亡命貴族の忠誠
その日から、自由は奪われた。
常に見張られている気配を感じる。部屋のどこかにのぞき穴があるのだと思う。
それまで通り、部屋を出ることはできる。しかしどこへ行くにも、衛兵がついてくる。
今までと変わらず、皇帝は、足繁く、通ってきた。相変わらず、異国の珍しいおとぎ話を語り、変わった形の楽器を奏でる。時に俺の手を握り、唇の端を指で撫でたりする。まるで、ペットか何かにするように。
それ以上、彼が何か仕掛けてくることはなかった。先夜のあれだって、キスなんかではなかったのだと、改めて思う。過呼吸を止めてくれただけだ。だって皇帝は全く平静だったし……。
それにしては、もう少し別のやり方があったのでは? と思わないでもないが。
だが、かりにも一国の皇帝だ。すでにご結婚もしておられるし、側室も多く抱えていらっしゃる。
皇帝は、国を変えていくとおっしゃったが、今はまだ、タルキアでは、表立っては同性同士の恋愛は禁じられている。
男である俺に、性的な意味で、皇帝が手を出すなどということが、あるわけがない。
タルキアの皇帝の、ある意味、献身的ともいえる看護の元で、けれど、俺の気持ちは最低辺まで落ちていた。
愛する男を、かつて愛した男に奪われ。
そうしてできた心の傷を、自分を大切にしてくれる人に己の欲望をぶつけることで、埋めようとした。
俺は、最低だ。
疑いもなく、人間の屑だ。
なぜ生きているのかわからない。
そうだ。
俺は死んだのではなかったか。
エイクレ、あの砂漠の要塞で、他ならぬオーディン・マークスからの砲撃を受けて。
死は、救済であるのかもしれなかった。オーディンは、俺に休息を齎してくれたのかもしれないのに。
シャルワーヌへの執着を断ち切り、彼を
何より、俺自身にとって、死は、深い安らぎだ。
もう、何も考えなくてよいのだから。自分を責め続けなくてもいいのだから。
なのに、生き返るなんて。
ジウ……健気な異国の王子の体を奪ってまで、なぜこの時間、この世界に蘇ってしまったのだろう。
異国の調べが突然止んだ。思慮に富んだ黒い瞳が見つめている。
「生きていることが、何より大切なのだ」
「なぜ陛下がそのようなことをおっしゃるのか、全く理解できません」
俺のことなんか、何も知らないくせに。
傲慢で身勝手で、平気で人を傷つける、悪魔よりもまだ非道な人間だというのに!
「そなたが死んだら、泣く者がおろう」
亡命時代からの仲間のビスコやラビック、ラルフの相棒のルグラン、
そして、決して泣くことはなかったが、誰よりも悲しんでくれたラルフ……俺が最期まで受け容れなかった男。
「彼らは騙されているのです。俺は、罪深い人間です」
必死の告白だったのに、皇帝は微笑んだだけだった。
「人とは罪深いものだ。人から欲や本能、悪意を拭い去ってしまったら、何も残らぬものよ」
「陛下は、俺の本当の姿をご存じないのです」
勝手なことを言わないでほしかった。東と西の狭間の国の叡智など、くそくらえだ。俺が生きるに値しない人間であることは、どうしようもない事実だ。
「さよう。朕としては、そなたがずっとここにいてくれればそれでよい。思い煩うそなたは……また一段と美しい」
白く長い指が伸びてきて、頬をかすった。
「シャルワーヌ・ユベール。ラルフ・リール。そしてオーディン・マークス」
息を飲んだ。
俺はいつ、オーディンの名を口にした?
ユートパクス軍最高司令官の名を。
クーデターを起こし、その国を掌握した者の名を!
