バルウードの間
シーツは、僅かに長さが足りなかった。地上まで残り数メートル、下には芝生が広がっている。
手を離して飛び降りた。
軽いジウの体は、地面の上を転がり、すぐに止まった。
体中を芝だらけにして起き上がる。幸いどこも怪我はしていないようだ。体重が軽いのが幸いしたのだろう。
自分では派手な脱出だと思っていたが、間に植え込みがあったせいで、兵士の一団には気づかれていない。
ほっと息をついた時、猛々しくラッパの音が鳴り響いた。
続いて、不思議な調べの音楽が流れだす。軍楽隊の行進曲だ。
無秩序に広がっていた軍は、曲に合わせて行進を始めた。美々しく旗をひらめかせ、門に向かって進んでいく。
軍歌なのにもの悲し気なその節回しは、どこかで聞いたような調べだ。皇帝が奏でていた曲と雰囲気が似ている。
「シャルキュ太守!」
目の前をその人が通りかかった時、俺は馬の前に進み出た。
馬が前足を上げ、斜めになった鞍から、シャルキュは俺を見下ろした。
「誰だ、お前は!」
「お願いだ。俺を一緒に連れてってくれ」
冷たい目が見下ろす。
「どうした、詰まってるぞ」
遥か後ろから誰かの声がする。
俺は息を詰めた。太守にここで騒がれたらおしまいだ。俺は宮殿へ連れ戻されてしまうだろう。
無断で出て行こうとした俺を、皇帝は許してくれるだろうか。
「なんでもない!」
後ろを振り返り、シャルキュ太守は大声を出した。
「モグラが出てきただけだ」
「なんだモグラか」
俺を見下ろし、太守はひとり言のように続ける。
「モグラというより、子ウサギだな。随分愛らしいウサギだ」
次の瞬間、俺は鞍の上に引き上げられていた。手綱を握ったまま、シャルキュ太守が片手で抱き上げたのだ。
「軍を止めるなど、不届きもいいところだ。お前の命は俺の手の中だということを忘れるな」
俺の喉には、刃渡りの広い短剣が当てられていた。
エドガルド・フェリシンであると名乗っても、シャルキュ太守は、全く動じなかった。
皇帝もそうだが、タルキアの人には、独自の死生観があるようだ。輪廻転生もそのひとつで、俺がウテナの王子に転移したと聞かされても、彼は全く動じなかった。
短剣が喉から外された。目の端で見上げると、太守は全くの無表情だった。
激しく揺れ動く馬の背で、シャルキュ太守の腕に抱えられたまま、今までのことを簡単に話す。
新たに転移した体は、ウテナの王子のものだったこと。彼は、上ザイード駐屯のユートパクス軍の捕虜だったこと。
そこから単身、イスケンデルの港に出てきたこと。
そしてラルフに再会したこと……。
「そうか。ラルフ・リールに会ったのか」
俺を抱くシャルキュ太守の腕に、わずかに力がこめられた。
「やつは今、どこにいる?」
「アンゲルへ、抗議に行っている」
アンゲル政府はタルキア軍に、ユートパクス軍を捕虜にする許可を与えた。それに対し、祖国へ抗議に行ったのだと説明した。
「抗議か。ははは、あの男らしい」
乾いた声でシャルキュは笑った。
「だが、こっちはいい迷惑だ」
「迷惑?」
「徴兵に応じて、せっかく都まで出てきたというのに、獲物も得ずして引き返すとは!」
「獲物というのは……?」
「決まってるだろう? ユートパクス軍が貯めこんだ財宝よ。下ザイードではあいつら、略奪し放題だったからな」
オーディン直下の部隊の仕業だ。シャルワーヌ治下の上ザイードでは、略奪行為は厳しく禁じられていた……。
「ところでエドガルド、お前はなぜ、タルキアの宮殿にいたのだ?」
シャルキュが何のためらいもなく俺をエドガルドと呼んだのに驚き、感激さえした。
「俺をエドガルドと認めてくれるのだな?」
「もちろんだ。俺は今、お前を抱きたいと思っている」
行軍する馬の背で、しっかりと抱かれたまま言われたのだ。思わず俺はぎょっとした。
臆面もなく、シャルキュは続ける。
「元来、俺は女が好きだ。男なんてお呼びじゃない。だが、かつて抱きたいと思った男が、一人だけいる。エドガルド・フェリシンというユートパクス人だ」
「それは……」
光栄だと言うべきか。
