第2話 ケニス小国
降り積もった雪がようやく溶けた、五月の中旬。
早朝からアリア・ローレルは何本もの瓶が入った木箱を抱えて歩いていた。
数えきれないほど辿ったマザー修道院へと続く国道。
ほとんど整備されていない道は、草が生えていないだけで地面がむき出しだ。けれどそれは、この国道が荒れているからではない。ケニス小国に巡っている道は、どこも似たような状態なのだ。
国道の両側では雑草の緑色に交って春の訪れを知らせる黄色い花弁が映えていた。
目線を少し上げると広大な畑が広がって、その遥か向こうには未だに溶けきらない雪で白くお化粧をした山々がそびえている。
そんな景色の中にぽつんぽつんとある建物は、まるで人間と自然の力関係をそのまま表しているかのようだ。
ウモオオッ、というマダラウシの低い鳴き声と、チチチッ、というスズネドリの美しい高音とが合唱のように重なって青空に昇ってゆく。
午前のまだ早い時間の空気を鼻から思いっきり吸い込んでみると、草花の青っぽい臭いにむせ返りそうになりながら毎年のようにしみじみ思う。
「今年も春がやって来たのですよー……」
「そうだねえ。あったかくなってきたよね」
独り言だったのに声が返ってきてびっくりした。
アリアが短く悲鳴を漏らすと、誰もいないと思っていた畑で丸顔のおじさんが立ち上がる。
「なはは、ごめんよ。驚かせちゃったみたいだね」
見知った顔にアリアは一息ついた。
「長老さん、おはようございますなのです。なにがしゃべったのかと思ったのですよ」
「おはよう。アリアちゃんが気持ちよさそうだったから、つい声をかけちゃったよ」
朝日に目をすがめて挨拶を返してきた丸顔のおじさん――トーマス・ドエは、長老と呼ばれている。五十歳になったばかりで長老と呼ばれるような年齢ではないのだけれど、ここケニス小国では、昔からの慣習で国の代表者を《長老》と親しみを込めて呼ぶ。
国によっては国王と呼ばれる立場のトーマスが、どうして朝から畑仕事に精を出しているのか。
それはケニス小国が力の弱い国だからだ。
力が弱いといっても単に武力が低いだけではない。
ケニス小国は、あらゆる力が低いのだ。
人口は六千人程度。国土も狭く、誇れるような名所や名産品もない。
そんな、ないない尽くしの冴えない小国では代表者といえども一般国民と大差ないのだ。
けれど、それはケニス小国に限った話ではない。
四方を海に囲われた大陸、ドーランド。この大陸では人口が三千人以上で、代表者を選出さえすれば、どんなに国土が狭くとも国として認められる。だからドーランド大陸には百を超える国が点在しているけれど、そのほとんどはケニス小国とさほど変わらない状況だ。国の代表だからとふんぞり返っていられるのは東西南北にある四大国などの、限られた豊かな国だけだ。
「今年の冬はいつもより雪が多かったのです。だから、ちゃんと春が来てくれたことに安心していたのですよ」
「今年は五月に入っても雪が残ってたからね。マルイモの収穫量が落ちるんじゃないかってひやひやさせられたよ」
ケニス小国があるドーランド大陸北部地域では一年の半分が雪と氷で覆われ、夏場でも気温があまり上がらない。そういう過酷な環境下では育てられる作物も限られてしまう。
農耕と酪農によって成り立っているケニス小国では、種まきの時期が遅れることで生じる収穫量の減少だけでも死活問題だ。
ちなみにマルイモとは、ドーランド大陸北部でもっとも多く栽培されている野菜で、庶民の主食になっている。
「ところで、アリアちゃんは朝早くからお使いかな?」
とトーマスが、抱えられた木箱に興味深げな視線を投げる。
アリアは腕のなかで木箱を抱え直した。
瓶たちが軽快な音を響かせ、透明なガラスの内側で白い液体が揺れる。
「バッカニアさんの牧場に行ってきたところなのです」
「あいつんトコのマダラウシは餌にこだわっているせいか、良い仕事するからねえ」
ウシという頭に二本の角を生やした大柄の動物には、大きく分けて二つの種類がある。
乳を搾るのが、白色と黒色のまだら模様をしたマダラウシ。
解体して食用とするのが、真っ黒な毛並みのクロウシ。
ケニス小国では両方とも飼育されている。だけど、継続した生産性を望めるマダラウシのほうが少しだけ多い。
「そうなのです。他のマダラウシのミルクよりも甘い気がするのですよ。わたしも聖女セレーナも、いつも美味しくいただかせてもらってるのです」
「なはは、そんなに褒めたらバッカニアのやつが調子に乗りそうだ。それよりそれ、重いだろう? 修道院までは結構あるし、私が持って行こうか?」
「大丈夫なのです。いつものことですし、二年もやっていれば体も鍛えられたのですよ」
そこで、ふいに沈黙が訪れた。
てっきり何か言ってくれると思っていたのにトーマスはまじまじとアリアを見つめるだけだった。
おかしなことでも言っただろうかとアリアは首をかしげる。
「……長老さん?」
どうかしたのです、と視線で尋ねるアリアに、トーマスが柔らかく目を細めた。
「いやね、こうやって《アリアちゃん》って呼べなくなるんだと思ったら、嬉しいやら寂しいやら複雑な気分になっちゃってね」
「わたしは今までどおりでも構わないのですよ?」
と、アリアは冗談っぽく言ってみた。
「さすがに聖女様を《ちゃん》とは呼べないよ。誓願式は今日でよかったかな?」
「変わりはないのです」
「そっか。いよいよだね」
「まだ聖女になれるかはわからないのです。それは女神様がお決めになることですから」
