第3話 カルロスという男

「よっ! 朝早くからお使いか?」

「……カルロス、さん」

「なんだよ、人の顔見るなり苦そうな表情して。ゾクゾクするだろ?」

 

 黙っていれば美男子に見えなくもない金髪の青年、カルロス・ジュードが両腕で自身を抱きしめて気味悪く体をくねらせる。

 そんな三歳年上の青年に、アリアは無理矢理に業務用の笑顔を作ってみせた。

 

「おはようございますなのです、カルロスさん。これから行商に向かわれるのです?」

 

 すると顔面蒼白になったカルロスが、この世の終わりだとばかりに叫びだした。

 

「やめろ! オレに《さん》なんて付けるな! 素敵な笑顔を向けないでくれ! 頼むから、いつもみたいに羽虫を踏みつけるような容赦のない態度で接してくれ! じゃないとオレは、どうやって明日から生きていけばいいんだあああ……っ!」

 

 カルロスは頭がおかしい。それは今この瞬間の話だけではなくて、アリアが知る限り彼は昔から、ずっと頭がおかしかった。

 ただ厄介なことに、頭がおかしいからといってカルロスは知能が低いわけでもない。計算は早いし、物事の容量もよく、頭も回る。能力的には優れた逸材なのだけれど、《異性に罵倒されたい》や《異性に踏まれたい》などの特殊すぎる性癖が、すべての長所を霞ませていた。

 

「頼む、頼むから罵ってくれよお……っ」

 と、四つん這いになったカルロスが地面を何度も殴って、最後には本気で泣きだした。

 

 年上とは思えない。

 思いたくない。

 アリアの中から彼女が顔を覗かせる。

 

「……カルロス」

 

 聖職者には似つかわしくない、低い声。

 名前を呼ばれた青年が刃物を連想させる冷淡な声音にハッと顔を上げる。

 カルロスの瞳は、これから浴びせられるであろう容赦のない言葉に輝いていた。

 

「ねえ、カルロス?」

 

 アリアは淡々と無感情な顔と声で言う。

 

「あなたはどうして、そんなに気持ちが悪いの? あまりの気持ち悪さに糞尿でさえも清らかな水に思えてくるわ」

 

 聖女は本来、いくら親しい間柄でも相手を呼び捨てにしてはならないし、心無い言葉を向けるなど論外だ。しかしそれと同じ価値で、相手から求められれば可能な限り応えなくてはならないのも聖女という職業である。

 

「そう! それだよそれ! それがほしかったんだよ!」

 

 勢いよく立ち上がって抱きついてくるカルロスの迫力に、アリアは彼女を引っ込めた。変態相手では彼女の罵倒も喜ばせるだけだ。

 

「寄らないでほしいのです! って、どうしてさっきよりも泣いてるのですか!」

 

 水を得た魚のようにギラギラとした瞳をアリアが全力で押し退けると、それでようやく理性の欠片を取り戻したカルロスがきょとんとした表情になる。

 

「これ以上のご褒美が他にあるのかよ! アリアは自分じゃわかんないのかもしれないけど、お前のゴミを見るような目は最上なんだ! その目は人を殺せる凶器なんだよ!」

 

 人を殺せるとかひどすぎる。

 凶器なんてあんまりだ。

 

 カルロスに会いたくなかった理由が、これだ。

 カルロスと話すだけでアリアは自分を見失ってしまう。

 

 さきほどのカルロスを罵ったアリアは、アリアであってアリアではない。

 言うなれば《もう一人のアリア》だ。

 

 もう一人のアリアといっても二重人格ではないし、本来の自分としての意識もはっきりしている。だけど、声や口調が変わってしまうのだ。

 

 それは先天的な変化ではない。

 後天的に開発されたものだ。

 

 幼少のアリアは人見知りが激しかった。上手く話せなかったし、相手の顔も見られない子供だった。

 それを自覚していたアリアは、聖女になると決意した折に自分を変えたいと強く願った。

 

 人見知り克服に協力してくれたのが親友のクリスタ・ジュードであり、クリスタの兄であるカルロスだった。

 

 当初はクリスタと二人で試行錯誤していた。けれど、人生経験の浅い子供では改善策がなかなか思い浮かばなかった。

 そしてアリアは間違いを犯した。

 何を血迷ったか、カルロスに相談したのだ。

 

 アリアの相談を受けたカルロスは、だったら、と提案した。

 

『上手く人と話せないなら話せない自分を忘れればいい。人と話せる自分を想像して、演じるんだよ』

 

 その言葉に従って理想の自分を演じてみると少しだけマシになった気がした。

 それでカルロスを信頼したアリアは、それからも素直に指導を受け続けた。

 

『極端な性格のほうが演じやすくなるぞ』

 

『普段は絶対に言わないことを言ってみるのも訓練になるぞ。このブタ野郎とか』

 

