安らぎの息吹/触れるだけのキス


 不思議な形をしたランプの蓋を持ち上げ、薬師は香木を載せた。薄く削がれた木片は熾火に焙られ、間もなく得も言われぬ香りを部屋中に漂わせ始めた。


 うずまるほどのクッションに身を沈め、静かに目を閉じた。


 部屋の中にいるのは、俺の他には「安らぎの息吹」に耐性のある薬師だけ。タルキア語でなければ、薬師には通じない。

 俺は安心して、無意識の広大な海原へと彷徨い出て行った。

 ……。



 辺りの様子ががらりと変わった。

 オーディンの側近達は退出し、俺は彼と二人きりになっていた。

 学生時代そのままに彼は身を投げ出し、俺は彼を受け止めた。


 「今でも俺が抱けるか?」

 長いキスの後、やっと互いの唇が離れると、彼は尋ねた。

「すまない、オーディン」

 俺が答えると、深い失望の色が浮かんだ。

「お前が俺を拒むなんて」


 年月を経て、オーディンはなお、魅力的だった。けれど、絆されるわけにはいかない。


「俺には、大切な人がいるんだ。彼を裏切ることはできない」

「大切な人?」


 怪訝そうな顔。もう少しで嫉妬に発展しそうなその顔を、俺はかわいいと思った。


「彼は君の軍にいるよ。今回のザイード遠征にも参加している」

「誰だ、そいつは」

「言えない」


 万が一にも、シャルワーヌに累の及ぶようなことがあってはならない。オーディンは彼の上官なのだから。シャルワーヌの生殺与奪件は、オーディンが握っている。

 シャルワーヌと、ここまで戦うことなくこれたのは僥倖だった。その幸運がいつまで続くかわからないのだが。


「なぜ、ザイードにいるとわかった?」

 オーディンはしつこかった。


「新聞で読んだ」

簡単に答える。


「タルキア遠征には参加しているのか? ここ、エイクレ包囲戦には従軍しているのか?」

 せっかちにオーディンが質問を重ねてくる。かつて愛した人に嘘をつく気はない。

「彼は、エイクレには来ていない」


 オーディン軍本体と離れ、シャルワーヌ師団は遠く上ザイードに駐留している。それが、タルキアでのラルフの任務に参加し、「リオン号」に乗り込む上での、最大の安心材料だった。

 オーディンの目の色が変わった。


「品位ある侵略者。公正な配分者」


 低い声が漏れる。

 俺の恋人が誰であるか悟ったのだ。


 しばらく沈黙が続いた。


 最初に口を開いたのはオーディンだった。

「渡さない」

 その声は醜くしゃがれていた。

「オーディン?」


 甘い雰囲気は消し飛び、オーディンは険悪な表情を湛えている。触れれば即、焼き殺されそうな憎悪が放たれていた。その憎悪は、真っ直ぐに俺に向けられている。


 突然の変化に戸惑った。さっきまでキスをねだっていたのに、なぜ? わけがわからない。俺は何かオーディンを怒らせるようなことをしたか?


 青い目を憤激で震わせ、オーディンは俺を睨みつけた。

「シャルワーヌ・ユベールだ。彼は、俺のものだ。お前には渡さない」



 はっと飛び起きた体を、薬師の手が抑えつけた。

 暴れることを予想していたのだろう。いつの間にか両方の手足は、しっかりと拘束されていた。

 原始のままの荒っぽい感情がこみ上げ、俺は獣のようなうめき声を上げた。

 温められた滑らかな金属が、鼻の下に宛てがわれた。立ち昇る煙を吸い、咳き込む。

 頭に靄がかかった。次第に意識が薄れていく。



 「彼は、俺のものだ。お前には渡さない。もし、誰かに渡すくらいだったら……」

 呪わしい声が頭蓋に響く。

 「俺が殺す」

 「オーディン!」

 驚きに声が裏返る。


 ……彼?

 ……シャルワーヌだ。

 ……オーディンのもの?

 ……殺す!? オーディンが、シャルワーヌを!?


 肺腑の奥からから悲鳴が迸った。

「オーディン! オーディン!」

 血を吐く思いで、ひたすらにその名を呼び続ける。



 薬師の声が短い叫びが聞こえた。再び香り立つ煙を吸わされた。



「お前は彼を忘れるんだ。思い出すことさえ許さない。彼は俺に絶対の忠誠を誓った。その誓いは、破られることはない」

 薄れゆく意識中、悪魔のようなオーディンの声が響き渡った。

「シャルワーヌ? やつは俺を愛しているさ。お前ではなく。さもなければ、あんな風に俺を抱いたりしない。余裕をなくし、必死で、一刻の猶予もなく。いいか。あいつが欲しているのは、もはやお前ではない。この俺なのだ」

