オーディンの回想(恋人たちの毒1)
自分に仇なす存在は、芽のうちに摘み取ってしまうに限る。
だが、アンゲル海軍に籍を置くエドガルドには、うかつに手を出せない。
一方、シャルワーヌの方は……オーディン自身の未練が邪魔をした。
ぎりぎりまで譲歩したつもりだ。
エイクレ要塞包囲戦の失敗で、オーディンの人望は下がり続けた。タルキア遠征の過酷さに怒り、詰め寄ってくる兵士までいた。
それに比して、シャルワーヌは、兵士達に慕われていた。
このままでは、軍トップの座を、シャルワーヌに取って代わられるのは時間の問題だ。
早急にことを運ぶ必要があった。
だがそれは、痛みを伴うものだった。
目の前で彼が死ぬのを見ていることはできない。オーディンの希望に、ペリエルクは、首都マワジの後宮に伝わる毒を用いることを提案した。
ペリエルクは、伝承や民話に詳しい学者だった。ザイードの神話に興味を持ち、遠征に参加していた。市民の身でありながら、彼は、オーディン・マークスの補佐官を務めることもあった。
もっとも、後に彼をザイードに置き去りにしたことにより、ペリエルクのオーディンへの忠誠は見事に失われたのであるが。
マワジの後宮の毒には、「恋人たちの毒」という名がつけられていた。二種類の毒が体内に揃って初めて、殺害に成功するからだ。あまつさえペリエルクは、最初の毒をシャルワーヌに投与する役割を買って出た。
呆れたことにペリエルクは、タルキアへの遠征にこの毒薬を持参していた。そのまま彼は、毒の片方だけを持って、上ザイードへ向かった。
ペリエルクが出立してすぐ、オーディンの心にためらいが生じた。むしろ、シャルワーヌに対する未練というべきか。
それで、エイクレからマワジへ撤退する途中、オーディンはシャルワーヌを召喚した。
ザイードに上陸してすぐの頃、
つまり、既に彼には一度、オーディンの命令に従わなかった過去がある。
今回、全てを
果たして、ダミヤンの戦闘にシャルワーヌは現れなかった。この時も彼は、上ザイードの奥地におり、オーディンからの召喚状が間に合わなかったのだと、後から彼の参謀が伝えてきた。
何があっても彼は来るべきだった。それだけの忠誠心を示せば、或いはオーディンは、第二の毒を破棄したかもしれなかった。
シャルワーヌなしで、かろうじて、ダミヤンでは勝利を飾ることができた。オーディンは首都マワジへ凱旋した。それ以前にエイクレで敗北していたので、とても凱旋とは言えないものだったが、ダミヤン戦だけをことさらに喧伝し、勝利を演出した。
そうすることが必要だったから。
軍の士気は、底辺まで落ち込んでいた。
暴動下の
彼のオーディンへの忠誠心には、大きな疑問符がついた。このままでは、最高司令官の地位はシャルワーヌに奪われてしまうだろう。兵士らの反逆という、最悪の形で。
第二の毒を与える為に、オーディンは、彼を
さすがに、シャルワーヌはやってきた。
最も、シャルワーヌはシャルワーヌで、別の目的があったらしい。彼は、武器弾薬の他、兵士たちの靴や食料、
シャルワーヌ師団への補給は、オーディンが意図的に断っていた。物資不足にあえぐ兵士らから、シャルワーヌが突き上げられればいいと思ったのだ。
だがシャルワーヌは、上ザイードの統治で、物資の不足を凌いでいた。彼に付き従った市民たちが、それに協力した。学者や手工業者、芸術家などからなる市民の一団は、鉛筆の芯から、銃の弾を作ることまでやってのけたという。
何て男だと、オーディンは半ば感嘆し、半ば恐怖を感じた。
ダミヤン戦に来なかったシャルワーヌを、オーディンは詰った。もちろん、彼が駆けつけることのできる場所にはいなかったことは、今では知っている。ただ、彼の気持ちを知りたかった。
シャルワーヌは言葉に出しては謝らなかった。
……「私は貴方に、心からの忠誠を誓っています。私ほど、貴方を愛している者はいない」
その言葉が、オーディンの乾いた砂漠のような心に染み渡っていった。今、麾下の軍に、シャルワーヌほど彼を信じ、愛してくれる者がいるだろうか。
……「もうとっくに、この命は貴方に捧げています。貴方の為に死ぬ以上に崇高なことが、この世にあるでしょうか」
まだ大丈夫だと、オーディンは思った。ペリエルクがシャルワーヌに投与したのは、第一の毒だけだ。第二の毒は、オーディンの手の中にある……。
心が揺らいだ。
この男を殺す必要があるのか。
だって自分は、彼を愛している……。
