第9話 祝いの夜・後編〜カルロスとエデル酒〜

「いやあ、二人はほんとに仲がよろしいですなあ」

「……カルロス、さん」

「お兄ちゃん……」

 

 その、わざとらしい丁寧語にアリアとクリスタが眉を寄せた。


 カルロスが前髪をかき上げて続ける。

 

「わかってますよ? オレはお呼びじゃないんでしょう? だから声をかけたに決まっているじゃないですか!」

 

 今日はお祝いの場だ。さすがのカルロスも《さあ、罵倒してくれ!》と、いきなり暴走はしないようだ。

 

 それでもカルロスはカルロスだ。

 彼は女子から負の感情を向けられなければ生きていけない。

 罵られることが望めないのならせめて軽蔑の眼差しだけでも向けてもらおうと相手の嫌がることを的確に、もっとも効果的な機会で仕掛けてくる。

 

「そんな……お呼びじゃないだなんて悲しいことを言わないでくださいなのです。今夜は来てくださってうれしいのですよ」

 

 アリアは瞬時に聖女としての笑顔を張りつけた。本当は相手にしたくないけれど、今夜のカルロスはお客様だ。失礼があってはならない。だからアリアは、とびっきりの笑顔を向けてやった。

 もちろん、それがカルロスを苦しめるとわかっていてのことだ。

 誰が喜ぶとわかっていて侮蔑を送ってやるものか。そんなことを、こんな公衆の面前でしたら自分まで変わり者扱いされてしまう。

 

 案の定、カルロスは顔を引き攣らせていた。それでも叫びださないのは彼のなかでまだ自制心がどうにか働いているからなのだろう。

 

「こ、これはこれは……優しい言葉と素敵な笑顔をありがとうございます、ごほっ!」

「っていうか、お兄ちゃん。気持ち悪いからどっか行ってよ」


 さすがは兄妹だ。他人なら躊躇するような言葉をクリスタは平然と口にする。しかし、だ。邪魔者扱いしたことによってカルロスが心の平衡を持ち直してしまった。

 

「さすがは我が妹! 良い働きだ! 褒めてやるぞ!」

「だから、そういう意味不明なこと言いだすのやめてっていつも言ってるでしょ!」

「意味不明ではないさ。きっとこちらの聖女アリアはわかっていらっしゃると思うぞ?」

 

 アリアは答えなかった。

 こんなのを理解できていると親友に思われたくない。

 

「ほら、聖女アリアが困ってるでしょ! お兄ちゃんを理解できる人間なんて大陸中を探したっているわけないんだからね!」

 

 ああ、心が痛む。

 そしてカルロスのにやけ顔が腹に立つ。

 

 そんなことより、とクリスタがまくし立てる。

 

「なんで話しかけてきたのよ! ここでは話しかけないでって言っておいたでしょ!」

「そんなの、お前が嫌がってくれるからに決まってるじゃないか」

「……なっ!」

 

 兄妹なのだから、それくらいわかりそうなものだ。けれどクリスタは、カルロスの性癖をいまいち理解できていない。だからこの程度でも意外そうに目を丸くする。

 

 そんな親友の反応がアリアは羨ましかった。本当は自分もそちら側にいたはずなのだ。それがどうしてカルロスの特殊な性癖を理解できるようになってしまったのだろう。

 

「もしもお前がオレを大好きで『お兄ちゃん、お兄ちゃん』って慕ってくるような妹だったら見向きもしなかっただろうし、こうやって話しかけることもなかっただろうな」

 

 臆面もなく最低なことを言いきるカルロスに、クリスタが顔を真っ赤にして反論する。

 

「だ、だれがお兄ちゃんを好きなのよ! バッカじゃないの! 今すぐ川に流されろ!」

「ふむ、水責めか……。でも、どっちかっていうとそういう間接的な責め苦より、もっと殴られたり蹴られたりみたいに直接的なのが好きなんだけど?」

「そんなに殴ってほしけりゃ今すぐ殴ってやるわよ!」

 

 飛びかかる寸前のクリスタをアリアは見かねて制止した。

 

「まあまあ、クリスタさん。今夜はせっかくのお祝いなのです。そういうのはまたの機会にお願いするのですよ」

 

 それからアリアはカルロスに向き直り、穏やかな口調を努めて言った。

 

