ヴァルハラへは行かない
俺は彼の後ろに立った。その背中沿って、そっと手を当てる。するするとシャルワーヌの手が背後に伸びてきた。俺の手を探り当て、ぎゅっと握りしめる。
「王の血を引く女性の統治に関しては、東の国境で戦っていた私の戦友たちも賛成してくれました。彼らは、うんざりしていたのです。武器や食料の補給も、給与さえも滞らせたまま、無茶な指令ばかり押しつけてくる政府に。今ではマークス将軍,
貴方に。軍はこの計画に賛成している。貴方もご存じのように、兵士の多くは、徴兵による国民です。彼らは、ユートパクスの民も、彼女を歓迎するだろうと断言しました。なにより、国民の望んでいるのは、戦争による高揚などではない。平和で、普通で、平凡であることなのです」
オーディンの眉間が不快気に曇った。
「俺の施策が間違っていたと?」
臆せず、シャルワーヌが答える。
「戦争を続けたことが。そして、敗戦国に向けて略奪を許したこと。一番大きな誤りは……世襲の皇帝としての即位です」
シャルワーヌは、オーディンが私腹を肥やしたとは、決して言わなかった。けれど、世襲を糾弾したことで、言ったも同様だ。
オーディンが鼻で笑った。
「お前に俺を非難できるか? 王の血を引く者を摂政にしたとして、その女に子ができたらどうなるのだ? その子も、同様の権力を握るだろう。権力の元に、世襲は、簡単に生まれるものなのだ」
「遺憾なことに、鎮圧軍に捕らえられ、牢に監禁されている間に、彼女は毒を盛られました。子どもを授かることができなくなる毒を」
驚いた。その事実は、俺も知らなかった。あの明るい女性に、そのような惨い仕打ちが加えられていたとは!
シャルワーヌも、今の今まで、そんなことは、おくびにも出さなかった。その陰で、彼は彼なりに憤り、姉の運命を悲しんでいたのだ。
「だから彼女の執政権は、彼女一代限りで終わる」
だが、オーディンはしつこかった。
「それなら、彼女の兄弟か、あるいは夫が、私腹を肥やすであろう」
にっこりとシャルワーヌは笑った。
「彼女の一族が国政を牛耳ることのないよう、彼女の弟が、責任をもって律していくことを誓います」
品位ある侵略者。公正な配分者
軍において賄賂を受け取らず、略奪を禁じたシャルワーヌには、うってつけの役回りだ。
「マークス将軍。貴方が心配するといけないから言っておきます。彼もまた、子どもを得ることはない」
きっぱりとシャルワーヌが言ってのけた。背後で手を握り締めたまま、隣に並んだ俺を見つめる。
頬が赤らんだ。だって彼は、生涯、俺と一緒にいる、と宣言したようなものだから。
「コラールか?」
オーディンの声が冷たく響いた。質問ではなかった。断定の口調だ。
「ブルコンデ15世の胤……君の『姉』だ」
無言でシャルワーヌが頷く。
「そして、弟というのは君だ。君には、妻を娶る意志がないというのだな?」
シャルワーヌの目線を追い、オーディンは、俺に目を止めた。背後で握り合った手に気がついた。
オーディンの目が揺れた。青い瞳に浮かんでいたのは、絶望だった。
「全てが終わったら、シャルワーヌ。俺は君に公国を授けようと思っていた。君を公爵に取り立てるつもりだったのだ。俺には娘がいない。だから姪を君の妃に……」
無言でシャルワーヌは首を横に振った。
この時、オーディンは悟ったはずだ。自分は永遠に、シャルワーヌの信頼を失った、と。
体を繋げる以上の信頼を、彼は、求めるべきではなかった。
「オーディン、これを見ろ」
一歩前に出て、俺は上着を脱ぎ棄てた。次いで、シャツをまくり上げる。背中の傷跡が見えるように、後ろを向いた。