『心は表情に影響されるんだ。試しに目つきを鋭くして、声を低くしてみたらどうだ?』

 

 そんなふうに様々な助言を聞くうち、アリアは人見知りを克服していった。けれど同時に、副作用というか副産物というか、あるモノがアリアのなかで生まれてしまった。

 

 それが《もう一人のアリア》。

 相手にひどいことばかり言うから《嗜虐のアリア》とアリアは名付けている。

 

 これまでに何度も嗜虐のアリアを消そうとした。でも嗜虐のアリアは、アリアの意識とは関係なく、相手の気持ち悪い言動やアリアの感情の高ぶりをきっかけに条件反射で出てくる。心を強く持てば抑えることもできなくはないけれど、アリアの内から存在を完全排除することは叶わなかった。

 

 今から思えばカルロスを疑うべきだったと反省している。助言をしているときの妙に明るい口調や不自然な爽やかさに、ほんの少しでいいから警戒心を持つべきだった。

 

「ご褒美とか言わないでなのです。あなたがそんなだとクーちゃんが困るのですよ」

 

 アリアは、はっきり言ってカルロスが嫌いだ。けれど、親友の兄だから関係を断つわけにもいかない。そうでなければこんな変態、とっくに縁を切っている。

 

「クリスタがなんで困るんだよ。借金も完済したし、困ることは何もないと思うけど」

「え! もう返し終わったのです? あれだけあったのにですか?」

 

 ジュード家は雑貨屋を営んでいる。それはカルロスの父親が始めたものだ。けれど彼の父親は経営の才能が皆無で、結局は借金を抱えることになった。正確な数字は知らないけど、クリスタの口ぶりから察するに一生かかっても払えるかどうかという額のようだった。

 

 不幸というものは続くもので、九年前にケニス小国で疫病が大流行した。その疫病によってジュード家は父親と母親という二本の柱を同時に失い、兄と妹に遺されたのはすでに良くない噂がついた潰れかけの雑貨屋と莫大な借金だった。

 

 その借金をカルロスが返しきったというのだから驚かずにはいられない。しかもカルロスが雑貨屋を再開して行商人としても活動するようになったのは、たった四年前からだ。

 

「やっぱりカルロスは……できるひと、だったのですね」

 という率直な感想がアリアの口から漏れる。

 だけどカルロスにとって甘い褒め言葉は傷口に塩を塗り込むようなものだった。

 

「オレを褒めるな! 褒めるくらいなら蔑んでくれ! いや、むしろ殴ってくれ!」

 

 もがき苦しむカルロスを前に、アリアは本気で思った。

 

(本当に殴ってやろうかしら)

 

 危ない危ない。

 嗜虐のアリアが出てくるところだった。

 

「だから、そういうのをやめてって言ってるのです! どうして普通にできないのです!」

「普通、か。……なあ、アリア。普通って、いったいなんだろうな」

「そういうのはいらないのです」

 

 遠い目をして哲学的な疑問を投げてくるカルロスに、アリアは鋭い視線を返した。

 てっきりまた、ふざけた言葉を吐きながら身悶えるかと思いきや、意外にもカルロスは真剣な口調で言った。

 

「アリアもそうだけど、なんでみんなオレを変態変態って言うんだ?」

「なにを、言ってるのです……?」

 

 アリアは開いた口が塞がらなくなった。

 道を歩けば子供から『ヘンタイのおにいちゃんだ!』と笑われ、女性からは『きゃっ! カルロスよ! みんな逃げてーっ!』と避けられるのに、当のカルロス本人は自分が正常だとでも思っているのだろうか。

 

「だって、おかしくないか」

「なにがおかしいのです?」

「よく考えてみろよ。変態って、まるでオレが特別みたいじゃないか」

 

 ああ、とうとうカルロスの頭が本格的におかしくなってしまった。

 

「カルロス」

「な、なんだよ?」

 

 アリアの同情をふんだんに含んだ視線に《そんな目で見るな! もっと軽蔑した視線をくれ!》という心の叫びが聞こえてきそうな苦い表情でカルロスが見返してくる。

 

 そんなカルロスを真正面から見据え、はっきりとアリアは教えた。

 

「カルロス、いいのです? これまでの自分をよーく思い返してみてほしいのです」

「お、おう」

「では、訊くのです。あなたの好きな言葉は、なんなのです?」

「このブタ野郎」

「……じゃあ、これまでに誰かからされて一番うれしかったことはなんなのです?」

「うーん、迷うなー。やっぱ土下座してる後頭部を踏まれたこと、かな?」

 

 質問から間を空けずに答えるカルロスに、二つ目の問いかけを終えたところでアリアの心が折れた。

 本当ならもっと質問を重ねてカルロスに深く自分自身を見つめ直してもらいたかったのだけれど、これ以上は特殊な性癖を聞かされる側の精神がもたない。

 