 ……。





 「記憶を取り戻したと聞いた」

 とめどなく涙を流す俺の横で、タルキアの皇帝は言った。

 「……」


 喉を鳴らす。それしかできない。

 たとえようのない悲しみが全身を覆う。


 シャルワーヌ……。

 オーディン。

 シャルワーヌがオーディンを。

 愛していると。

 俺ではなく。

 オーディンを……。


 「なぜ泣くのだ?」

不思議そうな声が降って来る。

「愛を、盗まれました」

喉の奥の塊を押しつぶし、やっとのことで答える。

「愛を? 誰に?」

「昔好きだった男に。愛していた男に」

「わからぬな」

皇帝は首を傾げた。

「恋とは、盗むことができるものなのか?」


答える気力もなかった。


「これを、外してください」

俺の手足は、拘束されたままだ。暴れたせいか、拘束具の当たっている箇所がすれて痛い。

「もう、帰らなければ」

「帰る? どこへ?」


 改めて問われ、はっとした。

 ラルフの元へ帰っていいのか?

 俺は彼を、騙したのではなかったか!?

 彼に誤解させ、希望を持たせ、でもそれは、真実の愛ではない。

 ……。

 身の置き所もない。そんな俺を、高い位置から、皇帝が見下ろしている。


「ひとつだけ、聞きたいことがある。前世のそなたは、ラルフ・リールと関係を持ったと聞いた。それは、恋を盗まれた前なのか? 後なのか」

「……後です」


 なんてことだ。

 オーディンに敗北を認め、俺はラルフに身を任せたというのか?

 ラルフの愛を利用したというのか。

 シャルワーヌを奪われた悲しみを、ラルフの愛で癒そうとした……のか?


 手足の拘束具が外された。


「……真っ赤じゃないか」

俺の手首を検め、皇帝がつぶやく。

「足も……おお、皮がむけてしまっている! 酷く暴れたと聞いた。だが、こんな風に扱っていいとは、朕は言っていない。薬師には罰を与えなければならない」


 手元のベルを取り上げようとする。慌てて止めた。


「いいえ、あの人は、私の安全のために手足を拘束したのです」

「だからといって、傷つけていいわけではない。あやつには、相応の刑を与えねば。石投げの刑か、斬首か首吊りか」


「おやめください!」

喉の奥から悲鳴が漏れた。

「お願いですから、陛下。もう、これ以上……」

 収まりかけた涙が、右目からほろりと落ちた。続いて左の目からも。

「……俺の為に、……誰かを傷つけないで」


「泣いているのか?」

黒い眼が、食い入るように俺を見ている。

「そなたは、自分を傷つけた者の為に、罪深い悪人の為に、涙を流すというのか?」

「罪深いのは、俺です。俺は、……大切にしてくれた人を、き……、傷つけ、た……っ、」

 最後の方は、嗚咽に紛れてしまう。皇帝の手がベルから離れた。

「わかった。薬師を罰するのは止めよう。だが、正直に話してくれ。よいか?」


 俺は頷き、恭順を示す。満足そうに皇帝は頷いた。俺の手を取り上げ、優しく甲を撫でる。


「そなたが傷つけたというのは、ラルフ・リールのことか?」

「はい。それと、昔の恋人も」


 オーディンの名を出すことは辛うじてとどまった。敵国の皇帝に、ユートパクスの最高司令官の名前を出さなかったのは、それは、幽かに残っていた少年の日の恋情の名残りだったのだろうか。


 ……でも彼は、俺からシャルワーヌを奪った。


 タルキアの皇帝は執拗だった。

「そなたが、そやつらを傷つけたと思う理由を述べよ」

「私が、たった一人の男を愛したからにございます」

「そなたが愛した男とは、シャルワーヌ・ユベールか」

「はい」

「それなのに、愛を盗まれたと?」


 答えられなかった。

 あまりに辛すぎる。昔の恋人に、最愛の男を盗まれるなんて。


 「傷つけられたのはそなたではないか。ほら、涙をこぼして泣いている……」

 砂漠を統べる皇帝の、乾いた声が言う。


「陛下。は、シャルワーヌを殺します」

「殺す? 奪っておいて殺すのか?」

にはその力があるのです」

「だが、……それは愛ではないな」

「……愛では、……ない?」

「そうだ。愛していたら、殺したりはせぬ」


 慈愛深い声に、耐えきれず、わっと泣き伏した。


「皇帝はのことをご存じないのです。は、絶大な権力を握っています。愛など、関係ありません。自分の為なら、誰であろうと、簡単に殺してしまいます」


 オーディンは、彼の為に戦った兵士らを殺した。流行り病に罹った彼らを置き去りにし、或いは毒を渡して自殺を勧めた。

 彼の勝利は、兵士らの犠牲があってのことだ。長時間の行軍で疲れ果てた兵士らに戦闘での機敏さを要求し、戦闘で勝利はしたけれども、多くの兵が過労で死んだ。

 オーディンは、彼に絶対の忠誠を誓ったシャルワーヌでさえ、上ザイードの砂漠への過酷な遠征へ送り出した……。


にとって、人は、ポーンに過ぎません。生かすも殺すも、手の内にあるのです」

「その男は、シャルワーヌ・ユベールの命を握っているというのだな?」

「はい」


 貴族であるシャルワーヌは、王族である姉を庇う為に、革命軍に残った。そしてその事実により、政府から、常に疑惑の目を向けられ続けた。


 東の国境で、亡命貴族軍と自分の属する革命軍の間で板挟みになっていた彼は、悩み苦しんでいた。革命軍として亡命貴族軍と戦えば、兄や弟、叔父や従兄弟達を自らの手で殺すことになりかねない。

