握り合った手のぬくもり
こほん。
咳払いが聞こえた。
背中の痛みと酸欠と陶酔で半分意識を失っていた俺は、はっと我に返った。
全力でシャルワーヌを突き飛ばす。
まだ夢の中にいるような瞳をして、シャルワーヌが両腕を伸ばしてくる。
「やっとエドゥの気持ちがわかった……俺に対する優しく強い愛が。もう放したりするもんか!」
「この、愚か者!」
一喝したのは姉だった。コラールは仁王立ちして、弟を睨んだ。
「そういうことは、ふたりきりの時に思う存分やりなさい。ここには小さな子どもだっているのよ!」
「フェリシン大使!」
兄の目隠しからようやく解放されたロロが飛んできた。俺の周りをぐるぐると走り回り、黄色い声で叫ぶ。
「大変だ。フェリシン大佐が涎だらけになってる! ユートパクスの悪魔に嘗められたんですね! どうしよう。悪魔に嘗められたら、体が溶けてしまうんだ! すぐにお風呂に入らなくちゃいけません。さっそくお湯の用意をしてきます!」
びしっと敬礼し(そこだけは立派だった)、ロロは走り出した。
そういえば、ジョシュアら
「おおい、風呂はいいよ。傷にしみるから」
体についたシャルワーヌのにおいを洗い流したくないと言ってたら、呆れられるだろうか……。
ロロは振り返ったが、聞こえたかどうかはわからない。そのまま、走り去ってしまった。
こほん。
静かになった室内で、再びフランが咳払いをした。
「まず、君に尋ねたい、フェリシン大佐。オーディン・マークスの即位に、賛成か?」
「反対に決まってる」
即座に俺は答えた。
「われらが国王陛下以外の者が王位に就くなぞ、神が許される筈がない」
無言でフランは頷いた。
「貴方は、シャルワーヌ将軍」
シャルワーヌは俯いた。その手が、俺の手を探り、握りしめる。
「信じられなかった」
低い声が言った。
「王を追い出し、この国は共和制になった。国民すべてが平等になったのだ。王制にこだわる諸外国から、ユートパクスを守るべく、長い革命戦争を、俺たちは戦ってきた。東の国境で。未開のソンブル大陸で。だが……なぜ再び、王なのか」
「ただの王ではない。オーディンが成り上がったのは、皇帝だ」
フランが補足した。
シャルワーヌが頷く。
「しかもその皇帝は世襲だという。皇帝即位までは、もしかしたら、許せたかもしれない。だが、世襲……それは、絶対に、あってはならないことだ」
その時、俺の心に、暗い疑惑が灯った。
世襲ということは、つまり、オーディンには、結婚し、子どもを作る用意があるということだ。
シャルワーヌが非難しているのは、オーディンが、自分以外の誰かと結婚するということなのではないか……。
その時、手が、ぎゅっと力強く握られた。すべての疑いを払拭し、不安をかき消すほどの、強く、暖かい力だった。
揺らぎのないしっかりとしたまなざしが注がれているのを感じる。
頬が紅潮した。
俺は、自分を恥じた。シャルワーヌを信じ切れなかった心の弱さを。
「ユートパクスの王位は、神から授けられた神聖なる王権だ。我々蜂起軍は、だから国王陛下にお帰り頂き、聖なる王位を奪還しようと……」
言いかけたフランの言葉を、途中でシャルワーヌが遮った。
「無駄だ。
「ラルフが?」
思わず俺は繰り返す。
「そうだ、ラルフ・リールだ。さっき言ったろ。彼は俺が療養中に訪ねてきた。姉上を連れて」
ラルフの名前を口に出す時、シャルワーヌの掌に、鋼のような力がこめられた。骨が砕けそうなほどの力だ。
負けないくらい強く、俺も彼の手を握り返した。ジウの手は小さく柔らかい。けれど、決して挫けることのない力で、そして、体温を超えた熱を込めて。
何かが伝わったのか。シャルワーヌが潤んだ目を向けた。
「あの王は、当てにならない。だから俺は、本当に君が心配だったのだ、エドガルド」
「すまなかった。心配かけて」
素直に俺は頭を垂れた。
シャルワーヌは頷き、フランに向かった。
「気の毒だが、王党派蜂起軍の戦いは、無益に終わるだろう」
フランはむっとしたようだ。
「たとえ無益であろうと、王党派には聖なる主張がある。王位は、神から授けられたものだ。俺たちが奉じているのは、神への信仰そのものなのだ。既に大勢の仲間が、信仰の為に殺された。自分たちの主張を守る為に死んだのは、革命軍の兵士達だけではない」
「そうだな。だが、以前と同じ王が戻ってくるというのは、幻想だ。一度覆った世界は、二度と元にはもどらない。ブルコンデ18世がこの国に帰って来ることはない」
「なら、何の為に俺たちは……!」
フランが絶句した。一方で彼には、腑に落ちた面もあるようだった。
「……そうか。だから陛下は、俺たちが何度要請しても、決して、帰国の日程を教えて下さらなかったのか」
はっと顔を上げた。
「暗殺計画は? ブルコンデ18世は、オーディン・マークス暗殺計画があると書き送ってきた。だから軍部を掌握せよ、と……」
深いため息を、シャルワーヌはついた。
「暗殺は、失敗したよ。それが王党派の犯行であることさえ、政府は掴んでいる」
「なんだって!? で、オーディンは!? 彼は無事だったのか?」
思わず叫んでしまった。
よく考えれば、オーディンは今、戦場にいる。彼が暗殺を免れたことは、一目瞭然だ。しかしこの時の俺は、動転していた。オーディンの無事を確かめずにはいられなかった。
苛立たし気な眼差しをシャルワーヌが俺に向けた。
なぜだかわからない。
たしかにオーディンは恋敵だが、それは、俺の恋敵だ。シャルワーヌのではない。同級生の心配をしたらいけないのだろうか?
「彼は廊下に出ていて、無事だった」
オーディンがクルスへ出陣する前、首席大臣室に火薬の詰まった樽がおかれていたのだと、シャルワーヌは話した。
彼も秘書官から聞いたらしい。
樽は爆発し、気の毒に、従者と事務官数人が爆死した。
「よかった……いや、犠牲者が出たのはよくないが……」
低い声で俺はつぶやいた。
とりあえずオーディンは無事だった……。
再び、シャルワーヌが唇をぐっと結んだ。すぐに、何事もなかったかのように、話しだす。
「あれは、王の側近たちが企てた暗殺だ。ブルコンデ18世自身は、さほど乗り気ではなかった。しかしこれにより、王党派蜂起軍を一網打尽にする口実を、政府に与えてしまったことになる。フラン、君の軍だ」
雷に討たれたように、フランの体が硬直した。
すでにオーディンは、王党派に恩赦を与えている。一方で、「反抗的な王党派」、即ち自分の意に染まない王党派は、見つけ次第処刑すると明言していた。
そしてさらに、オーディン・マークス暗殺計画の露見。
ぞっとした。
「このまま……、このまま続くのか? 王党派と政府軍の戦いが。政府軍と諸外国との戦争が?」
「『終わらせるよ』」
シャルワーヌは言った。東の国境での別れた時、そのままに。
「『俺が終わらせる』。エドガルド、君と共に生きていくために」
しっかりと俺に目を据えてから、彼は目線を横に移した。その先にはコラール、彼の姉の姿があった。
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