「どうなのです? これでわかったのです?」

 と、アリアは疲れた表情で言った。

 

「わかったって……何が?」

 

 そう訊き返してくる怪訝顔に、ふざけている様子は一切ない。

 

「それ、本気で言ってるのです? ほんっとうにわかってないのです?」

「だから何がだよ」

「カルロス、あなたは特殊で特別なのです。はっきり言えば異常なのですよ」

「異常って……そんなことを面と向かって言われたのは初めてだよ。ありがとな」

 

 その眩暈がするセリフに嗜虐のアリアを抑えきれない。

 

「『ありがとな』ですって? 今のが褒め言葉に聞こえたなら、あなたの頭には蟲がわいてるんじゃない? ああ、あなたの感性は普通じゃないだったわね。その感性がおかしいってさっきから言ってるのに、どうしてそれがわからないの? 脳味噌が腐ってるの?」

「おおうっ」カルロスがブルッと体を震わせる。「その冷たい声と視線がたまらないぜ」

 

 アリアは嗜虐のアリアを奥に引っ込めて溜息をついた。

 するとカルロスが「大丈夫だって」とお気楽に笑う。

 

「わかってるさ。でも大多数じゃないってだけで《ヘンだ》、《おかしい》って言うのには納得できないんだ。人間は一人一人が無二の存在だろ? つまり誰もが特別で特殊なはずだ。それなのに、わざわざ好みとか趣味で分けたりするから話がややこしくなるんだよ」

 

 アリアは返す言葉に困った。

 

《人間とは一人一人が掛け替えのない存在であり、ただそこにいるだけで素晴らしい。命とは、生まれ出た瞬間から奇跡が始まっているのだ》

 という教えがカノン教にあるからだ。

 

 だからカルロスの言い分は理解できる。

 今の部分だけを抜き出せば彼が正しいと賛同もしただろう。

 だけど人間社会とは――他者と関わって生きるというのは、正しさだけでは成り立たないものだ。

 

「カルロスの言うこともわかるのです」

「だろ?」

「でも、その面倒な括りで区別されてしまうのが世界なのです。それはどうしようもないのです。だからこそ世界の構造や仕組みに逆らうんじゃなくて、わたしたちはそれらを受け入れて生きるしかないのですよ」

「…………」

 

 カルロスが珍しく黙った。口を真一文字に結び、伏し目がちに地面を見つめる表情からは、お調子者の雰囲気が消えている。

 

(ようやく、わかってくれたのですね)

 

 カルロスとは十年の付き合いになる。最初は人見知りで何も言えなかったけれど、この二年は会うたびに説教というか説得を試みてきた。その努力もこれまでは、いつもの調子ではぐらかされるか、喜ばせるだけだった。正直、カルロスの更正は無理かもしれないと諦めかけていた。

 

(でも、あきらめなくてよかったのです!)

 

 まさか努力が報われる日がくるなんて。

 ああ、今日は本当におめでたい。

 

 やがて、カルロスが静かに言った。

 

「わかったよ」

「わかってくれてうれしいのです」

「世界の構造は変えられない。だから、その構造の中で変えてみせるよ」

「…………はい? なのです?」

「アリアの言うとおり、多数派が強者で少数派が弱者っていうのが世界の構造だ。いくら個人が足掻いても変えられない。だったら変えられる部分を変えればいいんだ」

「……なにを、どうする気なのです?」

「世界にオレと同じ趣味の人間を増やすんだよ。少数派が多数派になればいいんだ」

 

 理屈はわかる。だけど、

 

「そんなの無理に決まってるのです」

 

 一人や二人ならまだしも大勢の趣味趣向を変えるなんて不可能だ。

 

「まあ、世界とは言ったけど、この国だけでいいんだ。オレの生活範囲が、オレにとっての世界だからな」

「それでも無理だと思うのです。第一、どうしてそこまでして変えたいのです? カルロスは変態って言われるのがうれしいんじゃなかったのですか?」

「アリア、お前は大きな誤解をしてる。オレは単に変態って言われたいわけじゃない。女の子に変態って罵られたいんだよ」

「……つまり、男の人には言われたくないのですね」

「当たり前だろ! 男に殴られたって痛いだけの暴力だ! けど、女の子に踏まれるのは痛くても愛のムチなんだよ!」

 

 たぶん、そこに愛は小指の先ほども含まれてはいないと思う。

 

「……がんばって、なのです」

 と、アリアは半笑いでカルロスの横を通り過ぎた。

 

 背後から、とびきり元気な声が追いかけてくる。

 

「見てろよ! すぐにケニス小国をオレと同じ趣味の奴らでいっぱいにしてやるからな!」

 

 そんなことになったらこの国は破滅だ。

 そう思ったアリアだったけれど、振り返ることも、返事をすることもしなかった。


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