熱に浮かされ、その名を口にしてしまったのか……。
タルキアの皇帝は平然としている。
「皆、過去の男達よ。そなたの前世を汚した男たちだ。彼らはいずれも、これから先、永遠にこのタルキアに足を踏み入れることはない」
「過去などではありません!」
今も彼らは同じ世界に存在し、敵対し、あるいは絶対的な献身を誓っている……。
「そなたは生き返ったのだ。無垢で清浄なウテナの王子に。ならば新たな生を生きればよい」
「そんなことはできません!」
「なぜ?」
決まってる。俺は……。
だが、続きが出てこない。頭が真っ白になり、言葉を失った。確かにあったはずの強い意志が、意識に浮んでこない。
代わりに皇帝が口を開く。
「そなたは恋を失った。これ以上、誰かを傷つけたくないと思っている」
その通りだ。
俺がこの命を賭しても欲しかった恋は、もう二度とこの手には戻ってこない。
いや、この手で触れてはいけないのだ。
それが、あの男、シャルワーヌを守るたったひとつの道だ。
再び皇帝の指が伸びてきた。口の端を押し、唇の形をなぞる。何度も何度も。
音楽を愛する皇帝の繊細な指の感触は、触れられるだけで陶酔を誘う。
頭の芯が痺れた。
「そなたは生まれ変わった。今では全く別の人間だ。もうよいではないか。自分にかけた呪縛を解き放つのだ。タルキアは、東と西の要、麗しの国ぞ。再び与えられた命を、なぜ、楽しもうとせぬ?」
そうじゃない。
俺は思った。
人生は、楽しむにはあまりに短い。
俺にはやらねばならぬことがある。
神聖で大切な、何世代にも亙って一族に受け継がれてきた……、
目の前が翳った。
唇に唇の感触が重なる。
かぐわしい潤いが、かさついた心にまで染み渡っていく。
「そなたは、いつまでもここにいるのだ。ここは桃源郷。永遠の都、ティオン」
けれど、俺にはあった……、
……はずだ。
とても重要な……
命を賭けて……
あった……はず……、
……。
◇
為すべき神聖な務め。
異国の王子の体を乗っ取ってまで、生き返った理由。
たったひとつの生存理由。
再びそれが意識に上って来たのは、健康が回復してきた頃だった。
催淫剤を使われたショックがまだ抜けきらぬうちに、香の自白作用で強引に前世の記憶を蘇らせた。そのせいで俺の精神は混乱し、根幹から揺すぶられた。
精神だけではなかった。弱いジウの体は、心の揺れに対応しきれなかった。
発熱、頭痛、倦怠感。
それは、心の状態にも悪く作用し、俺は、かつてないほど絶望の底にいた。
しかし、タルキアの穏やかな天候と豊かな食べ物が、次第に、体に健康を取り戻させてくれた。
なにもしない……本当に何もしない日々は、怠惰ではあるが、健康を取り戻すには必要だったようだ。
体が元に戻っていくにつれ、落ち込んでいた気分も上向いてきた。
俺にはやらねばならぬことがある。
俺はエドガルド・フェリシン。
亡命貴族だ。
俺には使命がある。ユートパクスを王の手にお返しするという、神聖な任務が。
国賓のもてなしとかで、数日間、皇帝の訪れが途絶えた。
不思議な音楽やおとぎ話、そして今ではすっかりなじんでしまった愛撫から解放され、今後について考える余裕が生まれた。
シャルワーヌやオーディン、ラルフのことを全く考えなかったといったら、嘘になる。
けれど、そもそも彼らとの出会いは、軍務と亡命、そして戦いの中で培われたものではなかったか。
ならば、再び戦いの渦に飛び込むべきだ。少なくともここで何もしないでいるより、道が拓ける気がする。
シャルワーヌ。
ラルフ。
二人との決定的な別れに繋がるだけだとしても。
以前所属していたデギャン元帥の軍に戻るのは難しいと考えた。ウテナ王子の姿では、亡命貴族軍とうかつに接触できない。もし万が一、スパイだと疑われたら、その場で射殺されてしまう。それにデギャン元帥軍は既に、東の国境にはいない。北のツアルーシに移動したと聞く。
ユートパクスでは、革命政府のあまりに過酷な課税や徴兵に、海に面した西の国境で民衆の騒乱が起きていた。反乱軍は王党派と結びつき、しきりとゲリラ戦を繰り広げている。