「彼は死んだ。ところがエドガルドと同じように、ひどく欲望を掻き立てる少年が現れた。つまり、彼と同じだということだ。魂が」
物凄い超絶理論、理解しがたい三段論法だ。
もう、呆気にとられるしかない。
髭面の太守はにたりと笑った。
「そういうことだ。俺は今、お前を抱きたいと思っている」
揺れ動く馬の背の上で、背中をがっちりホールドされたまま、耳元で囁かれ、俺は頭を抱えた。
「勘弁してくれ」
「勘弁? 何言ってんだ。俺は人生最大限の譲歩をしたんだぞ。リールのあまりの熱意に根負けして、君を譲ってやったじゃないか」
「熱意? 根負け?」
何のことを言っているのだろう。
今の俺には、ラルフとのことを言われるのが一番辛い。恐らく俺は表情を強張らせたと思う。
そんな俺を見て、何を思ったか、豪快にシャルキュは笑い出した。
「俺は、あいつに対して、少しも根に持っちゃいないぜ。だが、この俺が譲ってやったのだ。転生したお前と再会できたというのに、一人で外へ出すとは、怪しからん」
「は?」
益々以てわけがわからない。きょとんとした俺を見て、シャルキュはますます愉快そうに笑った。
俄かに真剣な表情になった。
「俺の質問に答えろ。なぜ、宮殿にいた?」
タルキアの皇帝に、ユートパクスとの戦闘を思い留まらせに来たのだと、俺は答えた。
「なら、皇帝に帰りの船を借りればよかったじゃないか」
「それが、帰還の許可が下りなくて……」
言葉を濁すと、シャルキュはにたりと笑った。
「さては気に入られたな。さもありなんだ。それにしても、皇帝はよく、お前を手放したな」
「窓から出てきたんだ」
「窓から?」
「練兵場のすぐ上の……」
途端に、シャルキュは俺を突き放すようなしぐさをした。体に密着していたのを少し距離を置き、まじまじと俺の顔を見つめた。
「なんと、お前は、バルウードの間から逃げ出してきたというのか?」
「バルウードの間?」
「皇帝の私室だ」
「いや、あれは客間だと思うぞ?」
「皇帝の部屋だ。あの棟の部屋は全て」
「……」
「中でもバルウードの間は、皇帝の気に入りの者でなければ使うことが許されない。皇妃でさえ、入室を禁じられているんだぞ」
「……」
「そこから逃げ出して来るとは……」
手綱を緩め、シャルキュは頭を掻きむしった。
「俺を宮殿に連れ戻すつもりか?」
不安になって思わず尋ねた。シャルキュのことは信頼している。でも、皇帝への忠誠は、また別なのかもしれない。
「いや、このまま連れて行く」
バルウードというのは、タルキアの伝統的な弦楽器のことだと、シャルキュは教えてくれた。皇帝が奏でていたあの不思議な音色の楽器のことだろう。
皇帝が気に入りの楽器の名を付されたその部屋は、まさしく、彼が寵愛する者の為の部屋だった。
感慨深げにシャルキュが頭を振っている。
「運のいい奴め。バルウードの間に監禁されて、生きて外に出て来れたとは」
俺は少し、むっとした。
「監禁ではない。それに皇帝は、俺に何もなさらなかったぞ」
「ほう、そうか」
シャルキュは全く信じていないようだ。
「別に恥ではないぞ、タルキアの皇帝に抱かれるのは」
「だから、何もされてないってば! するわけないだろ。俺はアンゲルの大使だぞ?」
「関係ないさ、そんなこと。気に入れば、必ず手に入れる。タルキアの皇帝とは、そういうものだ。そして手に入れた愛人は、バルウードの間に封じ込まれ、永遠に外に出ることはできない」
「永遠に?」
「死ぬまでってことさ」
豪奢な部屋で死ぬまで監禁される……ぞっとした。
「だから、逃げてきて正解だったのだ、エドガルド」
その時俺は、つい最近、皇帝がしてくれたおとぎ話を思い出した。
ある騎士が、迷宮の果ての宮殿で、美しい王子からもてなしを受ける。しばらくは供応を楽しんでいた騎士も、少しすると祖国が恋しくなった。帰国を願い出た騎士を、王子は泣きながら許した。だが、祖国に帰り着いた騎士は、自分の両親もきょうだいも、知り合いの誰一人としてそこにいないことに気づく。騎士が王子のもてなしを受けている間に、何百年という年月が流れ、騎士の知り合いは全て死に絶えていた……。
「まさか、何百年も経ってはいないよな?」
「何を言っているのだ?」
「いや、なんでもない」
単なるおとぎ話だ。この話をしてくれた皇帝にも失礼だ。
「昔、皇帝がまだ王子だった頃、あの皇帝には、男の恋人がいてな」
シャルキュが話し始めた。
「極秘の関係だったのだ。けれどどこからかその秘密が漏れて……、恋人は殺された」
「なんだって!?」
男同士の関係だ。二人の関係は神に逆らう行為と見做されたのだ。皇帝が王子だった頃というから、十数年も前のことだろう。
暗い声でシャルキュは続ける。
「投石の刑だ。砂に首まで埋められて、頭部めがけて石を投げつけられて殺される。惨たらしい死刑だよ。その前に、ひどい拷問も受けていた。けれど彼は、死ぬまで相手の名を明かさなかった」
最期まで王子……未来の皇帝を庇って、恋人は死んだ。
……「生きていることが、なにより大切なのだ」
低く囁く皇帝の声が耳元に蘇る。この言葉を口にした時、どんな気持ちだったろう。
落ち込んだ俺を慰めようとして、彼は、自分の心を立ち割ってくれたのではなかろうか。昔の傷を抉ってまで、俺に何かを伝えようとしてくれた……。
「大方、兄弟の誰かが密告したのだろう。即位しなければ自分が殺される運命だから。ライバルを斥ける為に、手段を選ばないのだ」
皇帝もそんな話をしていた。あの時彼は、自分の御代に、タルキアの古き悪しき習慣をなくしたいと言っていた。
彼の決意には、兄弟同士の血で血を洗う殺し合いの他にも、己自身の悲恋もあったというのか。
「バルウードの間に監禁しておきながら、お前に何もしなかったというのは、恐らくそういうわけだろう」
「そういうわけ?」
「皇帝は、まだ愛しているのさ。自分を庇って死んだ恋人を」
「似ているのか? 俺はその人と」
俺に死んだ恋人を投影し、手元に置こうとしたのか? 宮殿に閉じ込め、見張りをつけ、決して外へ出すまいと。
けれど、今でも残る、死んだ恋人への愛惜から、直接的な行為に及ぶことをためらった……。
「さあ、知らねえ。俺は見たことがないからな」
シャルキュは肩を竦めた。
「ただ、思い出すんだろうよ、そいつのことをさ。お前を見ていると。皇妃や側室も含め、皇帝に命がけの愛を捧げたのは、その男だけだろうから」
……命がけの愛。
死の淵に臨みながら、決して、恋人の名を口にしなかった。
……それほどの深い愛を。
胸に刺さった。
俺は、愛する人を庇って死ねるだろうか。
それ以前に、彼は俺の気持ちを喜んでくれるだろうか……。
港の近くで、軍は二手に分かれた。
船で出航する組と、陸路をいく組と。
シャルキュ太守の馬は、陸路を辿り始めた。
「船の連中は、グレルシアへ帰っていくのだ」
馬を進めながら、シャルキュが言った。
「では、陸路組は、何処へ行くのだ?」
今、彼の馬が進んでいる方角は、グレルシアとは反対方向だ。
「ああ? 俺達は、エイクレへ帰るのだ。なにしろ、ユートパクスのやつらに要塞を破壊されてしまったからな。再建には時間がかかるのだ」
陸路組の兵士の大部分が、自分の手勢だと、誇らしげにシャルキュは言った。
「あの男たちは?」
重ねて尋ねた。シャルキュ軍の他にも、騎馬兵が6人かいた。派手なこしらえのシャルキュ軍とは違い、この連中は、地味な身なりをしていた。軍服を着た者は一人もいない。
「ああ、キャプテン・アガの親衛隊のことだな。もちろん、彼らはマワジへ向かうのだ」
「マワジ? ザイードの首都へ、なぜ?」
嫌な予感がした。
タルキア軍がイスケンデルに集結している……。ラルフからの警告をシャルワーヌが順調に届けていれば、今頃、ユートパクス軍は、首都マワジに立て籠っている筈だ。
シャルキュは眉を上げた。
「決まっているだろう? ユートパクスの指揮官を暗殺しに行くのさ。総司令官のワイズと、やつの右腕の、ユベールとかいう将軍を」
息が、止まった気がした。
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