ベッドでの陶酔は、オーディンのためらいを助長した。
シャルワーヌの愛撫は巧みだった。
執拗で、凶暴で、獰猛で。
それなのに、オーディンの快楽を最大限に引き出してくる。またそれを最優先に、彼は動いた。
シャルワーヌの熱を受け容れ、オーディンは、ザイードに上陸してからの困難を忘れた。
タルキア軍の残虐さも。
アンゲル国の妨害も。
兵士たちの不信と不満も。
砂漠の国に上陸してから、初めて得た安堵だった。
共にありたいと思った。
この男と、ずっと一緒に……。
……。
「初めて会った時、お前は、自分には会いたい人がいると言った」
果てたベッドで、オーディンは切り出した。
どうしても避けて通れない問題を、解決しておく必要があった。
「その男について、教えてほしい」
「男」と聞いて、シャルワーヌは観念したようだった。
縷々として、語り始めた。
エドガルド・フェリシンの情報を。
彼について話すシャルワーヌは楽しそうに見えた。気のせいだろうと、オーディンは必死で自分を抑えた。
仮にも自分との情事の後だ。他の男について、彼が楽し気に話すわけがない。
何より今は、公平に判断しなければならない。シャルワーヌを生かしておくべきか。それとも……第二の毒を与えるか。
「彼は王党派の亡命貴族です。まかり間違えば、敵味方に分かれて戦う羽目になりかねない。東の国境に駐屯していた時、私は心底、そうなることが恐ろしかった」
「それで、俺の下に入ったのか?」
軽い口調でオーディンが尋ねる。
「……いいえ。貴方を尊敬し、敬愛していたからです」
返事が一拍、遅れた。オーディンは、シャルワーヌの真意を悟った。
深い絶望が襲った。相手の男というのは、エドガルドだ。オーディンにはわかっている。本人と会ったばかりだから。
愛するエドガルドと殺し合う羽目に陥るのを回避するために、シャルワーヌは、自分の下にくだった……。
この男だけは、心からの忠誠を捧げてくれたと信じていたのに。彼の献身は古風で、それゆえ本物だと、安心してこの身をゆだねていたというのに!
「彼は、お前の恋人か?」
その言葉を口にするのは、抉れるほどの苦痛を伴った。
「はい」
返事は真っ直ぐで、予断の入り込む隙は無い。
つまり自分……オーディン・マークスは、彼の愛を獲得することはないということだ。
当たり前のことだ。
自分は彼の上官だから。
愛と忠誠とは全くの別物だ。たとえ行為が同じでも、気持ちの上には、越えがたい壁がある。
わかってはいた。それなのに、さざ波のような悲しみが、心の表面を覆っていく。
自分はこの男の、何が欲しかったのか。
忠誠ではなかったのか。献身、命がけの尊敬、それから……。
愛?
まさか。
「君は、その男の初めてだったのか?」
オーディンが問うと、シャルワーヌの目尻に笑みが浮かんだ。
「まさか。多情な男です。けれどそこが、彼の魅力でもある。彼の初めては、士官学校の同窓生だったそうです。彼は今でも、2つ年下のその男のことを愛しています」
エドガルドが、愛している?
まだ、今でも。この自分を。
オーディンの胸が、とくんとなった。
「士官学校? 王立のか?」
「はい、彼は、首都シテの、王立士官学校を出ています。革命前は、私と同じ王の将校だったのです」
「偶然だな。シテの士官学校だったら、俺も在籍していた。そいつの年齢はいくつだ?」
「29歳です」
撃てば響くように答えが返ってくる。恋人のことなら知らないことはない、とでも言いたげじゃないかと、オーディンは苦々しく思った。
早く話を切り上げたかった。
「その男は、俺より2つ上だが……」
意味ありげにオーディンは言葉を切った。
自分はその男より2つ下だ、とは言わなかった。たとえ言葉の上だけであろうとも、誰かの下になるなど、まっぴらだった。
「さては、エドガルド・フェリシンだな」
最大限に溜めてからその名を口にすると、シャルワーヌは心底驚いたようだった。
「まさか……、まさか、貴方が……?」
うっすらとオーディンは笑った。
「世間は狭いな。まさかお前の『男』が、俺の『初めて』だったとは」
初めてオーディンを組み敷いた男。
彼を「女」にした男。
未だに自分のことを愛しているとぬけぬけと言ってのける男……。
そして、そんな男を愛していると言ってはばからないシャルワーヌ・ユベール。
この瞬間、彼の運命は決まったようなものだった。
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