第4話 聖女セレーナ

 ドーランド大陸北部地域のほぼ中心に、四大国の一つに数えられるサファルド教国がある。そのサファルド教国から北西へ徒歩で半月ほど進んだ位置にあるのがケニス小国だ。

 

 ケニス小国は領土が狭い。子供が無作為に千切った紙屑の一片みたいな形をした国の端から端まで移動するのに徒歩で半日あれば足りてしまう。それでも移動手段が徒歩しかないケニス小国では生活するには広いくらいだ。

 

 ケニス小国の中心部にはジュード雑貨屋をはじめ、パン屋などの食料品店や様々な手続きをするお役所などの施設が集中して《町》と呼ばれている。これは一度に多くの用事が済ませられるようにと、移動手段が徒歩しかない小国ならではの構造だ。

 

 似たような理由から多くの民家が町を取り囲むように点在し、その外側に牧場や畑が広がっている。もちろん、閑散としているほうが好きだからとか、人付き合いが苦手だからとか、様々な理由で不便な場所に住む人も少なからずいる。アリアの祖父母もそうだ。

 

 アリアが暮らすマザー修道院と、そこに併設されたマザー聖堂は、どちらかと言えば町に近い。どちらかと言えばなんて表現が曖昧なのは中途半端な位置に建っているからだ。


 修道院と聖堂があるのは町の北側、町からはたぶん、三十分ほど。ケニス小国のように太陽の傾き加減を生活の基準にしている国には時計などないから正確な時間はわからない。

 

 移動に三十分ならアリアには近い距離だ。けれど、それは足腰が丈夫な者の感覚で、お年寄りや足が不自由な人には結構な苦労となる。だから実に中途半端なのだ。


 ふうっ、とアリアは疲労を吐き出して立ち止まった。

 目の前にはレンガ造りの立派な顔をした建物と閉じられた重厚な扉がある。


「やっと、着いたのですー……」


 とは言っても、この建物は修道院ではない。併設された聖堂のほうだ。女神様との交信を目的の一つとした建物だから特別立派に造られている。修道士と、その卵が生活する修道院はさらに奥だ。

 

 アリアは重厚な扉の前を素通りして、修道院の脇を進む。

 

 修道院の壁は丸太が使われているため、平坦な個所がない。

 ケニス小国の建物の多くは丸太をそのまま使用する《丸太造り》という建築方法が一般的だ。冬場は氷点下二十度以下にまでなる外気から身を守るには、丸太から切り出した木材では薄すぎる。

 

 修道院の裏手に回ると、畑でクワをふるう人影を見つけた。

 今ではすっかりと見慣れた紺色のスカプラリオに向かってアリアは叫ぶ。

 

「ただいま戻りましたなのですーっ!」

 

 すると、アリアに気がついた修道服姿の女性がゆっくりと歩み寄ってきた。

 

「アリアちゃん、お帰りなさい。何事もありませんでしたか?」

「はいなのです、聖女セレーナ。このとおりなのですよ」

 

 アリアが戦利品を誇るように木箱を傾けると、聖女セレーナはやんわり顔を綻ばせた。

 

「お疲れ様でした。では、それを修道院まで運んでもらえますか。それがすんだらアリアちゃんは休んでいてください。重い荷物を持って大変だったでしょう?」

 

 その微笑みは春のうららかな日差しを思わせる暖かさで、男性だけでなく女性すらも魅了する。毎日顔を合わせているアリアですら気を抜けば、ほわあああ、と見惚れてしまう引力を持っていた。

 

 聖女セレーナの姓をアリアは知らない。それは聖女になった際、姓を女神様にお返しするためだ。《聖女》の肩書は職業を表すと同時に、聖女にとっては新たな姓でもある。

 

「アリアちゃん?」

 

 セレーナに怪訝顔で名前を呼ばれ、アリアは慌てて答えた。

 

「聞いてたのです! これを修道院に置いたら、すぐにお手伝いするのですよ!」

 

 うふふ、とセレーナが上品な笑い声を響かせる。

 

「手伝ってくれるのはうれしいですが、無理はしないでくださいね。今日はアリアちゃんにとって特別な日なんですから」

「大丈夫なのです。まだまだわたしは若いのです。簡単にへこたれないのですよ」

「あらあら、頼もしいですね。だけどそれは、アリアちゃんの倍は生きているわたくしに対する嫌味ですか?」

 と、セレーナが芝居がかった口調で言う。そこに怒気は感じられない。

 

「なに言ってるのです。聖女セレーナだってまだ三十一になったばかりなのですよ」

「三十歳を過ぎたらアリアちゃんくらいの子から見たらおばさんじゃないかしら?」

「わたしにとって聖女セレーナは綺麗で優しいお姉さんなのです」

 

 お世辞ではなく、本心からアリアはそう思っていた。

 セレーナは穏やかな女性だ。寝食を共にした二年間で怒ったことはおろか、声を荒げたことすらない。アリアが失敗しても微笑みながらやんわりと注意するだけだった。

 

「アリアちゃんにいつまでもそう思ってもらえるように頑張らないといけませんね」

 と、セレーナが無邪気に笑う。その口もとに添えられた左手の甲には傷痕があった。

 

 二重円型の痕。

 聖痕と呼ばれる、女神カノンより授かった聖女の証だ。

 

「頑張らなくても聖女セレーナは素敵なままでいられると思うのです」

「女のひとは気を抜くとすぐ老けてしまうものです。アリアちゃんも若さにかまけているとあっという間にヨボヨボになってしまいますよ?」

「それは怖いのです」

 

 そこでお互いに顔を見合わせて自然に笑い声を響かせ合っていると、

 

「ごめんくださーい!」

 

 国道のほうから声が聞こえてきた。

 

「信者さんがいらしたみたいですね。すみませんが、聖堂で信者さんに待っていてもらえますか? わたくしは服の汚れを軽く落としてから行きます」

「はいなのです!」


 セレーナに頼まれ、アリアはすぐに聖堂の入り口を目指した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る