、アリアは《そのとき》などやってこない気がした。
聖女セレーナは一人で抱え込む節がある。
それは周囲を信頼していないというのとは少し違っていて、たぶん苦手なのだ。誰かに頼るのも、誰かに何かをお願いするのも。
そうなったのは長い修道生活でなのか、生まれ持った気質なのかはわからない。どちらだとしても彼女に頼られるような人間になりたいとアリアは密かに思った。少なくとも今日みたいに気を遣われなくてもすむ人間になりたい。
「えっと、アーちゃ……じゃなくて、聖女アリアをお借りしても大丈夫ですか?」
と、少し遠慮気味にクリスタが尋ねる。
「クリスタさん、聖女アリアを存分に気晴らしさせてあげてください」
「はい! まかせといてください!」
「ところで、今日はどこに行くのです?」
アリアの質問に、クリスタが悪だくみをする子供のように唇の端を吊り上げる。
「それは着いてからの、お・た・の・し・み、だよ!」
親友からは楽しみで仕方がないという気持ちが溢れていた。
それを見て、自分も似た表情をしているのだろうとアリアは思う。
(ああ……クーちゃんと一緒にお出かけなんて、いつ以来なのです!)
なぜならアリアも、その場で飛び跳ねてしまいそうなほど親友との外出が嬉しくて仕方がなかったからだ。
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