酒宴
キャプテン・アガの親衛隊が、シャルワーヌを殺しに?
……暗殺。
目の前が真っ暗になった。
……シャルワーヌ。
革命政府からの危険を避ける為、オーディン・マークスの傘下に入った男。
俺自身が遠ざかることによってしか、安全を保てない男。
「それは、皇帝の命令なのか?」
尋ねる声が掠れる。
不審そうに俺を見て、シャルキュは首を横に振った。
「キャプテン・アガがあいつらに、そう言い置いて行ったのだ。ユートパクス軍の指揮官を殺せと。イスケンデルへ向かう前に」
「では、皇帝はこの件には関わり合いがないのだな?」
「カンダーナ皇帝は知りもしないだろうよ」
深いため息が漏れた。少なくとも、皇帝はシャルワーヌ暗殺命令を出してはいない。それはとても重要に思われた。
俺にとってタルキアの皇帝は、それほど大きな存在になっていたのだ。できるなら、ずっと彼を信じていたい。彼の味方でありたい。
「父の大宰相と共に、アガは皇帝に忠実なのではなかったか」
敢えて尋ねると、シャルキュは爆笑した。
「忠実!? はっ、その通り! アガは、皇帝の命令に逆らってなんかいない。だって親衛隊のやつらは、気に食わない外国人をこっそり殺しに行くだけだからな」
それが、タルキアのやり方なのだ。
上辺だけではない。彼らの皇帝への忠誠は絶対だ。
でも、自分の正義は曲げない。
正しいと思ったことは貫き通す。
つまり……。
背筋に寒気が走った。
……シャルワーヌ。
愛が叶わぬひとであっても、俺は今でも彼を愛し続けている。
あいしている……。
◇
エイクレに到着すると、軍は散開した。ここで一晩休んだ後、暗殺部隊は、マワジへ向かうという。
その夜、シャルキュ太守軍の慰労も兼ねて、華やかな宴が設けられた。
「なんだ、エドガルド。お前は宴会が嫌いだったはずだが。自分から出てくるなんて珍しいじゃないか」
薄物を纏っただけの俺を、シャルキュはじろじろと眺めた。
「人生は短いんだ。少しは楽しまなくちゃな」
当たり障りなく応じると、シャルキュは口を歪めた。
「なら、飲め」
強引に盃を握らせ、酒をなみなみと注ぐ。
「ダメだよ、シャルキュ。俺はまだ未成年だから」
この言い訳が通用するのも、あと数ヶ月だ。
「だがお前は、エドガルドだろうが」
「体はジウだ」
「けっ、都合のいいやつめ」
シャルキュは嘲った。押し付けた盃を奪い取り、自ら飲み干す。
「別の楽しみといこうじゃないか」
好色な目で見てくる。
薄い衣は、透けそうで透けないという、絶妙の透明度を誇っている。宴席に招かれた舞姫から借りたものだ。
「君は俺を諦めたのだろう、シャルキュ」
「諦めたわけではない。譲っただけだ。なにしろラルフ・リールは必死だったからな」
急に飛び出してきたその名に、胸がずくんと痛んだ。
「お前のような男は、一刻でも一人にしたらダメなんだ。見ろ、あいつらの目を」
マワジへ向かう暗殺者たちの一団を顎で指し示す。
車座になって酒を飲んでいた男たちは、全部で6人いた。時折目を上げ、こちらを窺っている。薄い絹を透かすような目つきがまとわりついてくるのを、宴会が始まってからずっと感じている。
「平気だよ。あいつらは何もできやしない。だっていつもあんたがそばにいてくれるんだろう?」
「ああっ!」
シャルキュは頭を掻きむしった。
「今すぐお前を抱きたい。だが、
未だにシャルキュは、エイクレ戦を共に戦った
彼は、おずおずと酌をしてくれた舞姫の肩を、ぐいと抱いた。
「とりあえずはお前で我慢だ。来い!」
さらうように彼女を抱き上げ、連れ去っていく。
エイクレの長官であるシャルキュが中座し、他にも、相手を見つけた者が次々と姿を消していく中、車座の6人は、誰一人として、席を立たなかった。
俺と彼らの間にいた酔漢達がいなくなり、距離がぐんと縮まったように感じられる。
ちらちらとこちらを見ていた視線が、次第に大胆になり、露骨になっていった。嘗めるような視線に、剥き出しの方が総毛だった。
遂に中の一人が手招きした。
酒瓶を持って俺は立ち上がった。わざとよろめくような足取りで近づいていく。もちろん酒など一滴も飲んではいないのだが。
車座まで行きつくと、勢いよく、すとんと腰を下ろした。
「酔っているのか?」
中の一人が言って、馴れ馴れしく肩を抱く。
「はい、少し。お近づきになれて嬉しいです」
そっとその手を外し、相手の盃に酒を満たす。男はぐっと飲み干すと盃を投げ出し、再び俺を抱き寄せようとする。
「待て、オマリー」
別の一人が言って、最初の男を押しのけた。