「アリアちゃんならきっと大丈夫! この二年間、頑張ってきたからね!」
「だと、うれしいのですよ」
だけど、とトーマスが探るような視線を投げる。
「本当に、よかったのかい?」
「なにがなのです?」
「アリアちゃんは十五歳だったよね?」
「先月になったばかりなのですよ」
「その年頃なら、もっと大きな国に憧れるものでしょ? 国の代表をやってる私が言うべきではないけど、この国は娯楽もないし、若い人には退屈じゃないかと思ってね」
トーマスの言葉は否定し難い事実だ。
ケニス小国では人口が減り続けている。若者が外に出て行くのに対し、外からの移住者は皆無だからだ。おかげで平均年齢は右肩上がり。
「わたしは、のんびりとしたこの国の雰囲気が好きなのですよ」
「アリアちゃんは優しいから無理してるんじゃないかって少し心配だったんだ。けど本当に、アリアちゃんが聖女になってくれて嬉しいよ。これまではセレーナ様お一人に負担をかけていたからね。ずっとそれが気になってたんだよ」
「修道士は人気がない職業だから仕方ないのです」
「だけど、ないと困る職業だよ。うちみたいに小さな国では特にね」
トーマスが苦笑して続ける。
「まあ、うちの国は足りないものばかりだけどね。中でも生活に直接関わる靴と服は深刻な問題だよ。今はカルロス君が仕入れてくれるからやっていけるけど、よその物はどうしても割高になるから。外で作業してたら靴も服もすぐにダメになっちゃうし、早くなんとかしたいんだけどね」
「やっぱり難しいのです?」
トーマスは曖昧に唇を歪めるだけだった。
それから彼は、ああ、と言葉を足す。
「足を止めさせてごめんよ。セレーナ様にもよろしく伝えておいてね、聖女アリア」
「わかりましたなのです。って、まだ聖女じゃないのですよ」
トーマスと別れてからしばらく進むと、二日前に降った大雨で出来た水たまりが残っていた。まるで小さな湖のような水たまりを大きく迂回しながら途中で水面に映った自分の姿に足が止まる。
「わたし……聖女になるのです」
茶色のスカプラリオを着た、修道服姿の自分。ヘッドベールの隙間からは収まりきらない赤髪が少しだけはみ出していた。
修道服という衣装は意外に奥深い。
修道服は、単に同じ所属を示す制服ではない。
神様と交信するための礼装であり、神様に対する忠誠と服従の精神を具現化した物だ。
神様に仕える修道士や聖女は、就寝時以外は基本的にずっと修道服を身にまとう。
そんな修道服という衣装は、三つの要素から構成されている。
一つ目は頭巾。男性は四角形型でフード、女性は三角形型でヘッドベールと呼ばれる。
二つ目はチュニックと呼ばれる肌着。男性はシャツとズボン、女性はシャツとスカートが一体になったワンピース型で、どちらも白色無地の布で作られている。
そして三つ目が、修道服の顔ともいうべきスカプラリオ。着用者の正面から頭を通して肩にかけられた体の前後に吊るされる長い布で、アリアの所属するカノン教では聖女は紺色のスカプラリオ、聖女見習いは茶色のスカプラリオの着用が義務付けられている。
この格好も今日が最後かと思うと少しだけ名残惜しかった。
見習いですと宣伝しているようで最初はいやだった茶色のスカプラリオとも二年間ですっかり仲良くなれたようだ。
ドーランド大陸北部地域には二つの宗教がある。
四大国の一つに数えられるサファルド教国を含めた南側では軍神オーディラルを信仰するオーディラル教が、サファルド教国より北側では慈愛と豊穣の女神カノンを信仰するカノン教が広まっている。
アリアが所属するカノン教では修道院で修道生活を送る者を修道士といい、特に修道士の女性は聖女と呼ばれている。
修道士となるには、いくつかの工程を乗り越えなければならない。
まずは修道院に入って志願期という試しの期間を一年間、さらにそのあとで一年間の修練期という修行の期間を終わらせる必要がある。
しかし、この二年間を無事に終えたからといって誰もが修道士の職に就けるわけではない。
修道士は、誓願式の場で女神カノンから聖痕を授けられることでのみ、なれるのだ。
すでにアリアは志願期と修練期を終えている。あとは誓いを立てる誓願式で女神様から聖痕を授かれるかどうかだけだ。
「はあ……こればかりは考えてもどうしようもないのです」
どんな人間なら聖痕を授けられるのだろう。
どんな人間には聖痕を授けないのだろう。
「わたしは……ほんとうに聖女になれるのです……?」
考えても無駄だとわかっていても不安が消えてくれない。
聖女を志した動機が《人を助けたい》といった純粋な理由だけならここまで不安にならなかったのだろう。
だけどアリアは、そこに《自立したい》という理由が交っている。
こんな自分本位な人間を女神様は聖女として認めてくれるのか心配だ。
「ああもうっ、なのです!」アリアは激しく頭を振った。「また考えちゃってるのです! ダメダメなのですよ! あとは黙って待つしかないのです!」
溜息なのか疲労なのか判別がつかない吐息が漏れる。
視線を上げると進行方向正面から大きな背負袋を背負った青年が歩いてくるのが見えた。
青年もアリアに気がついたようで、白い歯を覗かせながら軽く片手を挙げてくる。
「よっ! 朝早くからお使いか?」
「……カルロス、さん」
せめて今日くらいは会いたくなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます