第10話 後悔の朝
翌朝。アリアの目覚めは普段と違っていた。
「……リア、聖女アリア、朝ですよ。起きてください」
「ん……」
聞き覚えのある声でアリアが目を覚ますと、見慣れた顔が間近から覗き込んでいた。
「聖女……セレー、ナ……?」
窓からは眩しい朝日。
修道院の自室。
ベッドの上で横たわる自分。
状況を把握するのに数秒。
アリアは飛び起きた。
「申し訳ありませんなのです! 聖女セレーナ、今すぐ起きるのです!」
言い訳ができないほどの寝坊。
聖女セレーナに起こされるのは実に一年半ぶりだった。
「うふふ、仕方ありません。昨日は大変でしたものね」
「昨日……?」
記憶にぼんやりと霧がかかっているようで、うまく思い出せない。寝起きだからというのを差し引いても頭がやけに重かった。
「もしかして覚えていませんか?」
アリアの現状を予測していたように、セレーナは落ち着いた様子だ。
「…………すみませんなのです」
「あらあら、謝ることはありませんよ。なにせ、昨日が初めてだったのです。それに止められなかったわたくしにも責任がありますから」
「……はあ」
《止められなかった》
とか、
《責任》
という単語に嫌な予感しかしない。
「昨日のことは本当に何も覚えていませんか? 聖女アリアのためにみなさんが集まってくれたことも、覚えていませんか?」
「あ……聖女になったお祝いをしてもらったのです!」徐々に記憶の断片が蘇る。「クロウシ肉のステーキを食べて……それからエデル酒を飲んで……」
頭がズキズキと痛みだした。
それでもアリアは記憶を遡る。
まだ思い出していない部分に、とても重大な何かが隠れている気がした。
そうするうちに昨夜の失われていた記憶が鍵のかかった小箱を一つ一つ解錠していくように少しずつ明らかになっていった。
昨夜。カルロスにエデル酒をふるまわれ、しばらくはその話題で盛り上がっていた。けれどそれもやがて終わり、話題は二転三転と移り変わる。
そして、誰かが言った。
『そうだ。せっかくだから聖女アリアに導きをやってもらうっていうのはどうですか?』
いいですね、とすぐに誰かが賛同する。
アリアが気づいたときには、聖堂でいつも信者さんがするように一人の女性が眼下で膝を着いていた。
アリアは、その女性に見覚えがあった。
町でコリドル工房というパン屋を営んでいる、ジュリアン・コリドルだ。
今年の夏で三十二歳のジュリアン。背が低くて、とてもふくよかな体型の彼女はセレーナの導きに何度も来ていた。
導きでのお決まりの問答が無事に終わり、アリアは言った。
『ジュリアン・コリドルさん。それでは、お話をうかがうのです』
『ウチには、どうして恋人ができないんでしょう? どうしたら結婚できますか?』
またか、と内心でアリアはぼやいた。ジュリアンが導きで求めるのはいつも、
《恋人がほしい》
《結婚したい》
この二つばかりだ。
そんなジュリアンに、導きでセレーナは言っていた。
『そういったお相手にいつ、どこで巡り逢えるかは誰にもわかりません。もしかすると運命の相手にはすでに出会っているかもしれませんよ』
言葉や表現を変えて、いつも言いきかせていた。
いざ自分が導きをする立場になってアリアは思い知った。さすがは聖女セレーナだ。きっとこれ以上にうまい言い方はないだろう。
しかし、アリアも感心ばかりはしていられない。セレーナと同じ内容を口にするのは簡単だけれど、それでは思考停止なオウム返しだ。ここは自分にしかできない導きをしなくてはならない。相手もそれを求めているはずだ。
(だけど、そんなこと言っても……)
あのセレーナですら同じ内容を繰り返していた。つまり他に言いようがなかったのだ。
(簡単にできるならだれも苦労しないのです。しかも、なんだかさっきから頭がぼうっとしてるのですよ。だいたい、この人にも問題があるのです)
跪くジュリアンを改めて見る。
彼女を一言で表現するなら、近所のおばちゃんだ。良く言えばふくよかな、悪く言えば太りすぎの彼女はお姉さんよりもおばちゃんのほうが断然しっくりくる。
運命の相手にいつ巡り逢えるかは誰にもわからない。もしかしたらそういう相手とはもう出会っているかもしれない。なるほど、それはもっともな話だ。
だけど、とアリアは思う。
ジュリアンに彼氏ができないのは運命だけのせいではない気がした。彼女自身にも十二分に問題があるように思えてならない。
体型だけを悪く言うつもりはない。世の中は広いから太っているほうが好みだという男性もいるだろう。それでも大多数の男性は、細くて、出ている所は出ていて引っ込むべき所は引っ込んでいる、スタイルの良い女性を好むのが現状だ。
ジュリアンは接客業で培っただけあって、よく気が回る。性格も明るく、太陽のように周囲を照らしてくれる女性だ。けれど、その素晴らしい内面を知ってもらう前に、あのお腹が目につく。
見れば見るほど大きなお腹だ。本来はゆったりとした作りのワンピースがはち切れそうになっている。その巨大なマルイモみたいなお腹には何が詰まっているのやら。そんなものを見せられたら百年の恋も冷めるだろう。それで何が、恋人がほしい、結婚したい、だ。醜い体型を変える努力もせず、ただ運命のせいにして、それだけでは飽き足らずに相手の見る目がないと言う。そんな無駄口を叩く暇があったら痩せる努力をしろ。
というのが本音。だけど、そんなことを言えるわけがない。
だから悩む。
アリアがなんと言ったものか考えていると、突如として叫び声が響き渡った。
『ひどいっ!』瞳を潤ませたジュリアンが髪を振り乱す。『アリアさま、なんでそんなこと言うんですか! あんまりですっ!』
そして立ち上がったジュリアンがドタドタと激しい足音で多目的部屋を出ていった。
まるで凍りついたようにシンとした室内。
誰もが口を開こうとしない。
ふとアリアは、セレーナと目が合った。一度、床に目を伏せ、再び視線をあげた彼女は明らかに顔を引き攣らせていた。セレーナの困った顔を見たのは、それが初めてだった。
そこまで思い出したアリアの顔から血の気が引いてゆく。
もしかして、と唇が震えた。
「わたし、わたしは……導きをした、のです? その……ジュリアンさんに……?」
「はい、そのとおりです」
残酷なほど、はっきりとした首肯。聞き間違う余地も残されていない。
今ならジュリアンが泣き叫びながら出ていった理由がわかる。
つい、うっかり。アリアは本音をぶちまけてしまったのだ。
嗜虐のアリアに、なにもかもを委ねてしまったのだ。
(聖女失格なのです……)
だれか、この記憶が夢だと言ってほしい。
「聖女アリア、大丈夫ですか」
と、セレーナが優しい声音をかけてくる。
こんな自分をまだ聖女と呼んでくれることに涙が出そうになった。
救いを求めるように見上げたアリアに、セレーナが言葉を継いだ。
「誰にでも失敗はあります。わたくしもありました。今日にでもジュリアンさんのところへ謝りに行きましょう。彼女は優しい女性です。きっと許してくれるはずです」
女神様とは、セレーナのことではないだろうか。そう思うほど今日の彼女は神々しい。
そんな女神様のお言葉に、アリアはうなだれるように頷いた。
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