聖女に叱られた信者さんが、なぜか喜んでいます!?

シノミヤ🩲マナ

第1話 ドS聖女アリアの導き

「黙りなさい、このブタ野郎」

 

 少女の可憐な声が、聖職者にあるまじき汚らしい言葉となって、マザー聖堂に漂う午前特有の爽やかな空気を震わせた。

 

 天井近くの壁にはステンドグラスが嵌められている。

 そこから七月の眩しすぎる陽光が降り注ぎ、祭壇に置かれた等身大の女神像と、祭壇に立つ少女――紺色の修道服に身を包んだ聖女アリアを照らす。

 

 アリアの前では、細身の男性が祈りの姿勢を取っていた。

 聖堂の入り口から祭壇へ伸びる赤い絨毯の上に両膝を着いた男性は両の手指を胸の前で組み合わせたまま微動だにしない。

 その表情は次の言葉が待ちきれずに期待で満ちていた。

 

 アリアは周囲から不機嫌だとしばしば誤解される細く鋭い目つきを、さらに凶器のように研ぎ澄まして見下ろす。


 それだけで男性の瞳は潤み、口からは感嘆の息を漏れさせた。

 

 聖女にあってはならない嗜虐的な微笑みを口もとに張り付けたアリアが言葉を継ぐ。

 

「ああ、ブタさんと一緒にしたらブタさんに失礼ね。ブタさんは、その身で多くの命を支えているんだもの。それに比べてあなたはどうなの。あなたは人に、世界に、どれだけの役に立っているのかしら」

「おれは、」

「誰が口を開いていいなんて言ったの」

 

 アリアの容赦ない言葉がぴしゃり声を遮る。

 だというのに男性は怒るどころか不快感すら微塵も見せない。むしろ嬉しそうに恍惚な表情を浮かべる有様だ。

 

「なによ、その気持ちの悪い顔は。あなたは家畜以下なんだから勝手にしゃべるなって当たり前のことをワタシは教えただけよ。あなたを悦ばせるためじゃないわ」

「す、すみません」

「家畜以下の謝罪なんて無価値だわ。そんなことより……あなたは今日、どうしてここへ来たんだったかしら。もう一度、言ってみなさい」

「は、はいっ」

 

 男性が身悶えながら口を開く。

 

「おれは妻がいるのに、ある女性に恋をしてしまいました。こんな情けないおれをアリア様に叱って……いえ、罵ってもらいたくて今日は来ました!」

「ワタシに、どうしてほしいですって? よく聞こえなかったわ」

「おれを罵ってください!」

 

 アリアは嗜虐的な笑みを聖女の微笑みに変えて、はっきりと言う。

 

「気持ち悪い」

「はう……っ」

 

 それが男性には効果覿面だった。


 体をビクンビクンと痙攣させる男性を軽蔑の眼差しでアリアは見下ろす。

 

「ああ、本当に気持ちが悪いわ。けど、そんなあなたにも奥さんがいるんでしょ? 気持ちが悪くて情けないあなたと結婚してくれた、素晴らしい女性がいるのよね? それだけでも奇跡なのに他の人を好きになったですって? あなたのは恋じゃない。浮ついた気持ちからくる、ただの情欲よ。自分の欲望も抑えられないなんて本当に家畜以下ね」

「はい、そのとおりです!」

「なにがそのとおりなのか、ちゃんと言いなさい」

「おれは性欲が抑えられない家畜以下です! 生きる価値もないダメ人間です!」

「おかしいわね。ワタシの勘違いかしら。言った覚えのないことまで聞こえてきた気がしたんだけど、ワタシがそこまで言ったの?」

「い、いえっ! 言ってません! おれが付け足しました!」

「簡単な復唱すらできないのに、内容を理解できているとは思えないわね」

「大丈夫です! ちゃんとわかってます!」

「なら、あなたはこれからどうするの?」

「帰ったら全てを打ち明けて妻に許しを乞おうと思います!」

 

 はああああ、とアリアは地を這うような長い、ながい溜息を吐いた。

 

「やっぱりなにもわかってないじゃない」

「え?」

「あなた、その好きになった人となにかしたの? 二人きりで会ったりとか。肉体的な接触があったとか。あなたは、そういうことをしたの?」

「いえ、そこまでは……」

「なにもしてないのに打ち明けられても奥さんが困るだけでしょ。打ち明けたいのはあなたが楽になりたいだけ。あなたは奥さんのことなんかこれっぽっちも考えていないのよ。この期に及んで楽な道を選ぼうだなんて、あなたはどこまで情けないの。気持ちが悪くて情けないあなたがするべきことは、もっと他にあるでしょ?」

