第8話 祝いの夜・前編〜親友とお肉〜
その夜のマザー修道院は賑わっていた。
「えー、それではアリア様が聖女になられたことを祝いまして……」
と、トーマスがグラスを掲げる。その顔色も、その声音も、まだ一滴もお酒を口にしていないはずなのにすっかり酔っているみたいだった。
「「「「「「かんぱーいっ!」」」」」」
阿吽の呼吸で声とグラスのぶつかる音が多目的部屋に響きわたる。
今夜はアリアが聖女になったことを祝うために大勢が集まっていた。ジュード兄妹、トーマスやバッカニア、導きの常連さん。見知った顔ばかりだ。
テーブルには豪勢な料理がこれでもかと乗っている。
バッカニアの牧場で搾られたばかりのミルクをふんだんに使ったスープ。サファルドリの姿焼き。クロウシ肉のステーキ。コリドル工房のパン。ケニス小国ではあまり口にできない海魚の料理まである。もちろん、そこにはマルイモ料理も並んでいた。
マルイモ料理はセレーナが作ったもので、それ以外は各人が持ち寄った品だ。
普段は慎ましやかな食生活を求められる修道生活も、お祝いごとや行事では豪華な食事を口にすることが許される。前にお肉を食べたのは先月の誕生日以来だったからアリアは今すぐにでもクロウシ肉のステーキに飛びつきたかった。のだけれど、目的の料理が乗った大器に近づくこともできずにいた。
「聖女アリア、おめでとうございます」
「アリアさま。さっそく今度、導きをしていただきに伺いますね」
「いやあ、おれっちはアリアちゃんはやる子だって前々から思っとったよ!」
「こらバッカニア! 聖女様に対してちゃん付けとは何事か!」
「長老、わりいわりい。そういや聖女様になったんやったな。聖女アリア、すんません」
そんなふうに、さきほどから代わる代わる誰かがやってきては祝福してくれる。好意でこんな催しを開いてもらって、せっかく祝ってくれているのに、それらをないがしろにして自分の食欲を満たそうとするのは聖女として許されるわけがない。
とはいえ似たような祝辞に対して、同じように聖女としての笑顔と謝辞を返す行為に辟易していたのが正直な気持ちだ。それでも――。
「アーちゃ……じゃなくて、聖女アリア。今日はおめでとうございます!」
アリアを囲んでいた人垣が疎らになったのを見計らって一人の少女が近づいてきた。頭の両脇で長い金髪を赤いリボンで束ねたカルロスの妹、クリスタ・ジュードだ。
クリスタは両手を後ろに回したまま声の音量を低くして言葉を継いだ。
「やったね、これまでがんばってきたのが報われて。友達としてあたしもうれしいよ」
クーちゃん、と唇が勝手に動きそうになるのを堪えてアリアは言った。
「ありがとうございますなのです。クリスタさんにそう言ってもらえるのが一番うれしいのですよ」
祝われるのは誰からであっても嬉しい。それでも、やはり親友からの言葉は特別だ。
「あはっ、すっかり聖女さまって感じですね」
「からかわないでくださいなのです。まだまだ形だけなのですよ」
アリアもクリスタも普段はお互いにもっと砕けた口調で話している。
だけどアリアは聖女だ。
聖女は万人を平等に扱わなければならない。相手によって態度や口調を変えてはならないのだ。それが、どんなに仲の良い友人でも、家族でも。もちろん相手から求められれば別だけれど、それは周囲に人がいない、二人きりの場合だけだ。
同じようなことはクリスタの側にも言えた。導きを受けた者や自分から申し出た者をカノン教では信者としている。クリスタの場合は後者だ。
信者は、修道士や聖女に敬意を持って接し、丁寧な言葉遣いを心掛ける。それが昔からの慣習だ。
しかし、アリアとクリスタがここでいつものような調子で談笑したとしても目くじらを立てる者はいない。
ケニス小国の住民は心が広いのだ。
それがわかっていてアリアとクリスタが丁寧な口調で話すのは周囲に対する気遣いと、成人した自分たちを戒めているからだ。
自分たちは子供ではない。
十五歳になって成人した以上、時と場所をわきまえ、相手によって立ち居振る舞いを変えるべきだ、と思っているからだ。
「ところで聖女アリア?」
と、クリスタが意地悪そうに唇の片端を上げる。
何か企んでいるなと瞬時にアリアは思った。長い付き合いだからという以前に、クリスタは考えが顔に出やすい。これは笑いたいのを我慢している表情だ。
何にも気づいていないフリをしてアリアは微笑みを返した。
「どうしたのです?」
「実は、聖女アリアに贈り物があるんです」
「贈り物なのです? それはうれしいのです」
「はい、どうぞ」
と、クリスタが何かを差し出してくる。ずっと後ろに手を回していたから何かを隠し持っているとは思っていた。
そう、ちゃんと気づいていたのだ。
それでもアリアは、
「お肉なのです!」
木の器に取り分けられたクロウシ肉のステーキを目の前に出された瞬間、思わず声を大きくした。
「アリアさまー? 聖女さまが今にもよだれを垂らしそうな顔をしていいんですか?」
「だって……」
どうしてそんないじわる言うのです、とは声に出せずにアリアは涙目で唇を噛んだ。
すると、多目的部屋に幾人もの爆笑が轟いた。けれど、そこに嘲る気配はない。優しさと温かさに満ちた笑い声だった。
馬鹿にされていないのがわかってはいても笑われた当人としては恥ずかしさで頭を器に突っ込みたい心境になる。
はい、とクリスタが肩を大きく揺らしながら渡してきたクロウシ肉のステーキを受けってアリアは小声で抗議した。
「うー……みなさんまで……。そんなに笑わなくてもいいのですう」
「聖女アリアはほんとうにお肉が好きですよね」
「仕方ないのです。好きなものは好きなのですよ」
そんなのクーちゃんは知ってるはずなのです、と無言で睨み、アリアはひと口大に切られた肉の塊を口に放り込んだ。
「んーー……っ!」
口内が、喜んでいる。
しっとりとした食感。
舌の上で転がしているだけでお肉からエキスが滲み出てくる。それを一気に歯で寸断すると肉汁が爆発した。けれど、クロウシ肉の魅力はまだまだ終わらない。嚙めば噛むほど薄味のタレと香辛料の風味が混ざり合い、溶け合って、飲み下してからも幸福な余韻に浸れるのだ。
(ああ、これなのです……っ! わたしはこれを待っていたのですよ……!)
至福とは、まさに今、この瞬間のためにある表現だ。
「いつ見ても聖女アリアはおいしそうに食べますね。っていうか、そんな目を虚ろにさせて、そのステーキに危ない薬とか入ってるわけじゃないですよね?」
呆れ顔のクリスタに、アリアは熱く語った。
「お肉は最高なのです! お肉を食べたら、ほへーっとなるものなのです! ひと月ぶりのお肉なのですよ! そんなの意識がどっかいっちゃいそうになって当然なのです!」
「そんなにお肉が好きなのに、よく聖女になろうと思いましたよね」
「それは、ほら。お肉よりも大切なものがあったからなのです」
祖父母を楽にしてあげたい、という理由はクリスタに話している。
「お肉狂いの聖女アリアだから一年ぐらいで根をあげると思ってました。それがほんとに聖女さまになっちゃうんですから世の中わからないものですねー」
「お肉狂いって、それは言いすぎなのですよ」
「あっという間に器を空にしておいて、そのセリフは説得力がありませんよ?」
「うー……」
今日のようにクリスタと話すのは先月に誕生日を祝ってもらって以来だ。
毎日のように遊んでいた昔が懐かしい。だけど、それは仕方のないことだ。アリアが修道院に入ってからは自由な時間が取れなかったし、クリスタも似たようなものだった。
クリスタは、兄のカルロスと一緒に雑貨屋を営んでいる。大部分はカルロスが取り仕切っているとはいえ、カルロスは行商で他の国へ行ったりすることも多い。そういう時はクリスタが店番をしている。それにカルロスが店にいる場合でも配達や在庫整理など、やることは山のようにあるのだ。
たまにアリアは、大人になるのが寂しく思えた。
あれだけ一緒にいて、それが当たり前だったのに、いつしか背負わなくてはならないものが増えて、大切なひとや大好きなひとと会う時間が減ってしまう。そのことが寂しくて、悲しかった。
だからこそクリスタと会うたびにしみじみ実感させられる。
(親友って、ほんとうにありがたいものなのです)
いくら離れていても、どれだけ時間の隔たりがあったとしても、話せば一秒で昔の自分たちに戻れる。それは何にも替えがたい財産だ。
アリアが胸の奥を温かくしていると、聞き覚えのある声が割ってきた。
「いやあ、二人はほんとに仲がよろしいですなあ」
「……カルロス、さん」
「お兄ちゃん……」
その、わざとらしい丁寧語にアリアとクリスタが眉を寄せた。
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