「カルロスさんもなのです。兄妹仲が良いのを見せびらかしたいはわかりますけど、おふざけはそのあたりにしてもらいたいのですよ」

「お兄ちゃんのせいで怒られちゃったでしょ! だいたい、肝心のアレは渡したの!」

「ああ、うっかり忘れるところだった。聖女アリア、ちょっと待っててください」

 

 そう言ってカルロスが壁際に向かう。行商用の背負袋より二回りほど小さな背負袋から一つの瓶を取り出すと、それを両手で大事そうに抱えて戻ってきた。

 

「聖女アリア、これはオレからのお祝いです。どうぞ、受け取ってください」

 

 カルロスが差し出した瓶。ガラスの表面には、いくつもの曲線が折り重なった綺麗な模様が刻まれ、その透明な内側では美しい薄紅色の液体が揺れていた。

 

 その品が高級品であるのは一目でわかった。

 それは瓶の中身を見抜いたからではない。


 アリアが注目したのは入れ物のほうだ。

 ガラスは高価で、だからこそステンドグラスや飲み物を入れるグラスのように、象徴や日用品として長く活用できる物に使用される。

 それが一般的なガラスの使われかた。


 だというのに、あの瓶はどうだ。

 中身が空になったあと、別の液体を入れて再利用するには注ぎ口が細すぎる。表面に刻まれた模様も宗教的な意味があるとも思えない。つまりあの瓶は、あの薄紅色の液体を入れるためだけに作られたということだ。そんな品が安物であるわけがない。

 

 アリアは固唾を飲み下し、緊張した面持ちで尋ねた。

 

「ありがとうございますなのです。でも、カルロスさん……それは、なんなのです?」

「これは今回の行商で手に入れた品で、エデルの実から造られた果実酒ですよ。名前はそのまんまで、エデル酒っていうみたいです」

 

 エデルの実は、赤色の皮に白色の果肉の果物、らしい。というのも、アリアはエデルの実を見たことすらなかった。エデルの実は、ドーランド大陸南部地域でしか育てられない果物だ。

 

 瓶の中身を知って高級品としての価値がまた一段階あがった。


 いったい、いくらしたのだろう。


 気にはなるけれど、恐ろしくて訊けない。

 そんなアリアの内心など知る由もないカルロスが、どうぞ、とエデル酒の瓶を手渡してくる。お礼を言って受け取ったアリアをカルロスは不思議そうな顔で見下ろしていた。

 

「どうかしたのです?」


 小首をかしげるアリアに、カルロスはエデル酒の瓶を指さす。


「飲まないんですか、それ」

「え?」

「聖女様って普段はマルイモ生活でしょ? 今日みたいに特別な時ぐらいしかお酒なんて飲めないじゃないですか」

「あ……あとで、いただくのです」

「そんなこと言ってたら飲みそこねますよ? せっかくだから感想を聞かせてくださいよ」

 

 そうですよー、とクリスタも言う。

 

「いま飲んじゃいましょうよー。そのついでに、ひと口でいいからわたしにも味見させてくださーい。どんな味なのか、すっごい興味あります」

「でも……」

 

 アリアもエデル酒には興味がある。だけど飲もうとしないのは、セレーナの導きを傍らで見てきて、お酒にまつわる様々な相談を目の当たりにしてきたからだった。


 夫がお酒に溺れて仕事をしなくなった。

 妻がお酒を手放せなくなった。

 息子が……、娘が……。

 そういった話はいくらでもあった。


 お酒を飲んだ全員がそうなるわけではないのは知っている。

 お酒には体質的に強い人と弱い人がいて、弱い人がお酒を飲むと暴れたり、性格が変わったりするのも知っている。

 だけど、アリアはお酒を飲んだ経験が一度もない。

 先月成人したばかりで機会がなかった。だからアリアは自分がお酒に強いのか、それとも弱いのかも知らない。


 それだけに怖かった。

 もしお酒に弱くて取り返しのつかない失敗をやらかしてしまったら……。

 

「良いではありませんか。せっかくですから、みなさんでいただきましょう」

 

 そう言ったのは、いつから話を聞いていたのか、セレーナだった。

 

「でも、聖女セレーナ……」

「聖女アリアの不安もわかります。誰しも初めては不安を抱きます。ですが、ひと口なら問題ないでしょう。寒い地域で暮らす人は昔からお酒を飲む習慣があるせいか、お酒に強い人が多いものです。それに、こんなに貴重なお酒をわたくしたちだけで飲んでしまうのはもったいないではありませんか。ここにいるみなさんで幸福を分かち合いましょう」

 

 セレーナの提案に集まった人たちが湧く。

 

「お! さすがはセレーナ様!」

「わかっていらっしゃる!」

「ごちそうさまです! 聖女セレーナ、聖女アリア!」

 

 すでに酔いが回っているひとも何人かいて場の雰囲気はとても陽気だ。それだけに『無理なのです!』と言い出せなかった。そんなことをすれば一瞬で空気が壊れてしまう。

 

「わたしの気が回っていなかったのです。ありがとうございますなのです、聖女セレーナ。みなさんで美味しくいただくとするのですよ」

 

 一つの目的で団結した集団は動きに無駄がなかった。いっそお手洗いにでも行ってこの場をやりすごそうかと逡巡しているうちに、ほとんど押し付けられるようにしてアリアはグラスを持たされ、すぐにエデル酒が半分ほど注がれた。

 

「それじゃあ、みんなにいきわたったかなー!」

「はーいっ!」

「はよはよ!」

「いいでーす!」

 

 ほんのりと顔が赤くなっているトーマスの呼び掛けに各々が短く答える。

 そして今夜、二度目の乾杯の声が響き渡った。

 この状況で飲まないのは不自然もいいところだ。

 

(もうどうにでもなれっ、なのです!)

 

 気持ち的には崖から飛び降りるくらいの決意だった。けれどグラスに半分とはいえ、一気に飲み干す度胸はなくて、アリアは薄紅色の液体を舐めるように少しだけ口に含んだ。

 

「おいしい、のです……っ!」

 

 とたんに目を瞠る。

 果物から造られたお酒というから甘みがあるだろうとは想像していた。けれど思い描いていた甘みとは、まったく質が違った。

 口に入れた瞬間は舌にまとわりつくようにこってりと甘いのに、喉をとおりすぎるときには爽やかな甘みに変化する。

 

 その甘美な初体験にアリアはすっかり魅了された。

 ひと口、もうひと口とグラスを傾ける手の動きが止まらない。

 すぐにエデル酒を飲み干してしまった。

 

 アリアが名残惜しそうに空のグラスを見つめていると、そのグラスにカルロスが新たにエデル酒を注いだ。

 

「聖女アリア、そんなに気に入りましたか?」

「お肉以外にこんなおいしい物があったなんて初めて知ったのです!」

「そこはお肉が基準なんですね」クリスタが苦笑する。「まあ、でも美味しいですよね。あたしも気に入っちゃいました。お兄ちゃんも、たまには良い仕事するじゃん」

「はあ、やっぱこうなるよなー」

「お兄ちゃん、どうかしたの? 複雑な顔しちゃって。不細工がさらに不細工だよ」

「こんなことならあっちにしとけばよかったと思ってな」

「あっち?」

「人間のションベンから造った酒。とある部族の名品らしい」

「お兄ちゃん……そんなの持ってきてたら兄妹の縁を切ってたよ」

 

 ジュード兄妹のやり取りを眺めているうちに、アリアのグラスはまた空になっていた。

 そのことに気づいたクリスタが心配そうな声を出す。

 

「聖女アリア、大丈夫ですか?」

「えー、なにがなのれす?」

「なにがって、そんなグビグビ飲んだら酔っちゃいますよ……って、もう酔ってないですか? 顔、赤くなってますけど」

「そうなのれすかー?」

 

 アリアは自身の顔に触れてみた。

 いつもより確実に熱い。だけど今のアリアには、そんなことはどうだってよかった。


 エデル酒が甘くて美味しい。

 

 それだけで充分だ。

 

 

 その後、心配するクリスタの制止を振り切ってアリアはもう一杯のエデル酒を飲み干した。

 そのあたりからアリアは酔うという状態を実感し始めた。

 体の内側がポカポカと温かくて、気持ちがフワフワする。ロウソクの灯りが不自然なほど輝いて、まるで世界が生まれ変わったみたいだ。そのせいなのか、今にも笑いだしそうだった。

 

「聖女アリア、ほんとうに大丈夫ですか? 目つきがいつもより鋭くなってますけど……」

 

 そんな親友の心配する声さえも笑えてくる。

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