「そんな……おれはどうしたら……」

 

 男性が救いを求める瞳で見上げる。


 だけど、アリアは何も言わない。

 返ってくるのは《自分で考えなさい》とでも言うような突き放した視線だけだ。

 

 静寂が支配する聖堂に時折、外から鳥のささやく声が細く聞こえてくる。

 

 やがて、男性が重そうに口を開いた。

 

「……この気持ちは一生、心に秘めます。これからは今まで以上に妻を愛していきます」

 

 ふっ、とアリアが穏やかな微笑みを浮かべる。

 

「気持ち悪くて情けないあなたにしては、よくできたじゃないの」

 

 それからいくつかのやり取りを終え、

 

「アリア様、ありがとうございました! 本当にありがとうございました!」

 

 晴れ晴れとした表情で男性が帰っていった。

 

 聖堂の扉が重い音を立てて閉まるのを確かめてからアリアはふり返り、祭壇に置かれた女神像を仰ぎながら両手を胸の前で組んだ。

 

「ああ……女神カノン、わたしはいつまでこんなことをすればいいのです?」

 

 女神様は、なにも答えてくれない。

 

 あふれそうになる涙を引っ込めたのは、聖堂と修道院とを繋ぐ扉の開閉音だった。

 

「アリアのあねさーん。掃除終わったよー」

 と、小さな人影が入ってくる。

 

 肩で切り揃えられた黒髪。大きな瞳の幼い顔。白色のシャツに赤色のロングスカートという出で立ちのソロ・コラスは、黙っていると可愛らしい女児にしか見えない。だけどその実体は、口が悪い二十歳女性だ。

 

「ご苦労さまなのです、ソロさん」

「他にやることはあるかい?」

 

 そう尋ねてくるソロをアリアは見下ろした。

 黒い頭が、ちょうどお腹にくる。

 女のなかでも身長が高いほうのアリアと比べると、ただでさえ低身長なソロの小ささが際立つ。

 

 ああ、年上だと知っていても可愛い。お菓子をあげて抱きしめたくなる。

 

「今はないのです。だから、ゆっくりしてくださいなのですよ」

「んじゃ、そうさせてもらうとするかね」

 

 はふー、と疲労を吐き出してソロが聖堂に整列する長椅子の最前列に腰を落とす。

 その、見た目と言動の落差に笑いが出そうになるのを我慢してアリアは訊いた。

 

「ケニス小国での生活には慣れたのです?」

「そうだねー。この国に来て、ひと月だからね。さすがに慣れたよ」

「時間が経つのは早いのですよ。弟さんたちも元気なのです?」

「元気も元気! デュオは工房にこもりきりだし、ドリオもいっぱいお菓子がもらえるって喜んでたよ」

「それはなによりなのです」

 

 そういや、とソロが思い出したように言う。

 

「アリアの姐さんに前から訊こうと思ってたことがあるんだよ」

「なんなのです?」

「姐さんの導きって、聖女セレーナの導きとはずいぶん違うよな」

「ソロさん……盗み聞きとは感心しないのです」

「導きの最中に入るわけにはいかないだろ? 扉の向こうで待ってたら聞こえたんだよ」

「ううー……わたしだって普通の導きがしたいのです。でも、そうもいかないのですよ」

「信者が叱ってくれって来るからかい? 嫌ならやらなきゃいいだろ」

「求められれば可能な限り応えるのが聖女なのですよ」

「聖女も面倒だねー。それで? なんで姐さんの導きは聖女セレーナとは違うんだい?」

「…………話したくないのです」

「そうかい。話したくないんなら無理にとは言わないさ」

「ソロさん、ありがとうなのです」

 

 アリアがホッとしたのもつかの間。

 

「カルロスにでも訊いてみるよ。あいつなら知ってんだろ」

 

 その言葉にギョッとなる。

 

「わかったのです! 話すのですよ! だからそれはやめてもらいたいのです!」

 

 カルロスが話を捏造しないわけがない。

 それなら自分で語ったほうが、まだいくらかは傷が浅くすむというものだ。

 

 それでも、やはり気乗りはしない。

 

「……あれは五月の……よく晴れた朝だったのです」

 

 渋々といった面持ちでアリアは話し始めた。

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