裏通りの家
シャルワーヌになんか会わない。
すぐに大宰相軍が攻めてくる? 知ったことか! 俺には関係ない。
くるりと踵を返し、歩き出そうとした。
……シャルワーヌは今、どんなところにいるのだろう。
上ザイードの屋敷とは程遠い、港町イスケンデルの裏通り。その外れの、ひと気のない埃っぽい一画。
ハーレムにいた少女、マーラが招いてくれたような、薄暗くひんやりとした家なのだろうか。だったら、あの男に合わない気がする。彼にはもっと、賑やかな明るい家がふさわしい……。
……何を考えているんだ、俺は!
俺は、王党派の亡命貴族だ。革命軍将校とは、初めから相容れない。
俺と彼との間に何があろうが、たとえそれが愛であっても、今は敵同士だ。その上、自身も貴族であるシャルワーヌは、オーディンの庇護がなければ生きていけない。オーディンと特別な関係を結んだあいつには、俺は邪魔なのだ。
シャルワーヌのことなんか、どうでもいい。一度死んだのだから、二度目の人生は、純粋に王の為に戦うことに費やしたい。
だから……。
それなのに、自然と足は前へ進み、曲がり角まで来てしまった。右へ曲がると、建物が何軒かあるのが見えた。イサクの言っていたのは、3軒目。シャルワーヌのいる家は、ここから3つめのあの……。
土づくりの建物の、すぐ脇から二人組の男が出てきた。
一人は、確か、オマリー、いや、名前なんてどうでもいい。こいつらは、キャプテン・アガの暗殺隊だ!
慌てて、近くにあった塀の陰に身を顰める。幸い、彼らに気づかれてはいない。
敷地から出てきた二人に向かい、ぱらぱらと男たちが駆け寄って来た。いずれも、アガの親衛隊のメンツだ。男たちは、道の反対方向へ姿を消した。
エイクレから馬で来た彼らは、多分、イスケンデルに到着したばかりだろう。港町で、恐らく彼らは、ユートパクスの将軍に関する噂を聞いた。暗殺のターゲットであるシャルワーヌ・ユベールが、市街地の裏通りに潜んでいると。
それを知った彼らは、マワジへ向かう手間が省けたとばかりに、ここへやってきた……。
時間的に、彼らはまだ、大宰相の駐屯地に顔を出していない。大宰相はまだ、シャルワーヌがここに潜伏していることを知らないだろう。彼がそれを知るのは、アガがイサク・ベルに疑惑を抱いてからだ。それは、イサクの言っていた通り、数日後のことになるだろう。
だからイサクは、「もう2~3日したら、タルキア軍がここへ攻めてくる」と、警告した。
だが、なんてことだ。
大宰相の軍を待たずとも、既にシャルワーヌは暗殺隊に喉元を掴まれている……。
オマリーともう一人は、家の敷地から出てきた。家の中からではない。
庭に何か仕掛けたか? あるいは、家の外壁に。
それから先は、もう、考えなかった。気がつくと、俺は、シャルワーヌのいる家目掛けて走り出していた。
飛び込んだ薄暗い家の中に、その人はいた。机の上に地図を広げていた男が顔を上げる。
「夢か?」
男は言った。
「夢じゃない。逃げるんだ、シャルワーヌ。早く!」
「夢であっても構わない。今ここにエドガルドがいる。ジウの姿をしたエドゥが。待ってくれ。消えないでくれ!」
「消えるか、馬鹿!」
暗殺隊は、かなりの確率で、この家の裏に爆弾を仕掛けたのだと思う。一刻も早くここを出なければならない。
「ああ、その罵り方! エドガルドだ。やっぱりこれは、俺のエドゥ……」
毎度思うのだが、前世の俺は一体、どういう接し方を、愛する男にしていたのか。
「俺は毎晩、砂漠の神に祈っていた。もう一度、お前に会わせてくれるようにと。革命は神を否定したが、やっぱり神はいるのだな」
「寝言を言ってる場合じゃない。行くぞ!」
言い募る俺の腕が掴まれた。もげそうなほど強く引かれる。
「エドゥ。俺のエドゥ」
信じられないほどの馬鹿力で抱きしめられる。懐かしい日向の匂い……全身の力が抜けた。覚えず、俺はうっとりした。
うっとり? 何を言ってるんだ。命が掛かっているんだぞ。それもシャルワーヌのだ!