「西の蜂起軍に対し、お前の部下は、こういう仕打ちをするのだ。俺だけじゃない。女であっても子どもであっても、容赦しない。生きていられた俺は、むしろ幸運だった。……ああそうだ。君には感謝している。君が俺を探し出して連れてくるように命令を出していたお陰で、刑罰が短くて済んだ」
感謝したのに、オーディンは鼻で笑った。
「命令書には、生死に関わらずと注記したはずだ。君の死が確認できるのなら、それはそれでよかった」
「なんだ。そういうことか」
俺を探し出して話したいことでもあるのかと、期待していたのに。
「だが、なるべくなら生きた君と会いたかった。俺はな、エドガルド。もう一度、君に抱かれたかった。
ぐっと詰まった。
「いつまで服をめくってるんだ!」
強い叱責が飛んだ。オーディンではなく、シャルワーヌだった。口を尖らせ、強引にシャツを下へ下ろす。
「人前で肌を晒すなと言ったろう?」
確かに、剣舞の時に言われたような気がする。つい最近、鞭打たれた後の療養中にも。背中の傷を医者に診せていた時、彼は必ず横に立って、医者に対して苦情を並べ立てていた……。
「君の注意は見当外れ過ぎる。俺の肌なぞに、誰が興味を持つか」
そんなに強く言ったつもりはない。それなのにシャルワーヌは泣きそうになった。
「嫌なんだ、エドガルド。君のその肌が、ひと目にさらされるのが」
俺は慌て、次にむっとした。いくらシャルワーヌでも、指図するのは止めてほしい。それにここにいるのは、彼とオーディンだけだ。
がむしゃらにシャツを引き下げ、シャルワーヌは、俺の肌を隠そうとする。
「君はどうなんだ、シャルワーヌ」
オーディンが尋ねた。
「どうとは?」
シャツを引っ張るのに一生懸命で、シャルワーヌは上の空だ。
「君の前で、俺がエドガルドに抱かれたら、君はどう思う?」
「ダメに決まってます」
きっぱりと答えた。
「エドガルドは俺の物です。貴方に忠誠を誓う必要などない」
しっかりと釘を刺しておく必要があると感じた。
「お前の物なんかじゃないぞ。俺は俺の物であって、他の誰のものでもない」
シャルワーヌがにっこりと笑った。思わずうっとりするような魅力的な笑顔だ。
「ああ、そうだな。俺が愛したエドガルドは、そういう男だ」
唇を噛み、オーディンが俯くのが見えた。
部屋の外でどよめきが聞こえた。
振り返ると、この要塞に立て籠っていた兵士や将校たちが、大勢、集まってきていた。
慌てて俺は上着を羽織り、威儀を正した。
「ちょうどいい。諸君も聞いてくれ。西の海岸では、未だに王党派の蜂起が続いている。政府鎮圧軍に殺されていくのは、民兵たちだ。君たちと同じ、ユートパクス人だ。同じ国の民同士が殺し合っている。それはどれだけ、悲惨なことか!」
「確かにあれは悲惨だった。俺は、西部鎮圧軍からクルスへ回されてきたのだ」
兵士の一人がつぶやくと、数人が頷き、賛意を示した。
力を得て、俺は続けた。
「ここが、ユートパクス国内や国境付近なら、諸君の戦いは正義だ。外国の侵略軍に神聖な祖国の土を踏ませるわけにはいかないからだ。クルスの一部は、ユートパクスの属州だ。だが、国土ではない。そもそもこの要塞のある場所は、ウィスタリア帝国の領土だった。そしてクルスの民も、ウィスタリア軍と共に戦っている。南ではアンゲル海軍と共闘して。彼らが戦いを挑んでいるのは、他でもない我々ユートパクス軍なのだ。今、侵略しているのは、
一人一人と目を合わせようとすると、次々と、兵士たちは項垂れてしまった。
力強く、シャルワーヌが声を上げた。
「後のことは、クルスの民自身に任せよう。上ザイードの民は、自治ということを知らなかった。でも今は、自分たちで国を治めている。必要なら、クルスに人を派遣してもいい。ただし、軍人ではない。学者や政治経済の専門家などの民間人だ」