 とはいえ軍では常に、政府からのスパイ、派遣議員の目が光っている。中央からの指令に従わないなどということはできない。また、政府に逆らえば、自分の身はもとより、故郷の姉の身にも危険が及ぶ。


 悩んだ末、シャルワーヌは、オーディン・マークスの傘下へ入った。

 常に戦勝を重ねるオーディンは、政府に圧力をかけることができる。自分の下に逃げてきたシャルワーヌを、麾下の師団長に取り立てるなど、造作もないことだ。

 そもそもオーディン自身も貴族であったため、シャルワーヌに対し、理解があったのだろう。すぐに彼はシャルワーヌを重用し、やがて……愛するようになった。


 だがそれは、シャルワーヌにとって、諸刃の刃だ。

 もし、オーディンに憎まれたら?

 オーディンが彼を、疎ましく思ったのなら!

 シャルワーヌの命は風前の灯だ。もはや彼を助けてくれる者は誰もいない。

 政府と。

 軍と。

 この二つを敵に回し、無事でいられるわけがない。

 だから俺は……。


「シャルワーヌを諦めたのだな?」

まるで心を読んだかのように皇帝が言った。


「……陛下。今、なんと?」


 俺は唖然とした。

 シャルワーヌの為に諦めた?

 考えてもみなかった。

 だって俺は、シャルワーヌに捨てられたのではなかったか。

 リオン号でシャルワーヌは、愛の告白めいたことを口にしていた。でも俺は騙されたりしない。あんなのは口から出まかせだ。だって彼は、永遠にオーディン・マークスを裏切らない。


 「そなたは、シャルワーヌ・ユベールをその男に殺させないために、自ら身を引こうと決意したのだ。だが、彼への思いを諦めることができない。ラルフ・リールに対しては、もちろんそなたは、用心深く接したろう。しかしあれは悪辣な男だ。弱っているそなたに付け込んで、体を奪ったとしても、驚くに値しない」


「ラルフはそんな男ではありません!」

 弱い者から奪うなんて!


「なら、こう言おう。シャルワーヌという男をこのまま愛し続けても、そなたは二度と、彼と逢瀬を重ねることはできない。だから、心と体を切り離し、そなたはラルフ・リールに体を与えた」

「……え?」

「もう一度、考えてみるがいい。転生に際し、なぜそなたは、愛した男のことを忘れたのか。シャルワーヌ・ユベールのことが記憶から抜け落ちてしまったのか」

「……」


 俺は息を飲んだ。

 皇帝が今、真実に迫ろうとしているのだと感じた。


「……」


「自分が愛し続けていると、シャルワーヌ・ユベールの身に災禍が降りかかる。そう思い、そなたは、身を引き、その男に譲り渡そうとした。そなたの意志は非常に強かった。だから、死に臨んで、彼の記憶をすっぱりと削り落としてしまった……。違うかね?」

「……」


 自分にも隠していた自分の本心に向かい合った時、人は言葉をなくす。

 今の俺は、まさにその状態だった。


 気がつくと、小刻みな呼吸を繰り返していた。息が苦しい。急に薄くなった酸素を求め、喘いだ。視界が暗くなり、頭の芯がぶれ初めた。今にも意識を失いそうだ。


 わななく唇が、突然、何かが塞がれた。柔らかく湿った感触が、そのまま唇の上で留まっている。

 唇が割られることはなかった。口腔内には何も侵入してこない。

 ただ、唇同士が触れるだけ……。


 目を大きく見開いたまま、俺は固まった。息をすることさえも忘れてしまう。


 数分が流れた。

 いや、もっと短かったのかもしれない。

 塞がれた時と同じように、何の前触れもなく解放された。冷たい夜気が、暖かく潤った唇を撫でる。


「治まったか? 息はできるようになったか」

 平静な声が問うた。


 呼吸の発作は治まっていた。しばらく息を止めたことで、過呼吸が治まったのだろう。

 ……キスではなかった?

 わからない。

 ……皇帝は俺の発作を治める為に唇を塞いだ?

 ただただ混乱し、瞬きを繰り返す。


 ランプのシェードが下ろされた。辺りを薄闇が覆う。


 「少し眠るがよい。今宵の物語は、何を所望か?」

 相変わらず感情の乱れのない、落ち着いた声が尋ねる。

「悪人の罰せられる話を。そして、悪人のいなくなった世界で、人々が幸せに暮らす話を」


 顔を隠そうとした両手を、暖かい掌が包み込んだ。

 いつまでたっても離されることはなかった。

 皇帝は話し始めようとしない。








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