我に返り、全力で体を引き剥がそうとした。
「愛している、愛している」
シャルワーヌがうわ言のように繰り返している。
「落ち着いてくれ、シャルワーヌ、こんなことをしている場合じゃないんだ」
「俺は充分落ち着いているし冷静だ。その上で宣言する。君がここにきてくれた。君自身の意志で。もう離さない。君は俺のものだ。俺のものだから!」
「どこが冷静だ。この馬鹿!」
突き飛ばそうとする。だが、拘束は強くなる一方だ。濃く漂う彼の香りに、軽い幻惑を感じる。
「エドゥ……」
ダメだ。焦って罵れば罵るほど、彼は陶酔してしまう。俺を抱きしめる腕に力が入るばかりだ。
「なあ、エドゥ。一緒にユートパクスへ帰ろう? 君が一緒なら、俺はなんだってできる」
「ユートパクスへ?」
思わず問い返す。
国王に従う為に亡命したが、決して、嫌いで国を出たわけではない。懐かしい祖国には、軍事学校に入る8歳まで俺を育ててくれた伯父夫婦は既に亡くなってしまったが、年の離れた従兄姉たちが暮らしている。
「ここで、船を待っていたのだ。ユートパクスはもちろん、アンゲルにもタルキアにも関係ない、第三国の商船だ。それに乗れば、どこからも襲われることない」
軍艦ではなく、民間の、しかも外国の船で帰ろうとしているのか、この男は。
上ザイードの覇者である将軍の、凱旋帰国だというのに!
「船主には交渉済みだ。今船は、商品の積み込み中でな。珍しいザイードの産物をどっさり持ち帰るのだそうだ。俺は、コーヒーを持ち帰るよう勧めた。エドガルド、君も知っているだろう? ザイードのコーヒーは天下一品だ。きっと高く売れる」
シャルワーヌは饒舌で、ひどく嬉し気だ。
「なあ、エドガルド。一緒に帰ろう。君と俺の祖国へ」
「帰ってどうするのだ?」
思わず問いかけてしまった。
だってあの国は今、オーディン・マークスの支配下にある……。
「それは、帰ってから考える」
はっと我に返った。この男は、衝動に任せて言っているだけだ。何の算段もない。下手に帰ったら、俺の居場所がないばかりか、シャルワーヌ自身まで危険に晒される。
「だから、今はそんなことを言ってる場合じゃない!」
爆弾が爆発したら、行先は祖国じゃない。地獄だ。
「シャルワーヌ将軍!」
階段が軋んだ。誰かが上から降りてくる。副官のサリだった。抱き合った(俺は逃れようともがいていたのだが、客観的に見れば、抱き合っていたとしか見えなかろう)二人を見て、目を丸くした。
「ジウ王子……いや、エドガルド・フェリシン」
シャルワーヌの副官は、俺のウテナ王子への転移を知っていた。シャルワーヌが話したのだ。
「なあ、サリ。お前も喜んでくれ。ついにエドゥが俺の元に戻ってきてくれた!」
「また逃げられないといいんですがね。私の見る所、彼は貴方から離れようと必死でもがいているようですが」
冷静に副官は指摘した。
とにもかくにも、やっと話の出来る人が出てきた。手短かに俺は、これまでの経緯を説明した。
その間も、シャルワーヌは俺のことを離そうとしなかったから、彼の腕を掻い潜っての、副官との会話だった。
「アガの親衛隊が、この家の敷地から出てくるのを目撃した。親衛隊は、シャルワーヌとワイズ将軍の暗殺の任を担っている」
驚いたサリが、のけ反った。
「なんだって? タルキアは休戦に合意したはずじゃなかったのか? リール代将が奔走してくれて」
ラルフの名を聞いて、胸がずくんと痛む。
「ラルフは
「支配?」
「全軍を捕虜にしようとしている」
「なんだって!」
サリの目に怒りが灯った。
「味方の一大事です。シャルワーヌ将軍、しっかりして下さい!」
強引に、俺を抱えた腕を引き剥がす。
「なにするんだ、サリ!」
「聞いてなかったんですか? タルキア軍の狙いは、ユートパクス軍に屈辱を与えることですよ? それに先立って、貴方の命が狙われてるんです。それから、ワイズ将軍の命も」
口から唾を飛ばして喚き立てるサリに、俺も加勢した。
「ここにいては危険だ。裏庭か建物の外壁に爆弾が仕掛けられている可能性がある」
「爆弾! 逃げましょう、シャルワーヌ将軍!」
サリがシャルワーヌの腕を掴んだ時だった。
しゅーっという音を立てて、白い煙が家の中に入ってきた。
「うわっ! 爆弾!」
サリは上官の腕を引きずったまま、慌てて外へ飛び出そうとする。