「しかしユートパクスが手を引いたら、ウィスタリアの圧政が続くだけではないか?」
要塞に立て籠っていた将校の一人が首を傾げた。
「忘れたか。この戦いに勝利したのは、ユートパクスだ。東の国境でも、ここ、クルス半島でも」
高らかにシャルワーヌは笑った。
「勝者の権利はユートパクスにある。我々の目的は、革命の平等を全世界に押し広げることだ。クルスの民を解放せよという我々の条件を、ウィスタリアは受け容れた」
大きな拍手と歓声が沸き起こった。
「諸君!」
甲高く、よく通る声が響いた。
「軍の総司令官は、皇帝であるこの私だ。この戦いの勝利は、私の功績に帰する」
一瞬で静寂が広がった。
「解散!」
総司令官と、
二人の顔を見比べ、要塞の兵士たちは、顔を見合わせた。それから、もそもそと散っていった。心配そうな目線を俺とシャルワーヌに送りながら。
シャルワーヌは動じなかった。彼にとって、功績や名声など、実にどうでもいいことなのだ。
「ところでマークス司令官。あなたに警告しておかねばならないことがある。ワイズ将軍は、怒り狂っています。貴方がザイードでの指揮権を放棄し、軍に無断で帰国したことは軍務違反だ、軍事法廷にかけるべきだと憤っています」
「何を、」
「私の戦友によれば、政府中枢にも、同じ意見の者がいるそうです」
「……」
すでにオーディンにもわかっているだろう。戦争を続けることにより、彼は民の信頼を失っている。その上、軍法会議にかけられる……下手をすると処刑台に送られかねない。彼が斬首した多くの王党派や、かつての政敵のように。
彼の短かった帝政は、終わりを告げたのだ。
そのことを、彼ははっきりと悟った。
「ふっ。権力など儚いものだ。俺は、戦争に勝利したというのに」
「戦争に勝ったのは君じゃないよ、オーディン。ワイズ将軍と……シャルワーヌの軍だ」
俺の言葉に、目顔だけでシャルワーヌが微笑む。
ふい、と、オーディンは横を向いてしまった。
押し黙ったままのオーディンに向かい、再び語り掛けた。
「もし君が元の地位に戻りたいと思うのなら、再びその実力で躍り出てくるといい。コラール嬢の政府では、能力のあるものが舵取りをしていくだろう。血筋や門閥ではなく、己の力でのし上がっていくのだ。そういうユートパクスを、俺たちは作るつもりだ」
俺とシャルワーヌと。
王党派蜂起軍と亡命貴族たち。
各地で国を守り、革命戦争を戦ってきたシャルワーヌの戦友たち。
どうしようもないどん詰まりの中で生き残るために、既に軍には、抜き差しならない、実力重視の社会が出来上がっていた。
それが、社会全般に拡がっていくのだ。
もう、上に立つものに娘や姪を差し出さなくてもいい。自ら体を繋げる必要もない。
そうした行為は、ただ、愛の為だけに行われるべきだ。
「力を尽くしてのし上がってこい、オーディン。待ってる」
「ただしそれは、戦争であってはなりません。戦争で民の人気を得ようなどとは、考えないことです」
断固としてシャルワーヌが言い渡した。
ふと思いついたように付け加える。
「ああ、そうだ。たとえ貴方がヴァルハラ(戦死者が行くと言われる)へ行かれたとしても、そこに私はいません。後から行くこともないでしょう。なぜなら」
彼は俺を抱き寄せた。
「なぜなら俺は、二度とエドガルドを戦場には立たせないからです」
戦地へと赴かなければ、俺は戦争で死ぬことはない。よって
「お前、わかりにくいんだよ」
俺を引き寄せたシャルワーヌの腹を、肘で小突いた。
「
腰を折り曲げて腹を庇い、シャルワーヌは笑った。
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