そこを目指そうと思った。
その前に、一度、リオン号へ帰らねば。アンゲルへ行ったラルフも、そろそろ戻って来る頃だ。彼と会って、きちんと別れを告げなければならない。
前世と同じで、彼に心は与えられない。俺の心はシャルワーヌのものだ。けれど、体だけの関係を続けるなんて、それは傲慢が過ぎる。
だってラルフが望んでいるのは、そんな関係じゃない。
たぶん。
でもそれは、不可能なのだ。俺が愛しているのは、今も変わらず、シャルワーヌただ一人なのだから。
シャルワーヌをオーディンに託し、もはや彼に会うことがないとしても、俺の思いは変わらない。
シャルワーヌをラルフに挿げ替える。そんなことができるわけがない。第一、ラルフに対し、失礼だ。
ラルフには誠意を示さなければならない。俺を忘れ、新たな出会いに身を委ねること。それこそが彼の幸せに繋がると信じている。
なのに、出立の許可が得られない。皇帝に奏上しても、例のあの、曖昧な笑みで躱されるだけだ。
なおも許可を願い出ると、手を握られたり、唇を撫でられたりする。
決して不快ではないのだが、愛してもいない男性からそのようなことをされて、嬉しいわけがない。しかしまさか表立ってその手を払うわけにもいかず、困り果ててしまう。
すると皇帝は、静かに身を引き、何もなかったかのように、昔話を始める。
それの繰り返しだ。
おまけに、部屋を出ることさえ、一人では許されない。これでは、こっそり逃げ出すことさえできそうにない……。
◇
にわかに内庭が騒がしくなった。窓からのぞくと、大勢の人馬が集められている。
美麗な衣服をはためかせ、宝石で縁取られた鞍や剣の鞘が日光に眩しく輝いている。
戦場へ向かう猛々しさはなかった。どうやらキャプテン・アガの軍が、帰っていくらしい。皇帝の鶴の一声でイスケンデル派兵が中止され、
窓から身を乗り出すようにして外を覗いていた俺は、その中に、見覚えのある人物がいるのに気がついた。
一際派手な衣装に身を包み、腰に豪奢な剣を帯びている。華麗な拵えとは打って変わった冷たい目、残忍そうな口元。
実際彼は、タルキアで有数の残虐な人物だ。
「シャルキュ太守!」
エイクレ要塞の総司令官で、この地方の長官でもあった男だ。
彼の率いるタルキア軍と共同でアンゲル軍は、オーディンのユートパクス軍と戦い……俺は死んだ。
捕まえた捕虜を、ラルフの隙を見て血祭りにあげ、味方のタルキア兵でさえ勇気に欠ける奴は首を斬り落とす。
シャルキュ太守ほど荒々しく恐ろしい人物は、タルキアにもそうはいないと思われる。が、一方で、彼ほど話のわかる、懐の広い司令官も少ないと思う。ラルフに通じる破天荒なところのある太守は、タルキア大宰相からの命令にもしばしば逆らい、独自の作戦を貫いていた。
彼なら俺を、この宮殿から連れ出してくれるかもしれない。
幸い、皇帝はいない。部屋を出るなら、今だ。だが、ドアの外には衛兵がいる。
部屋の中を見回した。シーツが使えそうだと思った。あと、ベッドの天蓋から垂らされた、無駄に豪奢な布も。
この部屋は監視されている。
わざとふらふらとベッドに近寄り、布団にもぐるとみせかけて、部屋の隅へ向かった。
壁に張り付くようにして、戸棚の際へにじり寄った。果たして、そこには、小さな穴が開けられていた。その穴を塞ぐように、ハンカチーフをねじり込む。
のぞき穴はあと三つ。
同じように死角を移動し、その全てに布を詰め込んだ。
衛兵たちが、のぞき穴の異常に気がつくまでが、勝負だ。
俺はシーツを捩じり、その片方をベッドの足にしっかりと巻き付けた。
反対の端を窓から落とす。
幸い、庭の兵士らには気づかれていない。彼らが上を見上げるのが先か、見張りの衛兵が駆け込んでくるのが先か。
いずれにしろ、残された時間はあまりない。捩ったシーツを頼り、俺は、窓から外へ身を乗り出した。
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