「待て!」
シャルワーヌが押しとどめた。
「外には、他にも数人の人間がいたと言ったな?」
俺を抱きしめるのに夢中で、話を全く聞いていなかった……というわけでもなかったようだ。俺は呆れ、それからなぜか、少し寂しくなった。
「ああ」
爆弾を仕掛けた二人は、外で待っていた組と合流し、立ち去った。
「この煙はダミーだ。外へ出るべきではない」
きっぱりとシャルワーヌは断じた。
「恐らく、狙撃隊が外で待機しているはずだ。今、出たらハチの巣だぞ」
さっきまでの狂乱が嘘のように落ち着き払っていた。濃い色の目が、凪いで静まっている。自分の死を外から見つめ、冷静に回避しようとする軍人の目だ。
「民家を爆破するなんて、そんな派手なことをするものか。爆弾を使える人間なんて限られているからな。俺が爆殺されたら、疑いは間違いなく、タルキア軍関係者に向けられる」
「しかし、このままではいられません……」
流れ込む煙は濃くなるばかりだ。ハンカチーフを口に押し当て、副官が激しく咳き込んだ。俺も息苦しさを感じる。無駄にできる時間はないと悟った。
「俺が先に外に出よう」
そう言うと、シャルワーヌの目が丸くなった。
「ダメだ」
計画を聞かないうちに禁じる。思わずむっとした。
「聞け。アガの暗殺隊とは顔見知りだ。ティオンからエイクレまで一緒に旅してきた」
「何だって?」
両頬に傷のある浅黒い顔に、驚愕の表情が浮かんだ。
「シャルキュ太守の部隊が一緒だった」
「シャルキュ……なんてこった! 屠畜屋のか?」
シャルキュ太守が残虐なことは、上ザイードの奥地にいたシャルワーヌにも伝わっていたらしい。
「太守は話の分かる男だ。いつだって俺の味方をしてくれる」
「エドガルド……お前、迫られたろ」
「はあ?」
この非常時に、何の心配をしてるんだ?
「答えろ。屠畜屋は、お前に手を出そうとしたよな?」
既視感を感じた。そういえば、外洋から帰って来たラルフも、しきりにそれを気にしていた……。
「出してないから」
にべもなく告げる。それどころじゃない。命の危険が迫っているというのに、
「とにかく、暗殺部隊の連中と俺は顔見知りだ。だから、家から飛び出しても、いきなり撃ったりはしないだろう」
「エドガルド……、お前、暗殺部隊の奴らにも言い寄られたな?」
「黙れ、シャルワーヌ」
ぴしゃりと彼の口を封じた。
いったい誰の為に、アガの親衛隊に身を売ろうとしたか、わかっているのか。
……もちろん、俺の方から彼らに接近していったなどということは知られるわけにはいかない。絶対に。
俺の余りの剣幕に、サリの咳まで止まった。静かになったところで続ける。
「俺が出て行けば、あいつら、呼び寄せて、事情を聞こうとするだろう。もしかしたら、家の中の様子を探ろうとするかもしれない。だからその隙に君とサリは、裏口から外へ出ればいい」
「ダメだ」
頑固にシャルワーヌが言い募る。
「君を囮になんかできない」
「大丈夫だ。うまくやる」
その時俺の頭に浮かんでいたのは、皇帝の恋人のことだった。密告されて捕まり、残酷な拷問を受けても、彼は最後まで、王子であった皇帝を庇い続けた……。
彼のように、堂々と振舞おう。結局、究極の土壇場でシャルワーヌを救えるのは、オーディンではない。俺なのだ。
そのことを、誇りに思おう。これが、俺の愛だ。報われるかどうかなんて、関係ない。
だが、シャルワーヌは強情だった。両手を広げ、再び俺を封じ込めようとしている。
「エドゥを囮にするくらいなら、俺は……、」
「サリ、頼む」
シャルワーヌを遮り、屈強な腕を掻い潜る。
サリが頷いた。
「何をする、サリ! 上官に対する反逆罪で銃殺だぞ」
「お許しください、シャルワーヌ将軍。でもこのままでは、全員、犬死にです」
じたばたと暴れるシャルワーヌの四肢を、サリが全力で押さえつける。
だが、すごい馬鹿力だ。サリでは、それほど長くは抑えつけておけないだろう。
「早く行け! 頼む!」
サリの必死の頼みに、俺は頷いた。
さっとシャルワーヌの顔が青ざめた。
「離せっ! 離せったら! ……おい、行ってはダメだ。エドゥ! エドガルドッ!」
悲痛な叫びを背に、家の外へ出た。
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