「面倒は嫌いだ。最初に聞いておこう。お前はシャルキュの寵童か?」
俺は目を吊り上げてみせた。
「まさか」
「あの屠殺屋の愛人ではないのだな?」
屠殺屋というのは、シャルキュのことだ。あまりに残虐なので、二つ名がついた。
「もちろんです。彼は、とてもいい人だけど」
「いい人」のは、わざとゆっくり発音した。
一座に忍び笑いが漏れた。
「なら、構わぬだろう?」
オマリーと呼ばれた男が再び、俺に向かって手を伸ばす。
手が触れるのを待たず、俺はその男にしなだれかかった。
「あなた方は明日にはお立ちと聞きました。僕も一緒に連れて行って下さいますか?」
「おうよ」
「おい、オマリー!」
「堅苦しいことはなしだぜ。これほどの上玉だ。ゆっくり楽しませてもらおうじゃないか」
その手が、肩で止めたボタンに掛かる。これを一つ外せば、薄い絹は、腰まで落ちてくる。
息を詰め、目をつぶった。
今は何より、こいつらに信用させることが重要だ。一緒にマワジへ赴き、動向を把握することが。
俺の体には、価値なんてない。身の純潔を守ったところで、いったい誰に捧げるというのだ? 恋を失い、人の心を傷つけたこの身は、生きるにさえ値しない。
しっかりと目を閉じ、覚悟を決めた。
◇
「その手を離せ!」
雷のような大音声が轟いた。俺の服を剥ごうとしていた男が、軽く2~3メートルほど吹っ飛んだ。
そこに、シャルキュ太守がいた。屠殺屋と呼ばれている男が、怒りを滾らせて仁王立ちしている。
「あんたらは、キャプテン・アガの親衛隊だから、これ以上の制裁は加えない。だが、人のものに手を出すとは、許しがたい蛮行だ」
「この少年は、自分は太守のものではないと言ったぞ」
最後まで慎重だった男が不満そうに口を尖らせた。
「俺の物だと誰が言った!」
再び割れ鐘のような声が轟く。
「これは、大切な預かり者だ。
吹っ飛ばされたオマリーが立ち上がった。口の端に垂れた血を袖で拭う。
しかし、彼も逆らうことはしなかった。エイクレの「屠殺屋」に逆らう勇気のある者は、誰もいない。
一座の男たちは互いに顔を見合し、気まずそうにその場を立ち去って行った。
「この大馬鹿者が! 不用心にもほどがある!」
広間から人がいなくなると、シャルキュの怒りは俺に向けられた。
「太守、あんたは部屋にひきとったのでは?」
舞姫と共に彼が部屋を出て行ったのは、ついさっきのことだ。
……もう少しであいつらの仲間になれたのに。
思わずふくれっ面になる。
シャルキュは激昂した。
「こんな時に女とよろしくやってられるか! いったいお前は、何を考えているんだ? そんなひらひらした布だけで宴会場に現れるなんて! 変だと思ったのだ。いいか。あれは、アガの部隊でも指折りの荒くれどもだぞ。それなのに、酒瓶片手に全裸で近寄っていくとは!」
「全裸ではない」
「見えそうで見えないのは、全裸よりまだ悪いぞ!」
ますます怒り狂っている。
俺は、声のトーンを下げた。
「マワジに行きたかったのだ」
「マワジ?」
さすがに太守は驚いたようだった。
「エドガルド、お前、まさか……」
「あいつらに、ユートパクス軍指揮官の暗殺を止めさせたかったっ!」
叫ぶように吐き出すと、シャルキュは大きなため息をついた。
「そんなことだろうと思った。……で、どっちだ?」
「どっちとは?」
シャルキュの意図がわからない。
「決まってる。お前の想い人だ。ワイズかユベールか?」
全身の血が逆流する思いだった。
「違う!」
咄嗟に否定する。
屠畜屋の異名を持つシャルキュは、恐ろし気な眉を上げた。
「違わないだろ。気の毒なラルフ・リールは捨てられたわけだ」
「そもそもラルフとは、そんな関係じゃなかった!」
「ほう。あいつとは寝てないとでも?」
ぐっと言葉に詰まった。
「そうだろうそうだろう」
満足そうにシャルキュが頷いている。
「あの時、俺はお前の酒に
とんでもないことを明かす。
「お前がエイクレ要塞の青の間を使っていた時のことだ。心当たりはないか?」
必死で俺は記憶を手繰る。青の間を使っていたのは、俺の死の少し前、オーディンに停戦を拒絶されてすぐの頃だ。
「媚薬だと? なぜそんなことを?」
「もちろん、つれないお前を強引に我が物にする為だ。ところがそこへ、外洋からラルフが帰って来てな。やつのお前へのあまりの執着ぶりに負けて、心優しい俺は、この千載一遇のチャンスを譲ってやることにしたのだ」
すると、俺がラルフと関係を持ったのは、シャルキュのせい……。
いや、全面的に彼のせいにはできない。
当時の俺は、オーディンとの会見を経て、自分がシャルワーヌを失ったことを知ったばかりだった……。
「それなのにラルフの奴め、あっさり袖にされやがって。今のお前は、ユートパクスの将軍様に夢中だ」
再び俺は息を詰まらせた。
「違う! 俺はただ、ユートパクスとタルキアの間に戦争を起こさせたくないだけだ。それはラルフの意志だから!」
ラルフが結んだエ=アリュ講和条約を存続させるのは、俺から彼への、最後の奉仕だ。タルキアに戦闘の口実を与えるわけにはいかない。
「安心しろ。アガの親衛隊は、ユートパクスの将軍二人を暗殺しに行くだけだ。戦争を仕掛けにいくわけではない」
「同じことだ! 今、司令官を殺されたら、 ユートパクス軍は総崩れになり、収拾がつかなくなる。規律は乱れ、略奪に走る奴も出てくるかもしれない。そうなれば、タルキア軍進軍の、絶好の口実になるだろう?」
だって最初から大宰相の狙いは、ユートパクス兵を捕虜にすることだ。残酷に拷問してから処刑し、今までの仕返しをしたがっている……。
感心したようにシャルキュが頷いた。
「なるほど。そういう考え方もあるな。だが全ては神の御心だ。お前が思い煩う必要はない」
「戦争はダメなんだ! エ=アリュ講和条約は守られなければならない!」
ラルフの為に。
それなのに、みるみるシャルキュの顔が渋くなった。
「小難しいことばかり言うな。隠したって、俺には全部お見通しさ。暗殺の話を聞いてから、お前は変だった。めっきりと無口になり、人の話もろくに聞いていない。挙句の果ては、そのひらひらだ」
目顔で俺の衣装を指し示す。
「舞姫に借りたんだってな。一番艶っぽい服を貸してくれと頼んだそうじゃないか」
その時のことを思い出し、思わず両手で顔を覆った。
驚いたような舞姫たちの顔。服を渡してくれた時の意味ありげな含み笑い。立ち去る背後に聞こえた、華やかな励ましの声。
「考えてみれば、そもそもの初めからおかしかったのだ。亡命貴族のお前が、ユートパクス軍を捕虜にすることに反対するなんて」
「だからそれは、ラルフがそう考えたからで……、」
「ラルフ・リールは変人だからいいのだ。平和だか架け橋だか、あいつの考えていることは理解しがたい。だがお前は違った、エドガルド。お前は敵味方をしっかりと弁え、祖国であるにもかかわらず、決してユートパクス軍に肩入れすることはなかった。いつだってタルキア軍にとって最良の道を選んだ」
エイクレ要塞防衛戦のことを言っているのだ。
なかなかタルキア兵の信頼が得られず、俺は焦っていた。あまりよい指揮官ではなかったと思う。おまけに、戦闘の途中で死んでしまったし。
ダメな戦闘員だった俺のことを、シャルキュ太守はそんな風に思ってくれていたのか。
「皇帝に休戦を直訴しに来たというから変だと思ったのだ。ユートパクス軍を完膚なきまでに叩きのめす絶好の機会だというのに、それをフイにするような進言をしにきたなんて。だがユートパクス軍の中にお前の想い人がいると考えると、全てがきれいに治まる。お前はそいつを救うために皇帝の元を訪れたのだ」
息を求め、喘いだ。
まさか、俺はそのように考えていたのか? シャルワーヌを残虐なタルキア軍の捕虜にしたくないと、最初から俺は……。
だからラルフを説得して、
「ワイズか?」
シャルキュは言って、俺の顔色を窺った。
「なるほど。ユベールか。長らく上ザイードの奥地に入り込んでいた方だ」
懐かしい名前を聞いて心臓が跳ねた。自分の感情に動転し、必死で押し隠す。
「違う。俺はラルフの結んだエ=アリュ講和条約を反古にしたくなかったから、だから……」
ラルフの功績を守りたい。
その気持ちに嘘偽りはない。
「それならなぜ、暗殺隊と行動を共にしたいと望むのだ? その身を差し出してまで」
答えられない。
「自分を犠牲にして、彼らの仲間となり、お前は何をしようとしたのか」
追い詰められたのを感じた。
自分に対して、認めるしかない。
少なくとも俺は、暗殺を止めようとした。シャルワーヌを殺させまいとした。
けれどそれは、亡命貴族のエドガルド・フェリシンとして、正しい行いか?
だってシャルワーヌは敵将だ。オーディン・マークスに絶対の忠誠を誓っている危険人物でもある。
そして俺は、もう二度と、彼に近づかない。そう決意したばかりではないか。
暗殺部隊が必ずしも成功するとは限らない。それに、シャルワーヌを守るのは、オーディンの仕事だ。オーディンは既に帰国したとか、そういうことは関係ない。ならば、彼の残した軍が、
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